第32話 嵐の前のペア決め
九月。
あれだけ猛威を振るっていた太陽の熱も、朝晩には少しだけ和らぎ、空には秋の気配を告げる雲が浮かんでいる。
長くて、暑くて、そしてどうしようもなく心をかき乱された夏休みが終わり、俺たちの高校二年生の二学期が始まった。
学校という日常に戻ったことで、俺の心も少しは落ち着くかと思ったが、現実はそう甘くはなかった。
斜め前方、三つ前の席に座る陽菜の、小さな後ろ姿。
授業中に、ふと目が合って、二人して慌てて逸らすあの瞬間。
夏休みを経て、俺たちの間の空気は、確実に変わってしまった。
甘くてむず痒くて、心臓に悪い。
俺、桜井駆は、一日中、このどうしようもない感情と戦い続ける羽目になっていた。
そして、そんな俺の心を、さらにかき乱す一大イベントが、すぐそこに迫っていた。
体育祭だ。
二学期が始まって一週間。
今日のホームルームは、その種目決めが行われることになっていた。
「よっしゃあ! 俺たち桃組、総合優勝目指すぞー!」
教壇に立ったクラス委員長が、拳を突き上げて叫ぶ。
その声に、教室がわっと沸いた。
今年の体育祭は、学年ごとに二クラスずつが合同でチームを組む形式らしい。
俺たち二年五組は、三組と合同で「桃組」として戦うことになっていた。
その発表があった瞬間、女子たちから「きゃー! ピンク! 可愛い!」という歓声が上がり、男子たちからは「うげぇ、桃組かよ……」「せめて赤とかだろ……」という、微妙なうめき声が漏れた。
今日のホームルームは、その三組との合同開催。
いつもより人口密度が二倍になった二年五組の教室は、熱気でむせ返り、いつもよりずっと狭く感じる。
ソーシャルディスタンスって言葉は、どこにいったんだ。
俺は、自分の席で頬杖をつきながら、その光景をどこか他人事のように眺めていた。
体育祭。正直、あまり好きじゃない。
走るのは得意だが、人前に出て大勢で騒ぐのはどうにも苦手だ。
だが、今年だけは少しだけ事情が違った。
陽菜と、ペアを組むことができたら。
そんな淡い期待が、俺の胸の奥で、小さな炎のように静かに燃えていた。
「駆、お前、何に出んだよ。もちろん、チーム対抗リレーのアンカーは、お前に決定だけどな」
隣の席の健太が、俺の肩をバンバン叩きながら言った。
その隣には、いつの間にか三組の葵ちゃんがぴったりと寄り添っている。
「駆くん、よろしくね! 健太から、いつも話は聞いてるよ!」
「……おう」
「おい、葵。あんま駆に近づくなよ。こいつ、意外と女子にモテんだから」
「もー、健太は心配性なんだから。私が好きなのは、健太だけだよ」
「だよな!」
目の前で繰り広げられる、甘ったるいイチャイチャ。
俺は、げんなりしながら二人から顔を背けた。
ちくしょう。羨ましいなんて絶対に思ってないからな。
俺は、ちらりと、陽菜の席に目をやった。
彼女は、親友の舞と、種目一覧が書かれたプリントを覗き込みながら、楽しそうに何やら話し込んでいる。
その横顔は、体育祭への期待でキラキラと輝いていた。
その笑顔を見ているだけで、俺の胸は温かくて、そして少しだけチクリと痛んだ。
あいつが楽しそうなら、まあいいか。
でも、もしほんの少しでも。
あいつの隣に立つことができたら。
そんな叶うはずもない夢を、俺は見ていた。
◇
(……体育祭、か)
教室の喧騒の中、私、日高陽菜は、舞と一緒に種目一覧が書かれたプリントを眺めていた。
二人三脚、障害物競走、玉入れ……。
どれも楽しそうだ。
でも私の心は、一つの種目に、釘付けになっていた。
「男女混合、二人三脚」
その文字を見ただけで、心臓がドキドキと音を立てる。
もしカケルと、この種目に出られたら。
肩を組んで、足に紐を結んで、二人で息を合わせて走る。
想像しただけで、顔から火が出そうだった。
「……陽菜、顔、真っ赤だよ。さては、桜井くんと二人三脚する妄想でもしてたでしょ」
「へっ!? そ、そんなことないし!」
舞に、心の中を完全に見透かされて、私は慌てて首を横に振った。
「ふーん? まあ、いいけど。でも、陽菜から誘ってみたら? 『一緒に、出ない?』って」
「む、無理だよ! そんなこと言えるわけないじゃん!」
「またそれ? 夏休み、あんなにいい感じだったのに、二学期始まったらまた元に戻っちゃってるじゃん。このままじゃダメだって」
「で、でも……」
舞の言うことは、正しい。
わかってる。わかってるけど、怖いのだ。
もし、断られたら?
