第3話 二年五組の教室
二年五組の教室は、新しい学年が始まったばかりの、どこか浮ついた空気と期待感に満ちていた。 クラスメイトたちのざわめきが、心地よいBGMのように耳を通り抜けていく。
俺、桜井駆は、自分の席で頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。眺めているフリを、していた。
本当は、そんな余裕なんて欠片もなかった。
俺の意識は、斜め前方、三つ前の席に座る幼馴染である日高陽菜の小さな後ろ姿に、完全に釘付けになっていたからだ。
(……なんで、よりによってこんなに近い席なんだよ)
先日の席替えの結果は、俺にとって残酷なものだった。
陽菜の席は、俺から見て絶妙によく見える位置にある。
彼女が髪を耳にかける仕草も、教科書のページをめくる指先も、友人と笑い合う横顔も、すべてが視界に入ってしまう。
今も、陽菜は彼女の親友である結城舞や、他の女子数人と楽しそうに談笑している。
その輪の中心で、太陽みたいに笑う陽菜。その笑顔が、俺の胸をチリチリと焦がす。
「よお、駆。また難しい顔してんな。そんなに窓の外に面白いもんでもあんのか?」
不意に、隣の席から声が飛んできた。
声の主は、佐藤健太。中学からの腐れ縁で、俺の数少ない親友だ。
「……別に。ただの人間観察だ」
「へぇ、人間観察ねぇ。その観察対象ってのは、もしかして日高のことだったりするんじゃねーの?」
健太が、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら俺の顔を覗き込んでくる。
図星だった。俺はバツが悪くなって、ぷいと顔を背ける。
「ちげーよ、バカ」
「はいはい、違いますか。じゃあなんで、さっきから一分おきに日高の方チラチラ見てんだよ。バレバレなんだって、お前」
「見てねぇ」
「見てるって。なんなら、お前の視線の動き、実況してやろうか? あ、今、日高が笑ったのに合わせて、お前の口角もちょっと上がったぞ、とか」
「うっせぇな! 黙ってろ!」
俺が声を荒らげると、健太は「わりぃわりぃ」と楽しそうに笑いながら手を振った。
こいつには、昔から何も隠せない。俺と陽菜の関係を、誰よりも近くで見てきた奴だからだ。
「まあ、気持ちはわかるけどな。日高、また可愛くなったんじゃね? 俺の葵ももちろん世界一可愛いけど、日高も普通にレベル高いよな」
「……知るか」
健太は、吹奏楽部にいる星野葵という彼女のことを溺愛している。
その惚気話は、正直聞き飽きた。
だが、陽菜が「レベル高い」と言われたことに対して、俺の心臓が勝手にドクンと跳ねたのは事実だった。
(当たり前だろ。陽菜は、世界で一番可愛いんだから)
そんな言葉が、喉まで出かかった。危ない。俺は慌ててその言葉を飲み込んだ。
「まあ、お前らもさっさとくっつけばいいのによ。見てるこっちが、もどかしいっつーの」
「だから、そういうんじゃねぇって言ってんだろ」
「はいはい。そのセリフも聞き飽きましたー」
健太との不毛なやり取りに、俺は深いため息をついた。 その時だった。
「まあまあ、健太。駆も色々あんだろ、男の子には」
ひょっこりと会話に混ざってきたのは、橘蓮だった。
蓮は、俺たちの前の席でスマホをいじっていたかと思うと、いつの間にかこちらを振り返っていた。
「お、蓮。お前もそう思うだろ? こいつら、じれったすぎだって」
「んー、まあね。でも、駆の気持ちもわかる気がするぜ? 大切だからこそ、今の関係を壊したくない、みたいな?」
蓮は、チャラそうな見た目に反して、時々こういう核心を突くようなことを言う。
俺はドキリとして、蓮の顔をまじまじと見つめた。
「……なんだよ」
「べっつにー? ただ、見てて面白いなってだけ。青春じゃん?」
蓮はそう言って、ニッと悪戯っぽく笑った。
こいつも健太とは違う意味で、厄介な奴だ。
ガラガラ、と教室のドアが開く音がして、担任の藤井先生が入ってきた。
途端に、教室のざわめきが静まり返る。
「はい、みんな席についてー。ホームルーム始めるわよー」
藤井先生の穏やかな声が響き、一日が始まる。
俺は教科書を開き、無理やり意識を黒板へと向けた。
だが、無駄だった。 授業中も、俺の意識は陽菜に囚われたままだった。
シャープペンシルを走らせる音、時折小さく漏れるため息、ふわりと香るシャンプーの匂い。五感すべてが、彼女の存在を拾ってしまう。
今朝、俺の腕の中で赤くなっていた陽菜の顔が、何度も脳裏をよぎった。
あの時の、華奢な肩の感触。柔らかな体温。思い出すだけで、顔に熱が集まる。
もう、完全に、どうかしていた。
◇
(カケル、全然こっち見ないな……)
授業中、私は何度か、振り返るフリをしてカケルの様子を盗み見た。
彼は真面目な顔で黒板を見つめている。……ように見える。
でも、私にはわかった。彼の意識は、授業に集中していない。
時々、視線が宙を彷徨っている。
今朝のこと、やっぱり気にしてるのかな。
私が転びそうになったのを、助けてくれた時のこと。
彼の腕の中にすっぽり収まってしまった、あの数秒間。
