第27話 レジャープールと眩しい水着
夏の県大会から、三日が経っていた。
その三日間は、俺、桜井駆にとって、人生で最も長い七十二時間だったかもしれない。
陽菜との間には、分厚くて、冷たい氷の壁ができてしまっていた。
朝、練習に向かう時間になっても、彼女はもう、俺を呼びに来てはくれない。俺が家のドアを開けると、隣の家の玄関は、固く閉ざされたままだ。
帰り道も、別々だった。
部活が終わると、陽菜は舞たちと、さっさと帰ってしまう。
俺が、声をかける隙もない。
まるで、俺という存在が、最初からいなかったかのように。 彼女の世界から、俺は、完全に消されてしまっていた。
自己ベストを更新した、あの日の達成感なんて、もうどこにもない。あるのは、胸を締め付ける、鈍い痛みと、深い後悔だけだ。
日曜日の昼下がり。
俺は、自分の部屋のベッドの上で、天井の染みを、ただぼんやりと眺めていた。部活も休み。何もする気が起きない。ただ、時間が過ぎていくのを、待っているだけだった。
コンコン、と。 部屋のドアが、遠慮がちにノックされた。
「……兄貴、入るぞ」
返事をする前に、弟の航が、ひょっこりと顔を出す。その手には、なぜか、二人分の麦茶が乗ったお盆が。
「生きてるか、ゾンビ」
「……うるせぇ」
「まあ、そう言うなって。ほらよ」
航は、俺のベッドの脇に、麦茶のグラスを一つ置いた。
そして、自分は、勉強机の椅子に、どかりと腰を下ろす。
「……で? いつまで、そうしてるつもりだ?」
「……別に。いつも通りだ」
「嘘つけ。陽菜姉ちゃんと、絶賛冷戦中だろ。莉子が、毎日うちに来ては、『お姉ちゃんが光合成をやめて、しおれた花みたいになってる! このままじゃ枯れちゃう!』って、泣きついてきてんだぞ。迷惑なんだよ」
航の、容赦ない言葉が、俺の胸に突き刺さる。
陽菜が、泣いている? しおれた花? 俺の、せいで?
その事実に、胸が、ぎりぎりと締め付けられる。
「……俺は、どうすればいいんだよ」
俺の口から、弱々しい声が漏れた。
自分でも、驚いた。
俺は、この年下の弟に、助けを求めていた。
「……知るかよ。自分でやらかしたことだろ」
航は、冷たくそう言い放った。だが、すぐに、深いため息をついて、言葉を続ける。
「……まあ、でも、兄貴があんまりにもヘタレだから、俺と莉子で、ちょっとだけ、お膳立てしてやるよ」
「……は?」
「来週の土曜日、新しくできたレジャープール、行くぞ。駅前からシャトルバス出てるらしいから、四人で」
航の、あまりにも唐突な提案に、俺は、言葉を失った。
「……なんで、そうなるんだよ」
「いいから、行くんだよ。これは、決定事項だ。陽菜姉ちゃんの方には、莉子がもう話つけてる。『お姉ちゃん、最近元気ないから、気分転換に行こうよ! カケルお兄ちゃんたちも誘ってさ!』ってな。兄貴が断ったら、どうなるか、わかってるよな?」
航は、ニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべた。
断れるはずが、なかった。
俺が断れば、陽菜は、きっと、もっと傷つくだろう。「やっぱり、私といるのは嫌なんだ」と。 それは、絶対に、嫌だった。
「……わかったよ」
俺は、力なく、そう答えることしか、できなかった。
こうして、俺の意思とは無関係に、地獄か天国かわからない、週末の予定が、決定してしまったのだった。
◇
そして、運命の土曜日。
駅前から出る、プール行きのシャトルバスの中は、夏休みを満喫しようとする若者たちの、熱気でむせ返っていた。
俺たちの間には、相変わらず、気まずい空気が流れている。
航と莉子は、俺と陽菜を挟むように座り、必死に場を盛り上げようとしてくれていた。
「うわー! 見て、お姉ちゃん! あのスライダー、すごい!」
「兄貴、腹減ったな。着いたら、まず、アメリカンドッグ食おうぜ」
二人の健気な努力が、痛いほど伝わってくる。 俺も、陽菜も、それに必死に応えようとした。
「……すごいな。あんなの、滑ったら、心臓止まるだろ」
「……ふふっ。航くんは、相変わらず、食いしん坊だね」
ぎこちない、笑顔。 ぎこちない、会話。
周りの喧騒が嘘のように。俺たちの周りだけ、時間がゆっくりと重く流れている。
