第28話 「俺の彼女」
ウォータースライダーでの一件以来、俺たちの間にあった氷の壁は、完全に溶けてなくなっていた。
いや、むしろ、以前よりも、もっと、近くなった気がする。
俺、桜井駆は、流れるプールでぷかぷかと浮きながら、隣で同じように浮き輪に乗っている陽菜の横顔を、盗み見た。
水に濡れた彼女の肌が、夏の強い日差しを浴びて、キラキラと輝いている。
その姿が眩しくて、俺は目を細めた。
「ふふっ。なんか、いいね、こういうの」
陽菜が、心地よさそうに、そう呟いた。
「……だな」
俺も、同じ気持ちだった。
ただ、隣にいる。
それだけで、こんなにも、満たされた気持ちになるなんて。
大会の後の、あの地獄のような三日間が、嘘のようだ。
「あ、そうだ! 私、ちょっと飲み物買ってくる! カケルも何かいる?」
「ん、じゃあ、俺も行くよ」
「ううん、いいって! ここで待ってて。すぐに戻ってくるから」
陽菜は、そう言うと、浮き輪から器用に降り、ぱたぱたとプールサイドを歩いて、売店の方へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は、自分の心臓が、穏やかに、でも、確かに、温かいリズムを刻んでいるのを感じていた。
◇
(……よかった)
売店へと向かう途中、私、日高陽菜は、何度も心の中で、そう繰り返していた。
カケルが、笑ってくれた。
また、いつもみたいに、話してくれるようになった。
それだけで、十分だった。
ううん、十分すぎるくらい、幸せだった。
ウォータースライダーで、彼の大きな背中にしがみついた時の、あの感触。
着水したプールで、至近距離で見た、彼の、少しだけ照れたような笑顔。
そのすべてが、私の、宝物だ。
私は、自販機で、スポーツドリンクと、カケルの好きなコーラを買った。
二本を手に持ち、彼が待っている流れるプールへと戻ろうとした、その時だった。
「ねぇ、そこのキミ。一人?」
不意に、すぐ横から、馴れ馴れしい声が飛んできた。
見ると、そこには、いかにもチャラそうな、大学生くらいの男二人が、ニヤニヤしながら立っていた。
「……いえ」
私は、関わり合いたくなくて、短くそう答え、その場を通り過ぎようとする。
だが、そのうちの一人が、私の行く手を阻むように、一歩前に出た。
「まあまあ、そう言わずにさ。俺ら、今、すっごいヒマしてんだよね。よかったら、この後、一緒に遊ばない?」
「すみません、一緒に来ている人がいるので」
「えー、マジで? でも、今、一人じゃん。彼氏?」
男は、私の肩に、馴れ馴れしく手を置いてきた。
その瞬間、私の全身に鳥肌が立った。
(……やだ)
気持ち悪い。
西園寺先輩に、馴れ馴れしくされた時と、同じ嫌悪感。 知らない男に身体を触られるのが、こんなにも不快だなんて。
私は、反射的に、その手を振り払おうとした。
「……さわらないで、ください」
私の声は、自分でも驚くほど、低く冷たい響きを持っていた。
だが、男は、面白そうに口の端を歪めるだけだった。
「お、強気じゃん。そういう子、嫌いじゃないぜ? いいじゃん、ちょっとくらいさ」
男の手が、再び、私の肩に伸びてくる。
......私が、思わず一歩後ずさった、その時だった。
――バシッ!