私にとっては、心臓が張り裂けそうなくらい幸せな時間だったけど、カケルにとっては、ただ気まずいだけのハプニングだったのかもしれない。
そう思うと、胸がチクリと痛んだ。
(……ダメダメ、考えすぎだって)
私は小さく頭を振って、思考を切り替える。
同じクラスになれたんだ。それだけで、十分幸せじゃない。
去年までは、休み時間に彼のクラスまで押しかけないと、顔を見ることもできなかったんだから。
今は、いつでも彼の背中を見ていられる。それだけで、頑張れる気がした。
キーンコーンカーンコーン。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、待ちに待ったお昼休みがやってきた。
教室のあちこちで、机をくっつけてお弁当を広げるグループができ始める。
「陽菜、お弁当食べよ!」
「うん!」
親友の舞に声をかけられ、私は頷く。
私たちのグループは、いつも私と舞、それに他の女子二人の四人だ。
「ねぇ、カケルくんたちも誘って一緒に食べない?」
「えっ!?」
舞からの突然の提案に、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「だって、席も近いし、健太くんたちもいるし。その方が楽しいじゃん?」
「で、でも……」
「いーじゃんいーじゃん! 私、健太くんと話してみたいし!」
別の友人も乗り気だ。
確かに、健太くんは明るくて面白いし、橘くんもイケメンで人気がある。
でも、問題はカケルだ。
女子に囲まれて、彼がまともにお昼ご飯を食べられるとは思えない。
「……わ、わかった。ちょっと、聞いてくる」
友人たちに押し切られる形で、私は意を決してカケルの席へと向かった。
心臓が、ドクドクと早鐘を打っている。
カケルは、健太くんと何か話しているようだった。
「あ、あの、カケル」
「ん? あぁ、陽菜。どうした?」
私の声に、カケルが顔を上げる。
その目が、一瞬だけ驚いたように見開かれた気がした。
「その……よかったら、みんなで一緒にお弁当、食べないかなって。舞たちも、その方が楽しいって言うから……」
私は早口で用件をまくし立てる。カケルの顔が、まともに見れない。
「お、いいねぇ! 俺は大歓迎!」
私の言葉に、隣にいた健太くんが快活に答えてくれた。
「俺もいーよ。女子と食べた方が、飯も美味いっしょ」
橘くんも、軽いノリで同意してくれる。
あとは、カケルだけだ。 私はおそるおそる、彼の顔を盗み見た。
◇
陽菜が、俺の席まで来た。
ただそれだけで、俺の心臓はうるさいくらいに跳ね上がった。
健太と話していた内容なんて、一瞬で頭から吹き飛んでしまった。
「……みんなで一緒に、お弁当?」
陽菜からの提案に、俺は固まる。
女子たちと一緒に?
陽菜だけじゃない。あの結城舞とかいう女子たちも?
無理だ。絶対に無理だ。 ただでさえ、陽菜と二人きりでも緊張するのに、女子のグループに放り込まれたら、俺は石になってしまう。
「お、いいねぇ! 俺は大歓迎!」
「俺もいーよ。女子と食べた方が、飯も美味いっしょ」
健太と蓮が、あっさりと同意しやがった。
裏切り者。お前らは女子と話すのに慣れてるからいいだろうけど、俺は違うんだぞ。
「……カケルは、どう?」
陽菜が、不安そうな瞳で俺を見つめている。
その瞳に、「嫌だ」なんて言えるはずがなかった。
こいつが、俺のせいで友人たちに「桜井くんが嫌だって」なんて言わせて、肩身の狭い思いをするのは、絶対に嫌だった。
「……あぁ。俺も、別にいい」
俺がそう答えると、陽菜の表情が、パッと花が咲いたように明るくなった。
その笑顔を見て、俺は「まあ、いいか」と思ってしまった。
こいつがこんなに嬉しそうにするなら、俺が少し我慢するくらい、どうってことない。
結局、俺と健太、蓮の机を、陽菜たちのグループの机にくっつけて、総勢七人での昼食会が始まった。
女子たちの会話は、昨日見たテレビドラマの話や、新しくできたカフェの話で、俺には正直ちんぷんかんぷんだった。
俺はひたすら相槌を打つ機械と化し、黙々と弁当の唐揚げを口に運ぶ。
「桜井くんって、ほんと静かだよねー」
「わかるー。ミステリアスな感じで、逆にカッコいいかも」
陽菜の友人たちが、俺のことをそんなふうに噂しているのが聞こえてきて、居心地の悪さはマックスに達した。
ミステリアスなんかじゃない。ただ、何を話せばいいかわからないだけだ。
「こいつ、昔っからこうなんだよ。俺か陽菜がいないと、マジで喋んねーの」
「ちょっと、健太くん!」
健太の余計な一言に、陽菜が慌ててツッコミを入れる。
俺はもう、早くこの時間が終わってくれと、神に祈るしかなかった。
そんな地獄のような昼休みが終わり、午後の授業もなんとか乗り切った。
一日中、陽菜の存在を意識し続けたせいで、俺は部活に行く前からヘトヘトだった。
同じ教室にいるということは、こんなにも心臓に悪いことだったのか。
それは、幸せなことなのか、それとも、ただの拷問なのか。
その答えがまだ出ないまま、俺たちの高校二年生の毎日は、こうして騒がしく始まっていく。