やがて、バスがプールに到着した。更衣室で着替えを済ませ、俺と航は、先にプールサイドで、陽菜たちを待つことにした。
照りつける太陽。
塩素の匂い。
子供たちのはしゃぎ声。
そのすべてが、今の俺の心には、どこか遠い世界のことのように感じられた。
「……なあ、兄貴」
「……なんだよ」
「ちゃんと、謝れよ」
航が、ぽつりとそう言った。
「……わかってる」
「わかってねぇから、言ってんだよ。言葉にしねぇと、伝わんねぇんだよ、女には。……まあ、頑張れや」
航は、そう言って俺の背中をぽんと叩いた。その不器用な優しさが、少しだけ俺の心を軽くしてくれた。
その時だった。
「お待たせー!」
莉子ちゃんの、明るい声が聞こえた。
俺は、そちらに顔を向ける。 そして固まった。
莉子ちゃんの隣に立つ、陽菜の姿を見て。
俺の思考は、完全に停止した。
陽菜は、白い、フリルのついた、ビキニを着ていた。
いつも、制服やジャージの下に隠されていた彼女の身体。それが今、惜しげもなく、俺の目の前に晒されている。
日に焼けていない、透き通るような白い肌。
きゅっと引き締まった、ウエストのくびれ。
スカートタイプのビキニの裾から伸びる、しなやかな脚。
そして。 俺の視線は、そこに釘付けになった。
小さなビキニの布では、到底隠しきれない、豊かな胸の膨らみ。
深く刻まれた、柔らかそうな胸でつくられた谷間。
合宿の夜、俺が想像し、焦がれたそのものが。今、現実として、俺の目の前にあった。
(……やばい)
心臓が爆発しそうだった。
鼻の奥が、ツン、とする。やばい。このままだと鼻血が出る。 俺は、慌てて顔を逸らした。
◇
(……どうしよう。カケルが、全然、こっちを見てくれない)
更衣室で、この水着に着替える時、すごく、すごく、勇気がいった。
去年、お母さんと一緒にバーゲンで買った、少しだけ大人っぽい水着。
一度も、着たことがなかった。 カケルに見せる勇気がなかったから。
でも、今日は違った。
舞に、「絶対に、これで行きなさい! いい? 陽菜。男なんて、単純なんだから! 視覚情報に、一番弱いの! ここでガツンと見せつけて、桜井くんの心を、鷲掴みにしてきなさい!」と、強く、強く、背中を押されたのだ。
カケルに、可愛いって、思ってもらいたい。
女の子として、意識してもらいたい。
大会の日の、あの悲しい出来事を、上書きしたかった。
その一心で、私は、この水着を選んだ。
でも。 彼は、私を一瞥しただけで、すぐに、ぷいと、顔を逸らしてしまった。
やっぱり、ダメだったんだ。私みたいな、子供っぽい身体じゃ、彼の心は、動かないんだ。そう思うと、泣きそうになった。
「お姉ちゃん、大丈夫? 顔、赤いよ?」
莉子が、心配そうに、私の顔を覗き込む。
「う、ううん。なんでもない。ちょっと、日差しが、強いだけ」
私は、そう言って、無理やり笑顔を作った。
「よーし! じゃあ、まずは、アレに乗るぞ!」
航くんが、指さしたのは、このプールで一番大きくて、一番高い場所にある、巨大なウォータースライダーだった。
「ええ!? アレ、すっごい並んでるよ!?」
「いいんだよ! 最初が肝心なんだ! ……というわけで、俺と莉子は、緊急作戦会議を開く必要があるから、腹ごしらえに、アメリカンドッグ買ってくる! 兄貴と陽菜姉ちゃんは、二人で、アレ、並んどいて!」
航くんはそう言って、莉子の手を引くと、「行くぞ、軍師!」「了解、隊長!」などと意味不明なことを言いながら、有無を言わさず、売店の方へと走り去ってしまった。
「え、ちょ、航くん!?」
残されたのは、私と、そして、気まずそうに、明後日の方向を見ている、カケルだけだった。
最悪、 いや、本当は最高、なのかもしれない。
二人の弟と妹が作ってくれた、絶好のチャンス。 でも、今のこの空気で、二人きりなんて......。
地獄以外の、何物でもなかった。
◇
俺と陽菜は、無言で、ウォータースライダーの長い列に並んでいた。 周りはカップルや、友達同士のグループばかり。 皆、楽しそうに笑い合っている。
その幸せそうな空気が、今の俺たちには、ひどく場違いに感じられた。
何か、話さなければ。 航たちが作ってくれた、このチャンスを無駄にしちゃいけない。
俺は、意を決して口を開いた。
「……あのさ、陽菜」
