第37話 最後の直線
体育祭の、すべてを締めくくる最終種目、チーム対抗リレー。
グラウンドの熱気は、最高潮に達していた。
各チームの応援団が、声を枯れさんばかりに、声援を送っている。
ブラスバンドが演奏する、勇ましいファンファーレが、俺たちの闘争心を、否応なく掻き立てる。
総合得点は、俺たち桃組と、神崎率いる白組が、まさかの同点でトップに並んでいた。
つまり、このリレーで先にゴールしたチームが、総合優勝を手にすることになる。
これ以上ない、最高の舞台だった。
俺、桜井駆は、アンカーとして、第四コーナーのスタート位置に立っていた。
心臓の鼓動が激しく、身体が震えている。
でも、それは、恐怖や不安から来るものではない。
武者震いだ。
早く、走りたい。
早く、決着をつけたい。
俺の全身の細胞が、そう叫んでいた。
俺の視線の先、数メートル離れた場所で、神崎が同じように、アンカーとしてスタートの準備をしていた。
あいつは俺を一瞥すると、ふん、と鼻で笑い、挑発するように首をこきりと鳴らした。
その余裕綽々の態度が、俺の心の奥底の導火線に静かに火をつける。
俺は、ゆっくりと観客席に視線を向けた。
いた。
最前列で、舞たちと一緒に祈るように手を組んでいる陽菜の姿。
目が合った。
彼女は何も言わない。
でも、その潤んだ瞳が、俺にすべてを伝えてくれていた。
『頑張って』
『信じてる』
『負けないで』
その声なき声援が、俺の一番の力になる。
俺は陽菜から視線を逸らし、今度は三年生の観覧スペースへと目を向けた。
いた。
西園寺先輩が、腕を組み、面白そうに、こちらを見ている。
その粘着質な視線が、陽菜に向けられていることに、俺は気づいていた。
その獣のような目に、俺の、腹の底から黒い怒りが込み上げてくる。
(……見てろよ)
神崎にも、西園寺先輩にも。
そして、何より陽菜に。
俺は、俺の走りで証明する。
俺の覚悟を。
俺の誇りを。
俺は、静かに、闘志を燃やしながら、第一走者が、スタートラインに並ぶのを見つめていた。
――パンッ!
乾いた号砲が、青空に響き渡った。
第一走者が、一斉にスタートする。
桃組の、第一走者は健太だった。
「いけー! 健太ー!」
俺は、声を張り上げて叫んだ。
健太は、持ち前の力強い走りで、ぐんぐんと加速していく。
コーナーを曲がり最後の直線。 白組の選手と、ほぼ互角の戦い。
二人は、もつれるように、第二走者へとバトンを渡した。
第二走者は、サッカー部の俊足の選手だ。
彼は、軽やかな足取りでトラックを駆け抜けていく。
だが、相手の白組も速い。 差はほとんど開かない。
一進一退の攻防。 観客席からの歓声が地鳴りのように響き渡る。
そして、第三走者。
桃組の第三走者は蓮だった。
彼は、バトンを受け取ると、まるでダンスを踊るような滑らかなフォームで加速していく。
「……ちくしょう、速えぇ……!」
俺は思わず、そう呟いていた。
蓮の走りは、腹が立つくらい、滑らかで速かった。
俺が、陽菜の隣で走るはずだったのに。
その場所を、いとも簡単に自分のものにして。
そして、こんな大舞台で完璧な走りを見せつけている。
ムカつく。
最高に、ムカつく。
でも、今は、そんな個人的な感情はどうでもいい。
俺たちは、同じ桃組の仲間だ。
俺に、最高の位置でバトンを渡そうとしてくれている。
「……いけー、蓮!」
俺は叫んだ。
それは、嫉妬と焦りと、そして、仲間としての信頼が、ごちゃ混ぜになった複雑な声だった。
蓮は、コーナーでぐっと内側に入り込み、白組の選手を半歩リードした。
そして、いよいよ俺の番がやってくる。
蓮が、最後の直線に入り、こちらへと迫ってくる。
その、すぐ後ろには白組の選手が、ぴったりと食らいついている。
差はほとんどない。 ほぼ同時。
俺は走り出す。
蓮との、完璧なタイミングでのバトンパス。
バトンが、俺の右手に吸い付くように収まった。
「駆! 頼んだぞ!」
蓮の叫び声を背中に受けて。
俺は最後の二百メートルへと飛び出した。
◇
(……カケル!)
