第39話 親友の悩み
障害物競走は、最高だった。
俺、佐藤健太と、星野葵は、二人ペアで。
麻袋に入って、ぴょんぴょん跳ねて。
網をくぐって、平均台を渡って。
そして最後は、二人でパン食い競走。
葵が、あんパンを口で咥えているのを、すぐ隣で見て。
その少しだけ、開かれた唇が、やけに色っぽくて。
俺は、ゴールした後、周りの目も気にせず、葵を抱きしめそうになった。
危ない。危ない。
「健太、やったね! 一位だよ!」
「おう! 葵の、おかげだな!」
俺たちは、ハイタッチを交わし、笑い合った。
幸せだった。 心の底から、そう思った。
葵の、太陽みたいな笑顔を見ているだけで、俺の心は温かいものでいっぱいになる。
でも、その幸せのすぐ隣に。
黒くて重い悩みが、ずっと居座っていることも、俺はわかっていた。
◇
俺と葵が付き合い始めたのは、去年の体育祭の後だった。
吹奏楽部の練習を終えた葵を、俺が、人生のすべてを懸けるくらいの勇気を振り絞って呼び止めたのだ。
『星野さん! 俺と、付き合ってください!』
今、思い出しても、顔から火が出そうなくらい、ダサい告白だった。
でも、葵は、驚いたように、目を見開いた後、顔を真っ赤にして、「……はい」と、小さく頷いてくれた。
あの日から、俺の世界は、色鮮やかに輝き始めた。
葵は、清楚、という言葉が、そのまま人間になったような女の子だ。
長い黒髪が、綺麗で。いつも楽しそうにクラリネットを吹いている。 性格は、明るくて優しい。
でも、少しだけ、人見知りなところもあって。 人前では言葉少なめ。
でも、俺と二人きりになると、甘えて、俺の腕に、そっと寄り添ってきたりする。
その仕草が、たまらなく可愛い。
俺は、葵のことが、本当に大好きだった。
だが、問題があった。
俺たちは、付き合ってもうすぐ一年になるというのに。 まだ、キスすらしたことがないのだ。
手を繋ぐのは、当たり前になった。
デートの帰り道、二人きりになった公園で抱きしめたこともある。
でも、その先へ、進めない。
葵は、身持ちが固い、というか、多分、そういう経験がないで、そういうことへの恐怖心があるんだと思う。
俺が、少しでも、いい雰囲気になって、顔を近づけようとすると、彼女は、びくりと、身体をこわばらせてしまうのだ。
その、怯えたような顔を見ると、俺は、それ以上何もできなくなる。
葵を、怖がらせたくない。
葵に、嫌われたくない。
その、臆病な気持ちが、俺の、一歩を、踏みとどまらせる。
俺も、ヘタレなのだ。
駆のことを、とやかく言える立場じゃない。
葵は、今の関係でも、すごく幸せそうだ。
でも、俺は?
俺は、もっと、葵に触れたい。
葵と、キスがしたい。
そして、いつかは、その先も……。
そんな、男としての当たり前の欲望を、俺は、ずっと持て余していた。
◇
体育祭の打ち上げは、めちゃくちゃ盛り上がった。
ファミレスで、みんなで、今日の健闘を称え合い、馬鹿な話で笑い合った。
駆と日高さんは、リレーでの優勝の後、なんだか、すごく、いい雰囲気だった。
二人で、照れくさそうに、でも、幸せそうに笑い合っている。
よかった。
本当によかった。
親友の、幸せそうな顔を見て、俺も、自分のことのように、嬉しかった。
だからこそ、余計に、自分のことが、情けなくなる。
あいつらでさえ、一歩、前に進んだというのに。俺は、まだ、スタートラインで、足踏みをしているだけだ。
ファミレスを出て、駅前で解散した後。
俺は、葵を、バス停まで送っていった。
駆と日高さんは、二人で、同じ方向に帰っていく。
その後ろ姿が、少しだけ、羨ましかった。
俺は、葵と別れた後、一人、帰り道を、とぼとぼと歩いていた。
その時だった。
「よぉ、健太。一人か?」
後ろから、声をかけられた。
振り返ると、そこには、蓮が、ひらひらと手を振りながら、立っていた。
「……おう。お前こそ、彼女さんと一緒じゃねぇのかよ」
「あいつは、方向が逆だからな。……で? 話、あんだろ」
「……なんで、わかんだよ」