乾いた音と共に、男の手が、力強く、横から弾かれた。
「……え?」
見ると、そこには、今まで見たこともないくらい、冷たい目ををした、カケルが立っていた。
◇
陽菜が、なかなか戻ってこない。
少し心配になって、俺は、彼女を追って売店の方へと向かった。
そして見てしまった。 チャラついた男二人が、陽菜に、しつこく絡んでいるのを。
そのうちの一人が、陽菜の肩に、汚い手を置いているのを。
その瞬間、俺の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。
気づけば、俺は男の手を全力で振り払っていた。
「……なんだよ、テメェ」
男が、忌々しげに俺を睨みつける。
俺は、何も言わずに、陽菜の肩をぐいっと引き寄せ、自分の腕の中に庇うように抱きしめた。
陽菜の身体が、小さく震えているのがわかった。
「……こいつに、何か用か?」
俺の声は、自分でも信れられないくらい、低くドスの利いた声だった。
西園寺先輩と対峙した時、出せなかった声。
あの時、俺の足をすくませた、恐怖や打算は、もうどこにもなかった。
ただ目の前の、この大切なものを守りたい。 その一心だけだった。
「あ? なんだ、連れって男かよ」
「……ああ。こいつは、俺の彼女なんで。あんたらに用はないだろ」
俺は、男を、真っ直ぐに睨みつけた。
すると、男は一瞬だけ怯んだように目を逸らしたが、すぐに、虚勢を張るように、肩をすくめてみせた。
「……ちぇっ。まあ、いいや。行こうぜ」
男は、そう言って、仲間と共に、あっさりと、その場を立ち去っていった。
後に残されたのは、俺と、そして、俺の腕の中で、まだ小さく震えている陽菜だけだった。
「……もう、大丈夫だ」
俺がそう言うと、陽菜はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は恐怖で潤んでいた。
「……ありがとう、カケル」
「……おう」
◇
カケルの腕の中。
さっきまで、知らない男の人に触れられていた肩が、今は、カケルの大きな手のひらに、力強く、でも優しく、包まれている。
同じ、「肩を触られる」っていう行為なのに。 全然、違う。
さっきのは、肌の上を何かが這い回るような、冷たい不快感だったのに。 カケルの手のひらからは、温かくて、安心できる熱だけが、伝わってくる。
怖い、なんて少しも思わない。
むしろ、ずっと、こうしていたい。
守られてる。
大切にされてる。
その事実が、私の心を、幸せな気持ちでいっぱいにしてくれた。
ドキドキする。
でも、それは、恐怖のドキドキじゃない。 嬉しくて、愛おしくて、たまらない、特別なドキドキだった。
◇
その時になって、俺は、自分が、とんでもないことをしているのと、とんでもないことを言ってしまったのに、同時に気づいた。
陽菜の、ほとんど裸同然の柔らかな身体を、俺は、今、力いっぱい抱きしめている。
腕の中に、彼女の豊かな胸の感触が、ダイレクトに、伝わってきている。
そして、俺は、今、こいつのことを「俺の彼女だ」と、断言してしまった。
さっきまでの怒りは、どこかへ消え去り、代わりに、別の種類の猛烈な熱が、俺の身体と顔面を支配し始めていた。
「あ、あの、カケル……。もう、腕……」
「……あ、あぁ! わ、悪い!」
俺は、火傷でもしたかのように、慌てて陽菜から身体を離す。
気まずい。 気まずすぎる。
さっきまでの、俺の、あの、ヒーローみたいな態度は、どこへ行ったんだ。
「……い、いや、その、さっきのは……」
俺が、何か言い訳をしようと、口を開く。
だが、陽菜は、俺の言葉を遮るように、ぶんぶんと首を横に振った。
「う、ううん! わ、わかってるから! 大丈夫だから!」
彼女は、顔を、耳まで真っ赤にして俯いている。
その反応を見て、俺は、もう何も言えなくなった。
わかってる、って、何をだ?
大丈夫、って、何がだ?
もうわからない。
俺の頭の中は、完全にキャパオーバーだった。
「……と、とりあえず、戻るか」
「……う、うん」
俺たちは、ぎこちない動きで、流れるプールへと戻り始めた。
会話はない。
ただ、お互いの真っ赤な顔を見ないように。
必死に前だけを向いて歩く。
夏の太陽が、俺たちの火照った身体を、容赦なく照りつけていた。
「俺の彼女」。
その言葉の余韻だけが、甘く、そしてひどく恥ずかしく、俺たちの間に漂っていた。