観客席で、私は、祈るように両手を胸の前で握りしめていた。
カケルが、バトンを受け取った。
白組のアンカー、神崎くんとほぼ同時。
ここから、二人の一騎打ちだ。
私の心臓は、今にも、張り裂けそうなくらい速く、大きく脈打っていた。
周りの、桃組の応援の声援が、まるで遠い世界の音のように聞こえる。
私の世界には、今、トラックを走るカケルの姿しか映っていなかった。
「陽菜、大丈夫? 息、止まってるよ!」
隣で、舞が、私の背中をさすってくれる。
気づかなかった。
私は、息をすることすら忘れて、カケルの走りを見つめていたのだ。
頑張って。
お願い。
負けないで。
心の中で、何度も、何度も、そう繰り返した。
保健室で見た、カケルの傷ついた顔。
私の手を、力強く握りしめてくれた、あの温もり。
カケルは、今、私のために戦ってくれている。
ううん違う。
カケル自身の、誇りのために戦っている。
でも、その誇りの、ほんの片隅にでも、私の存在があるのだとしたら。
それだけで、私は、胸が、張り裂けそうなくらい嬉しかった。
私の声援が、どうか、彼に届きますように。
◇
風になる。
ただ、ひたすらに前へ。
すぐ隣を、神崎が走っているのがわかる。
あいつは、俺とは対照的に、リラックスした美しいフォームで走っていた。
まるで、遊んでいるかのように。
その、余裕綽々の態度が、俺の闘争心を、さらに燃え上がらせる。
コーナーを曲がる。
遠心力に、身体が、持っていかれそうになるのを、必死で堪える。
神崎が、少しだけ前に出た。
くそっ。 速い。
やはり、こいつは本物だ。
だが、俺は諦めない。
絶対にだ。
最後の直線。
俺と、神崎は、ほとんど横一線に並んでいた。
ゴールラインが遠い。
息が苦しい。
脚が、鉛のように重い。
身体が悲鳴を上げている。
もう、限界かもしれない。
そう、思った瞬間だった。
「カケルーーーーッ!」
その声は、どんな大歓声よりも、はっきりと俺の耳に届いた。
陽菜の声だ。
俺は顔を上げた。
応援席の一番前で。
陽菜が、涙を目に溜めながら。
必死に、俺の名前を叫んでいる。
その姿を見た瞬間、俺の中で、最後の何かが弾けた。
(……陽菜)
俺は、歯を食いしばった。
腕を振れ。
脚を前に出せ。
今まで、流してきた汗を信じろ。
そして、俺を、信じてくれている、あいつの想いに応えろ。
西園寺先輩の、あの、下劣な顔が頭をよぎる。
神崎の、見下したような目が頭をよぎる。
うるせぇ。
お前らなんかに、俺たちの邪魔はさせない。
陽菜は、俺が守る。
「うおおおおおっ!」
俺は、雄叫びを上げて、最後の最後の力を振り絞った。
ゴールラインが、目の前に迫ってくる。
神崎の、苦しそうな息遣いが、すぐ隣で聞こえる。
もう、何も見えない。
ただ、ゴールテープだけを目指して。
俺は、そこに、身体を投げ出すように飛び込んだ。
◇
ゴールテープを切ったのが、ほぼ同時だったため、結果は審判の先生たちがビデオで確認することになった。
俺と、神崎はトラックの上に倒れ込んだまま、動けなかった。
全身が痛い。
でも、不思議と、心は穏やかだった。
俺は、すべてを出し切った。
もう、悔いはない。
グラウンド全体が、固唾を呑んで、判定の結果を待っている。
やがて、場内に、アナウンスが響き渡った。
『ただ今の、チーム対抗リレー。ビデオ判定の結果……一着は、……桃組!』
その瞬間、グラウンドが、割れんばかりの歓声に、包まれた。
健太と、蓮が、俺の上に飛び乗ってくる。
「やったな、駆!」
「てめぇ、最高だぜ!」
俺は、二人にもみくちゃにされながら、ただ笑っていた。
勝った。 俺は、勝ったんだ。
俺は、ゆっくりと身体を起こした。
そして、応援席を見る。
陽菜が、舞と、抱き合って泣いていた。
そして、俺に気づくと、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、最高の笑顔で手を振ってくれた。
その笑顔を見て。
俺も、心からの、笑顔で頷き返した。
俺たちの、体育祭は、最高の形で幕を閉じた。
俺は、陽菜のあの笑顔を、一生忘れないだろうと思った。




