第36話 獣の視線、再び
保健室での、あの出来事から、一時間が経っていた。
俺、桜井駆は、桃組のテントの下で、次の出場種目であるチーム対抗リレーに向けて、入念にストレッチをしていた。
心は、驚くほど穏やかだった。
陽菜と、ちゃんと話ができた。
俺の情けない本音を、彼女は、涙を流しながら受け止めてくれた。
そして、彼女も、俺と同じ気持ちでいてくれた。
『カケルの隣が、いい』
その言葉が、今も俺の胸の中で、温かい光を放っている。
もう、迷わない。
俺は、俺の走りで、あいつに応える。
神崎に勝ち、桃組を優勝に導く。
そして、今日こそ、陽菜の心からの笑顔を、もう一度、見るんだ。
「駆、次のリレーのアンカー、頼んだぞ」
健太が、俺の隣に座り、スポーツドリンクを差し出してくれた。
その顔は、いつになく真剣だった。
「……おう。任せとけ」
「神崎の奴、白組のアンカーらしい。……あいつにだけは、絶対に負けんじゃねぇぞ」
「……わかってる」
俺と健太が、闘志を燃やしていると。
ふと、俺は、ある視線に気づいた。
テントの少し離れた場所。
三年生の観覧スペース。
その、人混みの中に、見慣れた、そして、見たくもない顔があった。
(……なんで、あいつが)
西園寺巧。
男子テニス部の、あの、クズな先輩だった。
三年生も体育祭には参加しているが、受験を控えた彼らの多くは、午前中のいくつかの競技に出るだけで、午後は自由参加のようなものだ。
案の定、西園寺先輩は、体操服を着てはいるものの、ハチマキもせず、腕を組んで、つまらなそうにグラウンドを眺めている。
なぜ、帰らずに残っているんだ?
疑問に思った、その瞬間。
俺は、気づいてしまった。
彼の視線が、どこに向けられているのかに。
その視線の先には、女子の応援席で、舞たちと楽しそうに笑い合っている、陽菜の姿があった。
その目は、獲物を見つけた、飢えた獣の目だった。
粘着質で、いやらしくて、相手をモノとしてしか見ていない、欲望にまみれた獣の視線。
合宿の夜の、あの悍ましい記憶が、鮮明に蘇る。
『お前の、大事な、大事な、幼馴染ちゃん。俺が、初めてを、めちゃくちゃにして、啼かせてやるってな』
その言葉が、俺の頭の中で反響した。
途端に、俺の、穏やかだった心は、再び、黒い怒りの炎に包まれた。
(……てめぇ)
なんで、ここにいる。
陽菜に、近づくんじゃねぇよ。
俺は、立ち上がりそうになるのを、必死で堪えた。
ここで俺が騒いだところで、何の意味もない。
今は、リレーに集中しなければ。
俺が、自分にそう言い聞かせていると、西園寺先輩が動いた。
彼は、人混みを抜け、陽菜たちがいる応援席の方へと、ゆっくりと歩いていく。
俺の心臓が、ドクン、と、大きく嫌な音を立てた。
◇
(……よかった。カケルの顔、さっきより、ずっといい)
応援席で、私は、カケルの姿を目で追っていた。
保健室での、あの出来事。
彼の不器用な、でも、真っ直ぐな言葉。
握りしめてくれた、大きな手の温もり。
そのすべてが、私の、不安でいっぱいだった心を、温かいもので満たしてくれていた。
もう、大丈夫。
私たちは、大丈夫だ。
「陽菜、さっきから、ずっと桜井くんのこと見てるね。顔、ニヤけてるよ」
隣にいた舞が、私の脇腹を肘で突いてくる。
「へっ!? そ、そんなことないし!」
「ふーん? まあ、いいけど。……でも、よかったね。仲直り、できたみたいで」
「……うん。ありがとう、舞」
私が、照れながら、そう答えた、その時だった。
「よぉ、日高。応援、熱心だな」
すぐ近くから、馴れ馴れしい声が聞こえた。
その声に、私の心臓が、きゅっと、冷たく縮こまる。
振り返ると、そこに、西園寺先輩がニヤニヤしながら立っていた。
「……西園寺先輩。こんにちは」
私は、愛想笑いを顔に貼り付けた。
関わり合いたくない。
でも、無視するわけにもいかない。
「いやー、それにしても、日高は可愛いな。体操服姿もそそるぜ」
「……どうも」
先輩は、私の隣に、断りもなくどかりと腰を下ろした。
近い。 距離が近すぎる。
汗と、甘ったるい香水の匂いが混じった、不快な匂いが鼻をつく。
私は無意識に、舞の方へと身体を寄せた。
「なあ、日高。この後、暇か? 体育祭終わったら、二人でどっか抜け出さねぇ?」
「すみません。今日は、この後、打ち上げがあるので」
「えー、つれねぇな。俺と、二人きりの特別レッスンの方が楽しいと思うけどな?」
先輩はそう言って、私の肩に手を伸ばしてきた。
合宿の時と同じだ。
私は、びくりとして身を固くした。
◇
(……ちっ、ガードが固ぇな)
