第34話 騎馬戦と保健室
体育祭当日。
空は、雲一つない、突き抜けるような青色だった。
グラウンドには、各チームの色とりどりのテントが立ち並び、生徒たちの熱気と、応援の歓声が、渦を巻いている。
俺、桜井駆は、桃組のハチマキをきつく締めながら、その喧騒の中心に立っていた。
午前中の競技は、順調に進んだ。
俺が出場した百メートル走は、予選を一位で通過。
決勝でも、自己ベストに近いタイムを叩き出し、桃組に貢献することができた。
陽菜は、観客席の最前列で、舞たちと一緒に、大きな声で俺の名前を呼んでくれた。
その声援が、俺の背中を、強く、強く押してくれた。
だが、俺の心は、まだ晴れなかった。
これから始まる、あの種目のことを考えると、胸の奥がずしりと重くなる。
決勝を走り終えた俺が、息を切らしながらトラックの脇で膝に手をついていると、場内にアナウンスが響き渡った。
『続きまして、午前の部の最終種目、男女混合二人三脚です! 各チームの代表選手は、スタートラインに集合してください!』
そのアナウンスを聞いた瞬間、俺の心臓は、ぎりりと、嫌な音を立てて締め付けられた。
顔を上げると、蓮が、爽やかな笑顔で、陽菜の元へと駆け寄っていくのが見えた。
そして、二人は、他の代表選手たちと共に、スタートラインへと向かっていく。
俺は、その場から動けなかった。
ただ、呆然と、二人の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
◇
スタートラインに立つと、周りの喧騒が、嘘のように遠のいていく。
私の心臓は、今にも、口から飛び出しそうなくらい、速く、大きく、脈打っていた。
隣に立つ、蓮くんの体温が、じかに伝わってくる。
練習の時よりも、ずっと、近い。
「陽菜、緊張してる?」
蓮くんが、私の耳元で、優しく囁いた。
「う、うん。少し……」
「大丈夫。俺がついてるから。……あいつに、俺たちの一番速い走り、見せてやろうぜ」
蓮くんは、そう言って、顎で、トラックの脇に立つカケルを指し示した。
私は、ドキリとした。
彼の顔を見ることができない。
蓮くんの、大きな手が、私の肩をぐっと引き寄せる。
練習の時よりも、ずっと力強く。
その手は、私の胸のすぐ横にあった。
彼の指先が、時々、私の胸の膨らみに、触れるか触れないかの絶妙な位置にある。
(……ち、近い……!)
私の頭の中は、パニックだった。
蓮くんに対するドキドキと。
カケルに見られている、という、恥ずかしさと。
そして、カケルじゃない別の男の子と、こんなに密着していることへの罪悪感。
そのすべてが、ごちゃ混ぜになって、私の思考をぐちゃぐちゃにする。
――パンッ!
号砲が鳴り響いた。
私の身体は、蓮くんに、引っ張られるように走り出す。
「いくぞ、陽菜! いち、に、いち、に!」
「う、うん!」
私たちは、息を合わせて地面を蹴る。
速い。
練習の時とは、比べ物にならないくらい速い。
蓮くんの、リードがうますぎるのだ。
彼の腰に回した、私の手。
私の肩を抱く、彼の手。
その二つの接点から、彼の、熱が、力が、ダイレクトに伝わってくる。
(……すごい)
風が、顔を叩く。
周りの景色が、後ろへと飛んでいく。
怖い。
でも、それ以上に。
楽しい、と、思ってしまった。
カケルじゃない、誰かと、心を一つにして走ることが。
その事実に、私は、また罪悪感を覚えた。
◇
俺は、トラックの脇で立ち尽くしていた。
目の前を、蓮と陽菜が、風のように駆け抜けていく。
速い。
他のペアを圧倒する速さだ。
蓮の、スマートなリード。
陽菜の、必死な、でも美しいフォーム。
二人の身体は、まるで一つの生き物のように、ぴったりと密着している。
蓮の腕が、陽菜の肩を抱いている。
陽菜の手が、蓮の腰に回されている。
その光景が、俺の目の前で、繰り広げられている。
(……やめろ)
見るな。 見たくない。
でも、目が離せない。
陽菜の苦しそうな、でもどこか恍惚としたような表情。
蓮の真剣な、でも、楽しそうな横顔。
その二つが、俺の胸を、どす黒い醜い炎で焼き尽くしていく。
健太が、言っていた。
『蓮の奴、完全に、お前のこと、意識してるぜ』
その言葉の意味が、今、痛いほどわかった。
あいつは、俺に見せつけているのだ。