もし、彼に、「なんで俺が?」みたいな困った顔をされたら?
そう思うと、足がすくんでしまう。
プールでのあの出来事は、まるで、夢の中の出来事だったみたいに現実感がない。
今の、この穏やかで心地よい関係を、壊してしまうのが怖かった。
「……まあ、陽菜の気持ちもわかるけどね。……でも、体育祭はチャンスだよ。頑張ってね」
舞はそう言って、私の肩をぽんと優しく叩いてくれた。
その優しさが嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。
やがて、担任の藤井先生と、三組の担任である武田猛先生が、教壇に立ち、種目決めが始まった。
まずは、個人種目から。
「それじゃあ、まずは百メートル走! 桃組の切り込み隊長は誰だ! 我こそはという者はいないか!」
武田先生が、暑苦しい声で叫ぶ。
途端に、クラス中の視線が、一斉に俺に集まった。
「桜井しかいねーだろ!」
「頼むぜ、エース!」
健太や、クラスの男子たちが口々にはやし立てる。
正直、あまり出たくはなかった。
リレーがあるから、個人種目で体力を消耗したくはなかったのだ。
でも、この期待に満ちた空気を、俺は断ることができなかった。
「……わかりました。出ます」
俺がそう言うと、教室がわっと沸いた。
俺は、その歓声を聞きながら、まあ、百メートルくらいどうってことないか、と、軽く考えていた。
その判断が、後に、致命的な後悔を生むことになるとも知らずに。
◇
個人種目が次々と決まっていく。
そして、いよいよ男女ペアの種目決めが始まった。
「じゃあ次は、障害物競走のペアを決めまーす! やりたい人いる?」
藤井先生の声に、健太と葵ちゃんを始め、数組のカップル(あるいは、そうなりたいであろうペア)が、手を上げる。
ちくしょう。羨ましい。
俺は、固唾を呑んで、その様子を見守っていた。
俺の本命は、二人三脚だ。
障害物競走は、ペアで何かを運んだり、二人で縄跳びをしたりと、協力プレイが求められる。
それはそれで魅力的だが、二人三脚は違う。
もっと直接的だ。 肩を組み腰に手を回し、身体をぴったりと密着させる。
考えただけで、頭が、沸騰しそうだった。
「はい、じゃあ障害物競走は、この三組で決定ね。……それじゃあ、次! メインイベントの一つ、二人三脚のペアを決めまーす!」
来た。
俺は、ごくりと唾を呑んだ。
心臓が、今までにないくらい、速く大きく脈打っている。
どうする。
手を上げるのか?
陽菜を誘うのか?
いや、無理だ。
大勢の前で、そんな告白同然の行為、俺にできるはずがない。
でも、もし、ここで何もしなかったら。
陽菜は、他の誰かとペアになってしまうかもしれない。
そう思うと、腹の底から黒い感情が込み上げてくる。
俺が葛藤していると、隣で健太が、俺の脇腹を肘でぐいと突いてきた。
「行けよ、駆」と、目で合図してくる。
わかってる。 わかってるけど、身体が、動かない。
「はーい! 二人三脚、やりたい人ー?」
藤井先生が、明るい声で立候補者を募る。
数人の男女が手を上げた。
だが、その中に陽菜の姿はなかった。
彼女は俯いたまま、プリントを見つめている。
(……もしかして、待ってて、くれてるのか?)
俺が、手を上げるのを。
その可能性に気づいた瞬間、俺の心臓は、さらに激しく高鳴った。
今しかない。 今、俺が、勇気を出せば――。
すっ、と。
俺は、震える右手を、ゆっくりと上げた。
教室中の視線が、俺に集まるのがわかる。顔が熱い。
◇
(……カケルが、手を、上げた)
その光景を見た瞬間、私の心臓は大きく跳ねた。
二人三脚に、彼が立候補した。
もしかして。
もしかしたら。
私と、ペアを組みたいと、思ってくれてる?
