第33話 黒いモヤモヤ、白い体操服
体育祭までの二週間は、あっという間に過ぎていった。
授業は午前中で終わり、午後はすべて体育祭の練習に充てられる。
だが、俺、桜井駆にとって、その時間は地獄以外の何物でもなかった。
「陽菜、いくぞ! いち、に、いち、に!」
「う、うん!」
俺の目の前で、蓮と陽菜が二人三脚の練習をしている。
蓮の右腕が、陽菜の肩にしっかりと回されている。
陽菜の左腕も、蓮の腰におそるおそる添えられている。
二人の身体はぴったりと密着し、息を合わせて、一歩、また一歩と前に進んでいく。
その光景が、俺の心をどす黒い醜い感情で塗り潰していく。
(……なんで、俺じゃねぇんだよ)
心の中で、何度そう叫んだだろう。
あの時、俺が百メートル走にさえ立候補しなければ、今頃、陽菜の隣にいたのは、俺だったはずなのに。
後悔しても、もう遅い。
俺は、リレーの練習に身が入らないまま、ただぼんやりと、二人の姿を、目で追うことしかできなかった。
蓮は、スマートだった。
「陽菜、足、痛くない? 紐、きつくないか?」
「ううん、大丈夫だよ」
「そっか。でも、無理すんなよ。俺に合わせて転んだりしたら、もったいねぇからな。陽菜は、桃組の女神なんだから」
「も、もう! 蓮くんは、からかうんだから!」
蓮の、そのいとも簡単に繰り出されるキザなセリフに、陽菜は、顔を赤くしながらも、まんざらでもない様子で笑っている。
その笑顔が、俺の胸をナイフのように抉る。
俺には、あんなふうに、陽菜を笑わせることなんてできない。
俺ができるのは、ただ黙って隣にいることだけ。
その、唯一の特等席すら、俺は自分の愚かさで手放してしまったのだ。
「……駆、顔、死んでんぞ」
隣でバトンパスの練習をしていた健太が、呆れたように俺の肩を叩いた。
「……うるせぇ」
「まあ、気持ちはわかるけどな。蓮の奴、ああ見えて、意外とやるからな。日高さんも楽しそうだし」
「……別に、楽しそうじゃねぇだろ」
「いや、楽しそうだって。お前には、そう見えねぇかもしんねぇけど。……それに、どういうつもりか、蓮の奴、完全に、お前のこと意識してるぜ。いつの間にか、蓮の奴、日高さんのこと名前で呼ぶようになってるし」
「は?」
健太の、その言葉の意味がわからなかった。
蓮が、俺を意識してる?
陽菜を巡っての、ライバルとして、か?
俺が、首を傾げていると、健太はやれやれとでも言いたげに、ため息をついた。
「……まあ、いいや。とにかく、お前は、リレーで神崎に勝つことだけ考えろ。いいな?」
「……おう」
そうだ。俺には、まだリレーがある。
陽菜に、俺のリレーの走りを見てもらうんだ。
そして、神埼。あいつだけには、絶対に負けられない。
俺は、陽菜たちから、無理やり視線を引き剥がし、バトンを強く握りしめた。
◇
(……カケル、ずっと、こっち見てる)
蓮くんと、二人三脚の練習をしながら、私は、カケルの突き刺さるような視線を、背中に感じていた。
その視線は、痛いくらいに熱くて。 私の心をかき乱す。
「陽菜、力、入りすぎ。もっとリラックスして」
隣で、蓮くんが、優しい声で言った。
「ご、ごめん!」
「いいって。……あいつのこと、気になる?」
蓮くんは、顎で、カケルの方を指し示した。
私は、ドキリとして、顔が熱くなるのを感じた。
「……別に」
「ふーん? まあ、いいけど」
蓮くんは、それ以上は何も言わず、ただ楽しそうに笑った。
彼には、何もかも、お見通しなのかもしれない。
私は恥ずかしくて、何も言い返せなかった。
本当は、カケルとペアを組みたかった。
彼が、手を上げたとき、嬉しくて舞い上がってしまった。
でも、ダメだった。
がっかりした。
悲しかった。
そして、あの時のカケルの、絶望したような顔が頭から離れない。
彼を、あんなに落ち込ませてしまったことが辛かった。
全部、タイミングが悪かっただけ。
誰のせいでもない。
そう、頭ではわかっているのに。
蓮くんは、すごく、優しい。
私の歩幅に合わせてくれるし、面白い話で和ませてくれる。
彼が、時々、耳元で囁く甘い言葉に、私の心臓は、カケルとは違うリズムでドキッと音を立ててしまう。
ダメだ。
わかってる。
でも、彼のスマートな優しさに、少しだけ、心が揺らいでしまう自分がいるのも事実だった。
「……よし、もう一回行くか。今度は、もうちょっとスピード上げてみようぜ」
「……うん!」
私は、気持ちを切り替えるように、力強く、頷いた。
今は、目の前の練習に集中しなくちゃ。
カケルに、心配、かけさせたくないから。
◇
俺は、トラックの隅で、一人、黙々とスタートの練習を繰り返していた。
陽菜と蓮の楽しそうな声が、風に乗って聞こえてくる。
そのたびに、俺の心はささくれだっていく。
(……くそっ)
集中できない。
イライラする。
そんな、俺の荒んだ心に、追い打ちをかけるように、目の前に、見たくもない顔が現れた。
神崎だった。
あいつは、俺たちとは違う、「白組」のハチマキを頭に巻いている。
「よぉ、桜井。随分と熱心だな。……まあ、才能がない奴は、努力で補うしかないもんな」
その、いつもの、見下したような嫌味な口調。
俺は、無言で、神崎を睨みつけた。
「……なんだよ、その目は。気に食わねぇな。……まあ、いいや。リレー、楽しみにしてるぜ。お前の絶望する顔を、ゴールラインの先で見てやるよ。……日高の、目の前でな」
神崎は、そう言って俺の横を通り過ぎていった。
その背中に、俺は、何も、言い返せない。
悔しい。
腹が立つ。
でも、あいつが、俺より速いのは、事実だった。
俺は、地面を、強く蹴った。
その時だった。
俺の視界の端に、白いものがちらついた。 陽菜だった。
彼女は、二人三脚の練習を終え、今は、女子だけの玉入れの練習に参加しているようだった。
白い体操服に、紺色のハーフパンツ、そして短めの靴下。
その無防備な姿に、俺の心臓は、またドクンと嫌な音を立てた。
走るたびに、ジャンプするたびに。
彼女の豊かな胸が、大きく揺れる。
汗で、白い体操服が、肌に張り付いている。
その薄い生地の下の、スポーツブラのラインが、くっきりと浮かび上がっている。
ハーフパンツから伸びる、しなやかな白い脚。
その、一つひとつが、俺の汚い好奇心を、容赦なく刺激した。
合宿の夜に聞かされた、生々しい初体験の話。
プールで見た、あの陽菜の体操服の下に隠された肌。
そして、一度だけ、この手で触れてしまった、女子の胸の感触。
そのすべてが、ごちゃ混ぜになって、俺の頭の中を、駆け巡る。
(……俺は、最低だ)
嫉妬して、イライラして。
そのくせ、あいつの身体のことは、こんないやらしい目で見てしまう。
自己嫌悪で、吐き気がした。
俺は、その場に、うずくまりたくなった。
でも、できなかった。
陽菜が、こっちを見ているような気がしたからだ。
俺は、ただ、立ち尽くしたまま動けなかった。
秋の、涼しいはずの風が、なぜか、ひどく生暖かく感じられた。




