第26話 水色と白色
八月も半ば。夏合宿から二週間が経っていた。
俺たちの間に漂っていた、あの重苦しくて気まずい空気は、いつの間にか消えていた。
いや、正確には、俺と陽菜が、お互いに必死に消し去ろうと努力した、と言うべきだろう。
夏休みとはいえ、部活の練習はほぼ毎日ある。
朝、練習に向かう前には、家が隣同士の俺たちは自然と顔を合わせるし、練習が終われば、なんとなく一緒に帰る。
俺たちは、まるで、合宿での出来事なんて何もなかったかのように、必死に「いつも通り」の幼馴染を演じていた。
でも、心の奥底では、お互いにわかっていた。
もう、二度と、元には戻れないのだと。
俺たちの間には、見えない壁が、一枚、できてしまっていた。
そして今日、俺たち陸上競技部は、夏の県大会を迎えていた。
じりじりと照りつける太陽。陽炎で揺らめくタータントラック。観客席からの、割れんばかりの歓声。 合宿所の、あの穏やかな雰囲気とは全く違う、本番の空気が、肌をピリピリと刺激する。
(……よし)
俺、桜井駆は、スパイクの紐を、強く、強く結び直した。
今日、俺は、自己ベストを出す。
絶対にだ。 それは、誰のためでもない。俺自身のためだ。
合宿で、自分の醜さと弱さを、嫌というほど思い知らされた。
陽菜を守ると決意したくせに、俺は、まだ、何も変われていない。小野寺への罪悪感からも目を背けたままだ。
だから、今日、ここで、結果を出す。
走ることでしか、俺は、自分を証明できない。
走ることでしか、俺は、このぐちゃぐちゃになった感情を、振り払うことができな い。
走ることでしか、俺は、あいつの隣に立つ資格を得られない。
俺が出場する、二百メートルの予選が始まる。
俺は、スタートラインに設置された、スターティングブロックに、足をかけた。
心臓の鼓動がうるさい。でも、これは、心地よい緊張感だった。
合宿の時のような、嫌な迷いはない。 俺の頭の中にあるのは、ただ一つ。 ゴールラインだけだ。
――パンッ!
乾いた号砲と共に、俺は地面を蹴った。
完璧なスタート。 身体が、軽い。風に乗っているようだ。
コーナーを、滑らかに駆け抜ける。
そして、最後の直線。
(……陽菜)
心の中で、あいつの名前を呼ぶ。
観客席の、どこかで、きっと、見ていてくれるはずだ。
あいつに、無様な姿は見せられない。 俺は、歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。
腕を振れ。
脚を、前に出せ。
ゴールラインが、目の前に迫ってくる。
俺は、そこに、身体を投げ出すように、飛び込んだ。
◇
「きゃー! カケル、すごい! 一位だよ!」
観客席で、私は、思わず立ち上がって、叫んでいた。
隣にいた舞が、「陽菜、声大きいって」と、楽しそうに笑っている。
でも、構わなかった。
嬉しくて、嬉しくて、たまらなかったのだ。
カケルの走り。
今まで見た中で、一番、速くて、力強くて、そして、綺麗だった。
電光掲示板に、タイムが表示される。 予選トップのタイム。そして、彼の、自己ベストを、大幅に更新していた。
「……やった」
私は、ぎゅっと拳を握りしめた。
よかった。 本当によかった。
合宿から帰ってきてから、ずっと、彼の様子がおかしかったから。
一人で、何か、思い詰めているようだったから。
時々、遠い目をして、私ではない誰かのことを考えているような、そんな気がして、不安で、たまらなかったから。
でも、今日の走りで、わかった。彼は、大丈夫だ。
彼は、強い。 私の、大好きな、カケルのままだ。
「陽菜、行かなくていいの? いつもの、届けないと」
舞が、ニヤニヤしながら、私の足元に置いてある、クーラーボックスを指さした。
中には、私が、今朝、早起きして作った、特製のスポーツドリンクが入っている。レモンと、ハチミツと、それから、ほんの少しだけ、私の「おまじない」を込めた、特別なドリンク。
