第31話 二人だけのテニスレッスン
レジャープールでの、あの怒涛の一日から一週間が経った。
八月の終わりが近づき、夏休みも残りわずかとなった土曜日の午後。
俺、桜井駆は、じりじりと照りつける太陽の下、市営のテニスコートの前に立っていた。
隣には、俺の心臓を、いとも簡単に暴走させる元凶――日高陽菜がいる。
「うわー、良い天気!絶好のテニス日和だね!」
陽菜は、空を見上げて、気持ちよさそうに伸びをした。
白いサンバイザーに、ピンク色のラインが入った、いかにもテニス部員らしいウェア。
その動きに合わせて、ひらりと揺れるスコートの裾。
そこからすらりと伸びる引き締まった脚は、日に当たって白く輝いており健康的で眩しすぎた。
プールで見た、透き通るような白い肌とはまた違う躍動感に満ちた魅力。
俺は、直視できずに「……そうだな」と、ぶっきらぼうに答えることしかできなかった。
なぜ、俺たちが、こんな少女漫画のワンシーンみたいな状況に陥っているのか。原因は、数日前の陽菜の一言だった。
『ねぇ、カケル。今度の土曜日、もし暇だったら、テニスしない?』
部活の帰り道、彼女は、少しだけ頬を赤らめながら、そう言ってきたのだ。
断れるはずが、なかった。
プールでの一件以来、俺たちの関係は、明らかに変わった。
気まずさは消え、その代わりに、甘くてむず痒いような、そんな空気が常に漂っている。
俺は、陽菜のことを、もう、ただの幼馴染として見ることはできない。そして、陽菜も、きっと、俺のことを……。
いや、そこまで考えるのは、まだ、早い。
「よし、コート取れたよ! 一時間だけだけど、楽しもうね!」
陽菜は、受付から戻ってくると、ラケットバッグを肩にかけ、意気揚々とコートへと向かう。
俺は、その小さな後ろ姿を、ドキドキしながら追いかけた。
◇
「じゃあ、まずは、ラケットの持ち方からね。カケルは、ほとんど初心者なんだから」
「……おう。よろしく、お願いします」
コートに立つと、陽菜の纏う空気が、がらりと変わった。
いつもの、ふんわりとした、可愛らしい女の子の雰囲気は消え、引き締まったアスリートの顔になる。
そのギャップに、俺は、また心臓を鷲掴みにされた。
「いい? ラケットは、こう、包丁を持つみたいに、軽く握るの。力みすぎると、手首を痛めちゃうからね」
陽菜は、俺の後ろに回り込み、俺の右手に、自分の手をそっと重ねてきた。
「……っ!」
柔らかい。
小さい。
温かい。
陽菜の、手のひらの感触が、俺の、すべての思考を停止させる。
すぐ背後から、彼女の甘い匂いがした。
シャンプーと、汗と、日焼け止めの匂いが混じった、陽菜だけの特別な匂い。
――頭が、クラクラする。
「……カケル? 聞いてる?」
「あ、あぁ! 聞いてる!」
俺は、自分でも驚くほど裏返った声で、そう答えた。
陽菜は、不思議そうな顔をしていたが、すぐに説明を続ける。
「それで、ボールを打つ時は、腰をしっかり落として、身体全体を使って、ラケットを振るの。腕の力だけじゃ、ダメだからね」
彼女は、俺の腰にそっと手を当てて、ぐっと、低い姿勢になるように促した。
腰に触れられた瞬間、俺の身体に、電気が走ったような衝撃が突き抜けた。
(……やばい、やばい、やばい!)
これは、拷問だ。
プールでの、ウォータースライダーよりも、もっと、過酷な拷問。 俺の、なけなしの理性は、もう、限界だった。
◇
(……カケルの身体、すごい……)
ラケットの握り方を教えるために、彼の手に自分の手を重ねた時、私は、心臓が止まるかと思った。
私なんかより、ずっと大きくて、ゴツゴツしていて、硬いマメがたくさんある、男の子の手。
陸上部の練習で、毎日、毎日、努力している証拠だ。 その手に触れただけで、顔が、熱くて、どうにかなりそうだった。
腰に手を当てた時も、そうだ。
薄いTシャツや短パンの上からでもわかる、引き締まった、筋肉の感触。 びくともしない、岩みたいな、体幹。
これが、アスリートの、身体……。
私の、知らない、カケルの姿。
その一つひとつが、私の心を、締め付ける。
(……ダメだ、私。ちゃんと、教えなきゃ)
顔が、熱い。
きっと、真っ赤になっているに違いない。
カケルに、変に思われていないだろうか。 「こいつ、何一人で赤くなってんだ」って、呆れられていないだろうか。 不安で、いっぱいだった。
でも、それ以上に。この、心臓が張り裂けそうなほどの、ドキドキが。幸せで、たまらなかった。
彼が、私のために、テニスをしようとしてくれている。
ただ、それだけの事実が、私を、舞い上がらせるには十分すぎた。
◇
一通り、フォームの練習が終わると、いよいよボールを打つことになった。
陽菜が、手投げで、打ちやすいボールを投げてくれる。
だが。
スカッ! ボコンッ!