俺は、内心で舌打ちをした。
日高陽菜。
女子ソフトテニス部で見かけて以来、ずっと、狙っていた獲物だ。
小柄なくせに、あの、アンバランスなほどデカい胸。
怯えた小動物みたいな、あの目。
男の、庇護欲と加虐心を同時にくすぐる、極上の素材だ。
ああいう女を、力でねじ伏せて、啼かせるのが、俺はたまらなく好きなのだ。
だが、こいつは、思ったより手強い。
いつも、あの桜井とかいう目障りなガキが隣にいる。
今日もそうだ。
俺が、少し、触れようとしただけで、あのガキが、鬼のような形相で睨んできた。
すごい勢いでこちらに向かってきている。
(……まあ、いいか)
今日のところは、引いてやる。
こいつは時間をかけて、じっくりと、外堀を埋めていくのが正解だろう。
それに、俺には、もう次の獲物の目星もついている。
さっき、応援席で見つけた、一年生のあの女。
まだ、男を知らなそうなウブな顔。
それでいて、瑞々しい柔らかな身体。
ああいう、まだ熟れていない果実を、最初に味わうのも、また一興だ。
俺は、桜井とかいうガキに視線を戻した。
俺の遊びの邪魔をしやがった、このガキ。 少しだけ、お仕置きをしてやるか。
◇
「……先輩」
低くて、冷たい声。
見ると、いつの間にか、カケルが私たちの前に立っていた。
その顔は、今まで見たこともないくらい、怒りに満ちていた。
◇
「……先輩。陽菜に、何か用ですか」
俺の声は、自分でも、信じられないくらい低く、ドスの利いた声だった。
西園寺先輩は、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに面白くてたまらない、というように、口の端を歪めた。
「お、桜井じゃん。なんだよ、彼氏気取りか? プールでも、そんなこと、言ってたらしいじゃねえか。『俺の彼女だ』、とかなんとか」
先輩のその言葉に、陽菜の肩が、びくりと震えたのがわかった。
俺は、陽菜を自分の背中に庇うように一歩前に出た。
「……陽菜に、触らないでください」
「はっ! ウケる。お前、本気でこいつのこと守れるとでも思ってんのか?」
西園寺先輩は立ち上がり、俺の目の前に立った。
俺より少しだけ背が高い。 その見下すような視線。
「いいか桜井。お前みたいなガキには、まだわかんねぇだろうけどな。女ってのはな、結局、強い男に、惹かれるもんなんだよ。お前みたいな、走るのが速いだけのヘタレじゃなくてな」
「……」
「まあリレー、頑張れよ。お前が、必死に走ってる間に、俺は、お前の大事な陽菜ちゃんと、もっと仲良くなっといてやるからさ」
その、あまりにも下劣な挑発。
俺は、拳を、強く強く握りしめた。
殴りたい。 今すぐ、この歪んだ顔を殴りつけてやりたい。
でもダメだ。 ここで、俺が手を出したら、すべてが終わりだ。
俺は、必死に怒りを堪えた。
「……行こう、陽菜」
俺は、陽菜の手をぐっと掴んだ。
そして、西園寺先輩に背を向けて、その場を離れようとした。
「……まあ、待てよ」
先輩が、俺の肩を掴んだ。
「……リレー、楽しみにしてるぜ。お前が神崎に負けて、無様に泣きっ面晒すのをな。……そしたら、日高も、がっかりして気付くだろ。俺とお前、どっちが本当にいい男か、ってな」
そう言って、先輩は、俺の耳元で囁いた。
「……せいぜい、頑張れよ。……俺に、そのおもちゃ、取られちまわねぇようにな」
その言葉を最後に。
俺の中で、何かが完全に決まった。
俺は、先輩の手を振り払った。
そして、陽菜の手を強く握りしめ、無言でその場を立ち去った。
俺たちの、桃組のテントに戻るまでの短い道のり。
陽菜は、何も言わなかった。
ただ、俺の手を、同じくらいの力で握り返してくれていた。
その、小さな手の温もりだけが。 今、俺の唯一の支えだった。
テントに戻ると、健太が、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「駆、大丈夫か!? 西園寺先輩に、何かされたのか!?」
「……なんでもねぇよ」
俺は、短く、そう答えた。
そして、陽菜の手をそっと離す。
「……ごめんな、陽菜。また嫌な思いさせた」
「……ううん。……ありがとう、カケル。……守ってくれて」
陽菜はそう言って、少しだけ潤んだ瞳で微笑んだ。
その笑顔を見て、俺の決意は、さらに固まった。
もう、迷わない。
俺は、勝つ。
神崎にも、そして、西園寺先輩みたいなクズにも。
俺は、俺の走りで証明する。
俺こそが、陽菜の隣に立つに、ふさわしい男なんだと。
俺は、静かに闘志を燃やしながら、リレーのスタートの時を待っていた。




