第35話 策士の視線
俺、橘蓮は、人間観察が趣味だ。
特に、恋愛が絡んだ時の人間の、あの滑稽で、愛おしいほどの必死さを見るのが、三度の飯より好きだった。
普段はクールを気取ってる奴が、好きな女の前ではしどろもどろになったり。
優等生タイプの女子が、嫉妬に狂ってとんでもない行動に出たり。
高校なんていう狭い箱庭は、まさに人間観察の宝庫だ。
見栄と本音、嫉妬と憧れ。
いろんな感情が渦巻いていて、飽きることがない。
そして、俺の親友、桜井駆は、最高の観察対象だった。
夏休み前のあいつは、恋愛というゲームのルールすら知らない、ただの赤ん坊だった。
隣にいる、国宝級の美少女の価値にも気づかず、ただ、ぼんやりと日々を過ごしているだけ。
それはそれで、絶滅危惧種を見るようで面白かったが、正直、退屈だった。
だが、夏合宿が、すべてを変えた。
あの、眠れない夜の「《《作戦会議》》」。
俺が、少しだけリアルな初体験の話をしてやった時の、あいつの顔。
驚きと戸惑いと、そして、隠しきれない強烈な好奇心。
あの瞬間、あいつの中で、何かが生まれたのだ。
「男」としての本能の炎が。
それからの駆は、見ていて飽きなかった。
今まで、視界にすら入っていなかったであろう、陽菜ちゃんや、他の女子の身体のラインを、無意識に目で追うようになった。
陽菜ちゃんの、体操服姿の揺れる胸。
小野寺の、ストレッチで露わになる白い腹。
そのたびに、あいつは、自分で自分の感情に戸惑い、顔を赤くして自己嫌悪に陥る。
面白い。
実に、面白い。
今まで、女子が苦手だったはずの駆が、こんなにも、わかりやすく「女」に振り回されている。
人間らしくて、すごくいい。
あいつは、まだ、気づいていない。
陽菜ちゃんへの、あの、過保護なまでの独占欲が、ただの幼馴染への情なんかじゃないってことに。
あいつが、小野寺の身体に感じた、あの動揺が、ただのスケベ心だけじゃないってことに。
その二つの感情が、同じ「恋」という名前で呼ばれる、熱病の一種だってことに。
だから、俺が、少しだけ、手助けをしてやる必要がある。
この、停滞したドラマを、一気に加速させるための起爆剤を、投下してやる必要があるのだ。
体育祭の、二人三脚のペア決め。
それは、絶好の機会だった。
俺の親友、桜井駆が、震える手をゆっくりと上げた。
その視線の先には、同じように、顔を真っ赤にして、おずおずと手を上げる、日高陽菜。
教室中が、甘酸っぱい空気に包まれる。
健太が、隣で「よっしゃあ!」と、無言でガッツポーズをしている。
まあ、普通なら、ここで「おめでとう、二人とも!」となるべきなんだろう。
だが、俺は、知っていた。
桜井駆という男が、致命的なまでに詰めが甘いということを。
案の定、藤井先生からの、無慈悲な宣告。
百メートル走と、二人三脚の、時間重複。
天国から地獄へと、叩き落とされた駆の、あの絶望した顔。
そして、陽菜ちゃんの、悲しそうな顔。
うん。 最高の展開だ。
だが、このままでは、物語が停滞してしまう。
陽菜ちゃんのペア相手として、サッカー部の田中が、手を上げた。
悪くない。あいつも、そこそこイケメンで性格も悪くない。
でも、それではダメなのだ。
駆の、あの、心の奥底に眠る、醜くて熱い独占欲に火をつけるには。
もっと、強力な燃料が必要だ。 田中では役不足だ。
だから、俺はすっと手を上げた。
最高の笑顔で、最高の提案をしてやる。
この、停滞したドラマを、一気に加速させるための起爆剤を。
「先生。それなら、俺が出ましょうか?」
教室中の視線が、俺に集まる。
快感だった。
俺は、この物語のただの観客じゃない。
時として、物語を動かす脚本家であり、演出家にもなるのだ。
駆の俺を見る目。
そこには、驚きと戸惑いと、そして、かすかな裏切られたような色が浮かんでいた。
それでいい。 もっと俺を憎め。
もっと、俺に嫉妬しろ。
お前が、本当に手に入れたいものが何なのか、その心に刻みつけてやる。
陽菜ちゃんの、助けを求めるような潤んだ瞳。
ごめんな、陽菜ちゃん。
これも、全部、あんたたち二人のためなんだ。
俺は、心の中で、そう呟きながら、最高の笑顔で彼女の肩をポンと叩いた。
さあ第二幕の、始まりだ。
二人三脚の練習は、予想以上に楽しかった。
いや正確には、駆の、あの嫉妬に狂った視線を背中に浴びながら、陽菜ちゃんと密着するのは、最高にスリリングだった。
「陽菜、力、入りすぎ。もっと、リラックスして」
「ご、ごめん!」
俺が、わざと親密な声で言うと、陽菜ちゃんの身体はびくりと震える。
可愛い。
素直で、純粋で、一生懸命。
駆が、こいつに惹かれる理由もよくわかる。
俺は、陽菜ちゃんに恋愛感情はない。
俺には、ちゃんと、愛する彼女がいる。
だが、もし、俺がフリーだったら。
本気で駆のライバルになっていたかもしれないな。
なんて。柄にもないことを考えてしまうくらいには、彼女は、魅力的だった。
俺は、練習中、何度も駆を挑発した。
陽菜ちゃんの耳元で、わざと囁いてみせたり。
転びそうになった彼女の腰を、必要以上に長く支えてみせたり。
そのたびに、駆の顔がどんどん死んでいくのが面白くてたまらなかった。
健太が、俺に、怪訝な視線を向けているのもわかっていた。
『お前、本気で、日高のこと、狙ってんのか?』
そんな、声が、聞こえてくるようだった。
違うんだよ、健太。
俺は、火をつけているだけだ。
あいつの、心の中の導火線に。
そして、体育祭当日。
二人三脚の決勝。
スタートラインで、俺は、陽菜ちゃんの耳元で囁いた。
「……あいつに、俺たちの、一番速い走り見せてやろうぜ」
それは、半分は本心だった。
俺は、駆の親友として。
こいつの隣に立つ女は、中途半端な覚悟じゃ務まらないぞ、と。そう、伝えたかったのかもしれない。
結果は、圧勝だった。
ゴールした後、俺は、わざと陽菜ちゃんを、力いっぱい抱きしめた。
その瞬間、遠くで、駆が、背中を向けて去っていくのが見えた。
その傷ついた、孤独な背中。
ごめんな、駆。
でも、これでいい。
男は、一度、どん底まで落ちないと、本当に大切なものには気づけない生き物なんだから。
午後の騎馬戦。
案の定、駆は、神崎の挑発に乗り落馬した。
馬鹿な奴だ。
でも俺は、そんな不器用で、真っ直ぐな駆が嫌いじゃなかった。
そして、保健室へ二人きりで向かう、駆と、陽菜ちゃん。
藤井先生も、なかなかの策士だ。
俺の出番は、もう、終わり。
あとは、主役の二人が、どんな物語を紡いでくれるのか。
俺は観客席で、一人、ニヤリと笑った。