俺の打球は、ことごとく、空を切るか、変な方向に飛んでいくだけだった。
「……くそっ! なんで、当たらねぇんだよ!」
俺は、悔しくて地面を蹴った。
陸上なら、誰にも負けない自信がある。でも、テニスは、全くの別物だった。自分の身体が、自分の思った通りに、動いてくれない。そのもどかしさに、イライラが募る。
「カケル、力みすぎだよ。もっと、リラックスして」
陽菜が、優しい声で、アドバイスをくれる。
わかってる。
わかってるけど、できない。
お前が、すぐ隣にいるからだ。
お前の、その眩しい姿が、俺の平常心を、根こそぎ奪っていくからだ。
なんて、口が裂けても言えるはずがない。
「……もう一回!」
俺は、何度も何度も、ボールを追いかけた。
汗が滝のように流れる。
息が上がる。
でも諦めたくなかった。
陽菜の前で、無様な姿を晒したくなかったからだ。
どれくらい、時間が経っただろうか。
俺の身体が、ようやく、ラケットの感覚を掴み始めた。
――パァン!
乾いた、心地よい打球音。
俺が打ったボールは、綺麗な放物線を描いて、陽菜の足元へと飛んでいった。
「……やった!」
俺は、思わず、ガッツポーズをした。
陽菜は、驚いたように目を見開いている。
そして、次の瞬間、パッと、花が咲いたように、笑った。
「すごいよ、カケル! 今の、すごく良かった!」
「……おう」
その笑顔を見て、今までの、すべての疲労が、吹き飛んでいくようだった。
◇
(……うそでしょ)
カケルが、初めてまともにボールを打ち返した時、私は、自分の目を疑った。
たった数十分。
私が教えたのは、本当に、基本的なことだけ。
それなのに、彼は、もう、自分のものにしてしまっている。
私が、何ヶ月もかかって、ようやくできるようになったことを。
彼は、いとも簡単に。
そこから、彼は、嘘のように、上達していった。
一球、また一球と、ボールを打つたびに、そのフォームは洗練され、打球は鋭くなっていく。
持ち前の、爆発的な瞬発力で、多少コースがずれたボールにも、軽々と追いついてしまう。
彼の身体能力が、テニスというフィルターを通して、まざまざと、私に見せつけられていた。
(……すごい)
やっぱり、カケルはすごい。
私が、好きになった人は、こんなにもすごい人なんだ。
ぶっきらぼうで、シャイで、ちょっとヘタレなところもあるけど。
一度、本気になった時の、彼の、この集中力と爆発力。
これに、私は惹かれたんだ。
コートの上で、躍動する彼の姿から、目が離せない。
汗で光る、逞しい腕。
ボールを追う、真剣な眼差し。
そのすべてが、カッコよくて、私の胸を熱くさせる。
やがて、私たちは、ラリーが続けられるようになっていた。
◇
カン、カン、と。
心地よい打球音が、青空の下に響き渡る。
俺と、陽菜。
二人だけのラリー。
それは、まるで、言葉のない会話のようだった。
楽しい。
ただ、ひたすらに楽しい。
陽菜と、同じ時間を共有している。
陽菜と、心が通じ合っている。
そんな、気がした。
「はぁ、はぁ……。……すごいねカケル。本当に初心者なの?」
一時間のコート利用時間が終わり、俺たちは、ベンチに座って汗を拭いていた。
「……陽菜の、教え方が、うまかったからだろ」
「……そっか。……ふふっ」
陽菜が、嬉しそうに、はにかんだ。
その笑顔を、俺は、ずっと見ていたいと思った。
夏の強い日差しが、俺たちを照りつけている。
でも、それは、少しも不快じゃなかった。
むしろ心地よいくらいだ。
隣にいる、陽菜の体温と同じくらいに。
夏休みは終わり、第一部・第3章はここまでです。
次から第二部・第4章に入ります。
ここで、改めて。
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