「顔に、書いてあんだよ。『愛する彼女のことで、死ぬほど悩んでます』ってな」
蓮には、何もかも、お見通しだった。
俺は観念して、口を開いた。
「……俺、葵のこと、すげぇ大事なんだ。……世界で一番好きだって、本気で、思ってる」
「おう。知ってる」
「でもさ……。その。なんていうか……」
言葉が詰まる。
恥ずかしくて、情けなくて、言えない。
でも、言うしかない。
こいつにしか、相談できない。
合宿の夜、あんなに堂々と、初体験の話をしていた、こいつにしか。
「……まだ、キスも、してねぇんだよ」
俺が、そう言うと、蓮は、きょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「ぶはっ! なんだよ、健太! そんなことかよ!」
「そ、そんなことって、言うなよ! 俺にとっては、一大事なんだよ!」
俺は、顔を真っ赤にして怒鳴った。
蓮は、「わりぃわりぃ」と、涙を拭いながら言った。
「いや、てっきり、もっと、深刻な悩みかと思ってさ。……で? それが、どうかしたのかよ」
「……どうかって。俺たち、もう、付き合って、一年だぞ? それなのに、まだ、キスも、してねぇんだ。俺、男として、おかしいのかなって……。葵も、本当は、したいのに、俺がヘタレだから、我慢してるんじゃないかって……」
そう。
それが、俺の、悩みだった。
葵は、何も言わない。
でも、時々、二人きりになった時。
彼女が、俺に、何かを期待するような、潤んだ瞳を向けてくることがあるのだ。
そのたびに、俺は、どうしていいかわからなくなって。結局、いつも何もできずに終わってしまう。
そんな自分が、嫌で、嫌で、仕方なかった。
「……なるほどな」
蓮は、ようやく笑うのをやめて、真剣な顔で頷いた。
「……健太。お前、焦ってんだろ」
「……まあな」
「一番、やっちゃいけねぇやつだな、それは」
「え?」
「いいか、健太。女ってのはな、男が思うより、ずっと敏感なんだよ。お前が、焦って事を進めようとしたら、葵ちゃんは、絶対にそれに気づく。そして傷つくぜ。『私のこと、好きなんじゃなくて、ただ、ヤりたいだけなんだ』ってな」
蓮のその言葉は、まるで鋭いナイフのように、俺の胸に突き刺さった。
「……じゃあ、俺はどうすりゃいいんだよ」
「簡単だって。……お前は、葵ちゃんのこと、どうしたいんだ?」
「どうしたいって……。そりゃあ、大事にしたい。……幸せに、したい」
「だろ? だったら、それを、伝えるだけでいいんだよ」
蓮は、そう言って、俺の肩をポンと叩いた。
「目があったとき、いつもより、ちょっとだけ長く見つめてみろ。いつもより、ちょっとだけ優しく抱きしめてやれ。そして、『葵のこと、めちゃくちゃ好きだ』って、ちゃんと言葉にして伝えてやれ。女はな、そういう小さな積み重ねで安心するんだよ。で、ムードが、最高に高まった、その時に。自然と、心も、身体も、次に進むはずだ」
蓮は、最後に、俺の肩をもう一度力強く叩いた。
その、あまりにもスマートで、大人びたアドバイスに、俺は、ただ呆然と、頷くことしかできなかった。
「……サンキュ、蓮」
「いーってことよ。……まあ、俺も、今の彼女と、初めての時は、お前みたいに、死ぬほど、悩んだけどな」
蓮はそう言って、少しだけ照れたように笑った。
その顔は、いつものチャラついた蓮とは全く違う、一人の男の顔をしていた。
俺は、こいつが親友で本当によかったと、心の底から思った。
空は、もうすっかり、夜の闇に包まれている。
俺は、蓮と別れ、一人、帰り道を歩き始めた。
心は、まだ少しだけ重い。
でも、さっきまでの真っ暗なトンネルの中に、ほんの少しだけ光が差したような気がした。
俺と葵。
俺たちには、俺たちのペースがある。
焦らなくていいんだ。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
秋の夜の空気が、美味しかった。
本筋から離れた閑話なので、本日2話目の更新です。健太くんと葵ちゃんの話でした。
今後もときどき登場します。