お前にはできないことを、俺はできるのだと。
お前の大切な幼馴染を、俺は、こんなにも輝かせることができるのだと。
俺は握りしめた拳が、小刻みに震えているのに気づいた。
嫉妬。 ただひたすらに醜い嫉妬の感情が、俺の全身を支配していた。
やがて二人は、一位でゴールラインを駆け抜けた。
「「やったー!」」という、歓声が上がる。
蓮と陽菜はハイタッチを交わし、そして抱き合って喜びを分かち合っていた。
その光景を、俺は、もう見ていられなかった。
俺は、くるりと背中を向けると、誰にも気づかれないように、その場を後にした。
◇
そして午後の部。
体育祭の、華形競技の一つである、男子騎馬戦が始まろうとしていた。
「いいか、お前ら! 俺たち桃組の誇りにかけて、絶対に勝つぞ!」
騎馬の大将を務める、クラスのムードメーカーが雄叫びを上げる。
俺は、騎馬の乗り手として、三人の男子生徒の肩の上に跨っていた。
視線が、高くなる。
グラウンド全体が、見渡せた。
俺たちの、最初の相手は、神崎率いる白組だった。
「よぉ、桜井」
向かいの騎馬の上から、神崎が、俺を、見下すような目で見ていた。
「せいぜい、楽しませてくれよ。お前の、情けない顔を、日高に、見せてやるのが、楽しみでな」
「……てめぇ」
そのあまりにも直接的な挑発に、俺の頭にカッと血が上る。
――ピーッ!
開始を告げる、ホイッスルが鳴り響いた。
「「「うおおおおおっ!」」」
雄叫びと共に、双方十数基の騎馬が、一斉にぶつかり合う。
砂埃が舞い上がり、怒号と歓声が入り混じる。
俺たちは、周りの騎馬には目もくれず、一直線に、神崎の騎馬へと突っ込んでいった。
「させるかよ!」
神崎の騎馬も、正面から俺たちを迎え撃つ。
ガッシリとした騎馬同士が、ぶつかり合う鈍い衝撃。
俺は手を伸ばし、神崎のハチマキを奪い取ろうとする。
だが、神崎はそれをひらりとかわし、逆に、俺のハチマキに手を伸ばしてきた。
「おっと、危ねぇな。……お前の、その必死な顔。日高も見てるぜ?」
神崎は、俺の耳元でそう囁いた。
その言葉に、俺の理性の糸が、ぷつりと切れた。
(……うるせぇ!)
俺は、我を忘れ、身を乗り出し、神崎のハチマキに食らいついた。
その瞬間だった。
俺の騎馬のバランスが、大きく崩れた。
「うわっ!」
騎馬を務めてくれていた、下の三人の悲鳴。
俺の身体が、宙に舞う。
そして、地面に叩きつけられる、強い衝撃。
一瞬、息が、できなかった。
砂埃と、土の匂い。
遠くで聞こえる、誰かの悲鳴。
俺は、薄れゆく意識の中で、ただ、陽菜の、心配そうな顔だけを見ていた。
◇
(……カケル!)
騎馬戦を見ていた私は、カケルが落馬した瞬間、心臓が止まるかと思った。
彼が、地面に叩きつけられ、動かなくなる。
その光景が、スローモーションのように、見えた。
私は、観客席から飛び出していた。
周りの、制止の声も耳に入らない。
ただ無我夢中で、彼のもとへと駆け寄った。
「カケル! しっかりして!」
グラウンドに駆けつけると、そこには、私と同じように、真っ青な顔をした、小野寺さんの姿があった。
彼女も、カケルのことが心配で、駆けつけてきたのだ。
その事実に、胸が、チクリと痛んだ。
でも、今は、そんなことを考えている場合じゃない。
「……いてて……」
カケルが呻きながら、ゆっくりと身体を起こした。
よかった。 意識はある。
でも、彼の、右腕と膝からは、血が滲んでいた。
「桜井くん、大丈夫!?」
「カケル、立てる?」
私と、小野寺さんが、同時に彼に声をかける。
カケルは戸惑ったように、私たちを交互に見た。
その時だった。
「はいはい、君たち、ちょっと落ち着いて」
穏やかな、でも、凛とした声。
担任の藤井先生だった。
先生は、しゃがみ込み、カケルの怪我の状態を手早く確認する。
「うん。たいしたことはなさそうね。ただの、擦り傷。でも、念のため保健室で、消毒してもらいましょう」
先生のその言葉に、私たちは、ホッと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、……日高さん。悪いけど、桜井くんのこと、保健室まで連れて行ってあげてくれるかしら?」
「え……?」
先生のその言葉に、私は驚いて顔を上げた。
私とカケルを、二人きりに?