「……なに?」
「大会の時、その……悪かった」
俺がそう言うと、陽菜の肩がびくりと震えたのがわかった。
「……小野寺から、タオル、受け取っちまって……。お前が、来てくれてたの、気づいてたのに。……本当に、ごめん」
俺が、そう言って頭を下げると、陽菜はしばらく何も言わなかった。もう、許してもらえないのかもしれない。
そう思った時だった。
「……ううん。私が、勝手に嫉妬してただけだから。……カケルは、悪くないよ」
陽菜は、そう言って、小さく、首を横に振った。
「それに、自己ベスト、すごかった。……ちゃんと言えなかったけど、おめでとう」
「……あぁ。……ありがと」
よかった。 許して、くれた。
俺たちの間にあった、氷の壁が、少しだけ、溶けた気がした。
やがて順番が来て、俺たちは、二人乗りの大きな浮き輪に乗り込んだ。
係員のお兄さんが、「じゃあ、お兄さんが前に、お姉さんが後ろにお願いしまーす」と、慣れた口調で言った。
「……おう」
「……は、はい」
俺が先に浮き輪に乗り込むと、陽菜が、おそるおそる、俺の後ろに座った。
そして、浮き輪の横についているハンドルを握る。
その瞬間、俺の背中に、信じられないくらい柔らかな感触が押し付けられた。
「……っ!」
陽菜の胸だ。
水着の、薄い生地一枚を隔てて。
あの、豊かな膨らみが、俺の背中にぴったりと密着している。
柔らかい。 温かい。
そして、陽菜のドキドキという、心臓の鼓動まで伝わってくるようだった。
◇
(……うそ、うそ、うそ……! 近い、近すぎるって……!)
カケルの、大きな背中が目の前にある。
私がハンドルを握ると、自然と、私の胸が、彼の背中に押し付けられてしまう。
硬い。
筋肉質で、がっしりとした、男の子の背中。
彼の体温が、水着越しに、じかに伝わってくる。
シャンプーと、少しだけ塩素の匂いが混じった、カケルの匂い。
私の、頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。
「いきますよー!」
係員の声と共に、私たちの乗った浮き輪が、暗いトンネルの中へと、滑り落ちていく。
「きゃあああああっ!」
私は、思わず叫んでいた。そして、無意識に、目の前の大きな背中にぎゅっと、しがみついてしまった。
ものすごいスピード。
左右に、激しく身体が振られる。
そのたびに、私の、柔らかな身体が、彼の、硬い背中に、強く、強く、押し付けられた。
(……えええええっ、やば、やば、やば!)
これは試練だ。
最高に、幸せな試練。
私の理性は、もう限界だった。
やがて、目の前に、光が見えてくる。
私たちの身体は、勢いよく、トンネルの外へと放り出された。
そして、ザッバーン!という大きな水音と共に、着水プールの水の中へと叩きつけられる。
浮き輪がひっくり返り、私たちは水の中に沈んだ。
一瞬の、静寂。
そして、私は、水面に、顔を出す。
「……ぷはっ!」
目の前で、同じように、カケルが顔を出した。
二人とも、びしょ濡れだ。
顔と顔の距離は、ほんの、数センチ。きっと、彼の大きな瞳に、私の間の抜けた顔が映っている。水滴が、彼の長いまつ毛を、キラキラと濡らしていた。
時間が止まった。
私は、彼から目を離すことができなかった。
やがて、カケルの唇が、ゆっくりと、綻んだ。
「……ふふっ」
そして、彼は声を上げて笑い出した。
「あははは! なに、その顔! すごい顔してるぞ、陽菜!」
それは、私が、ずっと見たかった、心からの笑顔だった。
その笑顔を見て、私の心の中にあった、最後の氷も、完全に溶けてなくなった。
私も、つられて笑っていた。
「カケルこそ、すごい顔だったよ!」
「もう一回、乗ろ!」
「……うん!」
私たちは、顔を見合わせて、笑い合った。
周りの喧騒も、照りつける太陽も、もう、気にならなかった。
ただ、目の前で笑う、びしょ濡れの、彼の笑顔だけしか、見えなかった。
航と莉子にほんと感謝。
ラブコメで夏休みといえばの、水着回です。
しばらく続きますので、お楽しみいただければと思います。
明日から、1日1話の更新になります。
もしよろしければ、ブックマーク、リアクション、感想、☆など、よろしくお願いします。
更新がんばろって気持ちになります。




