第29話 白いビキニと、正直な言葉
流れるプールに戻ってきた俺たちは、まるで申し合わせたかのように、それぞれの浮き輪に乗り込んだ。
航と莉子は、まだアメリカンドッグの旅から戻ってきていない。
好都合なのか、不都合なのか。もう、わからない。
俺、桜井駆は、ぷかぷかと水の流れに身を任せながら、自分の心臓が、まだ、とんでもない速さで脈打っているのを感じていた。
「俺の彼女」。
言ってしまった。
とんでもない、爆弾発言を。
隣に浮かぶ陽菜の顔を、盗み見ることすらできない。
彼女も、顔を真っ赤にしたまま、進行方向とは逆の方を向いて、必死に何かをごまかしているようだった。
気まずい。
人生で、これほど気まずい瞬間があっただろうか。
いや、ない。
でも、不思議と、後悔はしていなかった。
あの瞬間、俺は、本気でそう思ったのだ。
陽菜は、俺が守るべき、俺だけの、特別な女の子なのだと。
その気持ちに、嘘はつけない。
◇
(……どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
私の頭の中は、カケルの、あの低い声で、ぐるぐるとリフレインしていた。
『こいつは、俺の彼女なんで』
きゃー! だめ、思い出しちゃだめだ。思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
でも、忘れられない。あの時の、彼の、真剣な眼差し。私を庇うように抱きしめてくれた、逞しい腕。そして、あの、言葉。
あれは、きっと、とっさに出た言葉だ。
私を助けるための、ただの方便。
わかってる。
わかってるけど、期待してしまう。
もしかしたら、ほんの少しだけでも、本気で、そう思ってくれたんじゃないかって。
(……でも、私の水着姿、やっぱり、変だったのかな)
ふと、朝の、彼の反応を思い出す。
私が更衣室から出てきた時、彼は、一瞬だけ私を見て、すぐに、ぷいと顔を逸らしてしまった。
やっぱり、似合ってないんだ。
子供っぽい私が少しだけ背伸びした、この白いビキニ。彼には、引かれてしまったのかもしれない。
そう思うと、さっきまでの幸福感が、急に、しゅるしゅると萎んでいく。胸が、チクリと痛んだ。
聞きたい。
でも、聞けない。
もし、「変だよ」なんて言われたら、私、今度こそ、本当に泣いてしまう。
◇
陽菜が、もじもじと何か言いたげに、こちらを見ている。
その、不安そうな瞳に、俺はハッとした。
そうだ。俺は、まだ、あいつに何も伝えていない。
今朝、初めて、彼女の水着姿を見た時の、あの衝撃を。
(……言わなきゃ)
航の言葉が、頭をよぎる。
『言葉にしねぇと、伝わんねぇんだよ、女には』
今なら、言えるかもしれない。
さっき、「俺の彼女」なんて、とんでもないことを言ってしまった後だ。
今更、何を言ったって、これ以上、恥ずかしいことはないだろう。
俺は、意を決して口を開いた。
「……あのさ、陽菜」
「……な、なに?」
陽菜の肩が、びくりと震える。
「その……。水着」
「……っ!」
その単語を出しただけで、陽菜の顔が、さらに真っ赤に染まった。
「……や、やっぱり、変、だよね……? 私には、まだ、早かった、かな……?」
か細い声で、そう言う陽菜。
その自信なさげな姿を見て、俺は、胸が、きゅっと締め付けられるのを感じた。
違う。
違うんだよ、陽菜。
変なわけ、ないだろ。
「……逆だよ」
「え?」
「変なわけ、ねぇだろ。……その、……すごく、似合ってる」
俺は、照れくささをごまかすように、そっぽを向きながら、そう言った。
陽菜が、息を呑むのが、わかった。
「……ほんと?」
「……おう。……その、……可愛い、と、思う」
言った。
言ってしまった。
もう、後戻りはできない。
俺は、観念して、陽菜の方を真っ直ぐに見た。
陽菜は、大きな瞳を、信じられないというように、ぱちくりとさせている。
そして、その瞳が、みるみるうちに潤んでいった。
「……よかった……」
陽菜は、そう言って、心の底から嬉しそうにふわりと笑った。
その笑顔は、夏の太陽よりも、ずっとずっと眩しかった。
俺は、その笑顔に見惚れてしまっていた。
そして、俺の口は、また勝手に、余計なことを喋り始めた。
「……いや、可愛い、っていうか……。その……」
なんだ、この感じは。
もっと的確な言葉があるはずだ。
可愛い、だけじゃない。
もっと、こう、俺の本能を、直接揺さぶってくるような。
合宿の夜、蓮たちが、何度も口にしていた、あの言葉。
「……どっちかっていうと、……えっちい、っていうか……。……あっ!」
しまった。
俺は、自分の口から滑り出た言葉に、血の気が引くのを感じた。
終わった。
俺の、短い、青春が、今、終わった。
軽蔑される。
変態だと思われる。
もう、口を利いてもらえないかもしれない。
俺は、絶望的な気持ちで、陽菜の顔を、恐る恐る盗み見た。
◇
(……えっちい?)
カケルの口から、信じられない言葉が聞こえてきた。
え? 今、なんて?
私の頭の中は、完全にフリーズした。
えっちい? この、水着が? 私が?
カケルが、私のことを、そんな目で、見てた?
「……あ、いや、違う! 今のは、違うんだ! その、言葉の綾っていうか、なんというか!」
カケルが、顔を真っ赤にして、必死に何かを言い訳している。
でも、その言葉は、もう私の耳には入ってこなかった。
私の全身の血液が、顔に、集中していくのがわかる。
熱い。 熱くて、どうにかなりそう。
心臓が、今までにないくらい、激しく、大きく、脈打っている。
(……嬉しい)
恥ずかしい。
死ぬほど、恥ずかしい。
でも、それ以上に。
嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。
彼は、私を、ただの子供っぽい幼馴染としてじゃなく。ちゃんと、「女の子」として、見てくれていたんだ。
その事実が、私の心を、甘くて、とろけそうな幸福感で、いっぱいにしてくれた。
「……」
声が、出ない。
何か、言わなきゃ。
でも口を開いたら、きっと、変な声が出てしまう。
私は、ただ俯いて、自分の膝を、見つめることしかできなかった。
◇
陽菜が、固まってしまった。
完全に、引かれている。
俺は、もう、どうしていいかわからなかった。
こうなったら、もう、謝るしかない。
「……わ、悪かった! 本当に、ごめん! 今のは、忘れてくれ!」
俺が、そう言って頭を下げた、その時だった。
陽菜が、顔を上げた。
その顔は、茹でダコみたいに真っ赤だった。
そして、潤んだ瞳で、俺のことを、じっと見つめてくる。
「……ばか」
か細い声で、そう呟くと、彼女は両手で、自分の顔を覆ってしまった。
その、指の隙間から、真っ赤な耳が覗いている。
その姿が。 どうしようもなく、可愛くて。
俺は、もう、自分の心臓が、どうにかなってしまうんじゃないかと。
本気で、そう思った。
「……あ、アメリカンドッグ、買ってくる!」
陽菜は、そう叫ぶと、ばしゃばしゃと水しぶきを上げて、逃げるように、売店の方へと泳いでいってしまった。
俺は、その場に一人取り残される。
火照った身体を、プールの水が、優しく冷やしてくれる。
でも、俺の心臓は、まだ、激しく鳴り続けていた。
陽菜の、あの潤んだ瞳。 「ばか」と言った、か細い声。 そのすべてが、俺の脳裏に焼き付いて離れない。