舞が、私の背中をぐいと押した。
「ほら、陽菜! 行きなさい!」
その声に背中を押されて。 私も、おそるおそる手を上げた。
◇
陽菜が手を上げた。
俺の視線の先で。
俺を見て、少しだけはにかんで。
その意味を、俺が理解した瞬間。
俺の胸の中は、今まで感じたことのない幸福感でいっぱいになった。
「お、桜井と、日高か! いいじゃん!」
「最強ペアじゃね!?」
クラス中が盛り上がる。
俺と陽菜は、顔を見合わせて、照れくさそうに笑い合った。
やった。
やったんだ。
俺は心の中で、何度もガッツポーズをした。
その幸福の絶頂で。
俺は、まだ気づいていなかった。
すぐそこに絶望の淵が、口を開けて待っていることに。
「あ、そうだ。桜井くん」
俺が舞い上がっていると、藤井先生が、俺の名前を呼んだ。
「桜井くんは、百メートル走に出るんだったわよね?」
「……は、はい」
「プログラム確認したんだけど、百メートル走の決勝と、二人三脚のスタート時間、ほとんどかぶってるのよ。だから桜井くんが二人三脚に出るのは、ちょっと、難しいと思うわ」
そのあまりにも、無慈悲な宣告に。
俺の頭の中は真っ白になった。
なんだって?
今、なんて言った?
「えー! マジかよ!」
「桜井、お前、アホだろ! なんで、先に確認しねぇんだよ!」
健太や、クラスの男子たちから非難の声が上がる。
うるさい。
俺が、一番、そう思ってる。
俺のバカ。
なんで何も考えずに、百メートル走に出るなんて言ってしまったんだ。
後悔が、津波のように押し寄せてくる。
天国から地獄。 まさに、このことだった。
「うーん、困ったわねぇ。日高さんのペア、どうしましょうか。他に、男子で足の速い人は……」
藤井先生が、困ったように腕を組む。
その時だった。
クラスの隅の方で、一人の男子がおずおずと手を上げた。
田中だった。
確か、サッカー部で、そこそこ足が速いやつだ。
そして、陽菜のことを密かに狙っているという噂の。
「せ、先生! 俺、やります!」
「お、田中くん! やってくれる?」
まずい。
このままでは、陽菜が、田中とペアになってしまう。
それだけは、絶対に嫌だ。
俺が、どうしようかと焦っていると。
俺の、すぐ前の席で、すっと手が上がった。
蓮だった。
「先生。それなら、俺が出ましょうか?」
蓮は、爽やかな笑顔で、そう言った。
「田中も、悪いけど、ここは、俺に任せてもらえないかな? 日高さん、足、速いですよね? 俺も陸上部なので、そこそこ自信あります。この二人で桃組のために、一着狙ってみせますよ」
その、あまりにもスマートで完璧な提案に、教室中が、一瞬だけ、しんと静まり返った。
そして次の瞬間、「おぉー!」「橘、カッコいい!」という歓声が上がる。
俺は、固まっていた。
頭の中が、真っ白になって、何も考えられない。
蓮が陽菜と? なんで? どうして?
俺の視線の先で、陽菜が、同じように固まっているのが見えた。
その顔は、驚きと戸惑いでいっぱいだった。
「え、えっと……。日高さんは、いいかしら?」
藤井先生が、陽菜に尋ねる。
陽菜は、一瞬だけ、俺の方を見た。
その瞳は、助けを求めるように揺れていた。
俺は、何か言わなければ。
「待った」と、手を上げなければ。
でも、声が出なかった。
俺には、もう、その資格がないのだから。
「……は、はい。……別に、大丈夫、です」
陽菜が、か細い声でそう答えるのが聞こえた。
その瞬間、俺の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
「よっしゃ! それじゃあ日高さん、よろしくな!」
蓮が、陽菜の席に行き、彼女の肩をポンと軽く叩いた。
陽菜は、力なく頷いている。
その光景が、まるでスローモーションのように俺の目に映った。
蓮の、馴れ馴れしい手。
陽菜の、小さな肩。
そして、二人の、お似合いの笑顔。
俺は自分の席で、ただ呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。
「……おい、駆。大丈夫か?」
健太が、心配そうに、俺の顔を覗き込む。
大丈夫なわけ、ないだろ。
心臓が痛い。
まるで、誰かに、ぎりぎりと握り潰されているみたいに。
これが、嫉妬という感情なのか。
俺は、そのあまりにも醜くて苦しい感情に、ただ耐えることしかできなかった。
秋風が、教室の窓をカタカタと揺らしている。
その音が、まるで俺の空っぽになった心を、嘲笑っているように聞こえた。