大会の時には、いつも、これを彼に渡すのが、私たちの、決まり事だった。
彼が、これを飲んで、「うまい」って、少しだけ照れたように笑ってくれる顔を見るのが、私にとって、最高のご褒美だった。
「う、うん! 行ってくる!」
私は、水色のタオルと、冷たい水筒を手に、慌てて席を立つ。 早く、彼の元へ行きたかった。
「おめでとう」って、一番に、伝えたかった。
彼の、あの、少しだけ照れたような、でも、嬉しそうな顔が、見たかった。
私は、逸る気持ちを抑えながら、選手たちが集まるトラックの脇へと急いだ。
◇
「はぁ、はぁっ、はぁっ……!」
地面に手をつき、荒い息を繰り返す。
肺が、痛い。 でも、最高に、気持ちが良かった。
自己ベスト。
合宿での成果が、確かに、形になった。
俺は、ゆっくりと顔を上げる。
陽菜は、どこだ? あいつの顔が見たい。
あいつに、「どうだ」って、胸を張りたい。
俺が、観客席の方に、視線を向けたその時だった。
「……お疲れ様、桜井くん」
目の前に、すっと、影が差した。
顔を上げると、そこには、俺と同じ陸上部のユニフォームを着た、小野寺が立っていた。
その手には、冷たく冷えたスポーツドリンクのボトルと、真っ白なタオルが握りしめられている。
「……す、すごかった。……自己ベスト、おめでとう」
小野寺は、少しだけ頬を赤らめながら、でも真っ直ぐに俺の目を見てそう言った。
その瞳には、もう合宿の時のような戸惑いの色はない。 あるのは、ただ純粋な尊敬と、そして、隠しきれない好意の光。
俺は、その、あまりにもまっすぐな視線に、どう反応していいか、わからなかった。
「……あ、あぁ。……サンキュ」
俺は、差し出されたタオルと、ボトルを、反射的に受け取ってしまった。
頭が、まだ、レースの興奮でぼうっとしている。
思考が、うまく働かない。
合宿での、あの出来事の罪悪感が、胸の奥でチクリと痛んだ。
でも、目の前の小野寺の、あまりにも真剣な顔を無下にはできなかった。
「……すごく、カッコよかったよ。……私も、頑張らなくちゃって、思った」
小野寺はそう言って、綺麗に微笑んだ。
その笑顔は、今まで見た中で、一番大人びて見えた。
俺が、その笑顔に、何か言葉を返そうとした、その瞬間。俺は見てしまった。
数メートル離れた場所で、俺たちのことを、呆然と立ち尽くして見ている陽菜の姿を。その手には、俺に渡すつもりだったのだろうか。見慣れた水色のタオルと、手作りのドリンクが入った、水筒が、握りしめられている。
彼女が、俺の方へ駆け寄ってこようとしていた、その途中で、足を止めたのがわかった。
俺と目が合った瞬間。 陽菜の顔が、悲しそうに歪んだ。ぱっと咲いた花が、一瞬で萎れてしまうように。 その瞳が、みるみるうちに、潤んでいくのがわかった。
そして、彼女は、くるりと、背中を向けると、力なく歩き去っていった。その小さな後ろ姿が、やけに頼りなく震えているように見えた。
「……あ」
声が、出なかった。
違う。 違うんだ、陽菜。
これは、違う。
俺が、待っていたのは、お前で。
俺が、声をかけてほしかったのは、お前で。
お前が作ってくれた、あの、特別なドリンクが、飲みたかったんだ。
でも、その言葉は、喉の奥で、つかえて、音にならなかった。
右手には、小野寺からもらった冷たいボトル。左手には、同じく、小野寺からもらった真っ白なタオル。
その二つが、まるで俺の罪を証明する証拠品のように、ひどく重かった。
そして、俺の心の中には、自己ベストを更新した達成感なんて、一瞬で吹き飛んでしまうほどの、深い、深い、後悔だけが残っていた。
俺は、ただ、陽菜が消えていった方向を、呆然と、見つめることしかできなかった。
夏の空は、残酷なくらいに、青く澄み渡っていた。