ちらりと、小野寺さんの方を見る。
彼女は、俯いて、唇をぎゅっと噛み締めていた。
その顔には、悔しさと悲しみが滲んでいる。
「……小野寺さんは、次の競技の準備があるでしょう? 桜井くんのことは、日高さんに任せて大丈夫よ」
藤井先生はそう言って、優しく、でも、有無を言わせない口調で言った。
◇
保健室は、グラウンドの喧騒が、嘘のように静かだった。
白いカーテン。
消毒液の、ツンとした匂い。
俺は、ベッドの縁に腰掛け、陽菜が、俺の傷を手当てしてくれるのを黙って見ていた。
「……染みるかもだけど、我慢してね」
「……おう」
陽菜は、コットンに消毒液を染み込ませ、俺の膝の擦り傷に、そっと当てた。
ぴりりとした鋭い痛み。
俺は、思わず顔を顰める。
でも、その痛みよりも、もっと別の感覚が、俺の全身を支配していた。
近い。
陽菜の顔が、すぐ、目の前にある。
真剣な眼差しで、俺の傷を見つめる長いまつ毛。
傷口を消毒する、小さな白い指先。
陽菜の無防備な姿に、俺の、心臓は、また言うことを聞かなくなる。
「……ごめんな」
俺の口から、ぽつりと、言葉が漏れた。
「え?」
「……心配、かけただろ」
陽菜は、手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
その大きな瞳が、真っ直ぐに、俺を見つめている。
「……当たり前だよ。……心臓、止まるかと思った」
その声は、少しだけ震えていた。
「……なんで、あんな、無茶したの? 神崎くんの、挑発に乗っちゃって……。カケルらしくないよ」
「……」
俺は、何も言い返せない。
陽菜の言う通りだった。
俺は、嫉妬と、焦りで、我を忘れていたのだ。
「……ごめん」
「……ううん。……でも、無事で、よかった。本当に……」
陽菜の瞳から、堪えていた涙が、一筋、ぽろりとこぼれ落ちた。
その涙を見て。
俺は、もうダメだった。
気づけば、俺は、彼女の小さな手を、ぎゅっと握りしめていた。
「……陽菜」
俺は、彼女の名前を呼ぶ。
そして、この数週間、ずっと言えなかった言葉を口にした。
「……二人三脚、……お前と、出たかった」
陽菜が、息を呑むのがわかった。
「俺が、バカだった。何も考えずに、百メートル走に出るなんて言って……。本当は、お前と、ペア組みたかったのに。……蓮と、楽しそうにしてるの見て、……すげぇムカついた」
情けない。
カッコ悪い。
でも、これが、俺の本心だった。
陽菜は、何も言わない。
ただ静かに、俺の言葉を聞いている。
その瞳から、また、涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
でも、それは、悲しみの涙じゃない。
温かくて、優しい涙。
「……私も、だよ」
やがて、陽菜が、震える声でそう言った。
「私も、カケルと出たかった。……蓮くんは優しいけど、……でも、やっぱり、私は、カケルの隣がいい」
その言葉に。
俺の心の中のすべての靄が、すうっと晴れていくのがわかった。
よかった。
陽菜の気持ちは、まだ、俺の隣にいてくれたんだ。
俺たちは、しばらく、そうして手を握り合ったまま、見つめ合っていた。
言葉は、もういらなかった。
ただ、お互いの温もりを確かめるだけで十分だった。
保健室の窓から、秋の涼しい風が吹き込んでくる。
その風が、俺たちの涙の跡を、優しく乾かしてくれた。
まだ、最後のリレーが残っている。
俺は、陽菜の手を、もう一度強く握りしめた。
もう迷わない。
俺は、俺の走りで、陽菜に応えるんだ。




