第25話 合宿の終わり、残されたもの
三泊四日の夏合宿は、あっという間に終わりを告げた。
最終日の午前練習を終え、昼食と片付けを済ませた俺たちは、バスの出発時刻を待つ間、合宿所のロビーで思い思いに過ごしていた。
解放感と、練習をやり遂げた達成感。そして、家に帰れるという安堵感。
ほとんどの部員たちの顔には、疲労と充実感が入り混じった、晴れやかな表情が浮かんでいる。
だが、俺の心は、どんよりとした厚い雲に覆われたままだった。
「駆、顔色悪いぞ。最後まで、調子、戻らなかったもんな」
隣に座る健太が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……別に。ちょっと、疲れただけだ」
俺は、そう言って、無理やり口の端を上げた。
嘘だ。 疲れているのは、身体じゃない。心だ。
この四日間で、俺の中の何かが、根こそぎひっくり返されてしまった。
蓮たちの猥談で知ってしまった、生々しい性の世界。
小野寺の胸に触れてしまった、あの過ちの感触。
西園寺先輩の、獣のような欲望。
そして、陽菜を守らなければならないという、強い決意。
情報量が、多すぎる。俺の、単純な脳みそでは、処理しきれない。
俺は、ロビーの隅で女子たちと話している陽菜の姿を盗み見た。彼女は笑っていた。舞や他のテニス部の仲間と、合宿の思い出話でもしているのだろう。
でも、その笑顔は、どこか少しだけ、無理をしているように見えた。時折、ふっと表情が曇り、遠い目をする。
きっと、俺のせいだ。俺の煮え切らない態度のせいで、陽菜に余計な心配をかけている。最終日の朝、二人で走って、少しだけ、元に戻れたと思ったのに。結局、俺は、あいつを不安にさせているだけだ。
そして、小野寺。
彼女は、沙織と二人で、少し離れた場所に座っていた。意外なことに、彼女の表情は、吹っ切れたように、穏やかだった。
俺と目が合っても、もう、以前のようにおどおどと逸らしたりしない。ただ、静かに、真っ直ぐに、俺を見つめ返してくる。その瞳には、もう、戸惑いや、恥じらいの色はなかった。
あるのは、まるで、好敵手を見るような、静かで、強い光。その視線が、今の俺には、少しだけ、怖かった。
「おーい、駆。死んだ魚みたいな目ぇしてんじゃねーよ」
蓮が、ペットボトルのジュースを俺の額に押し当ててきた。ひやりとした感触に、俺はびくりと肩を震わせる。
「……うるせぇ」
「まあ、色々あんだろ、男の子には。……でもな、あんま一人で抱え込むなよ。お前の悩みは、だいたい、お前の隣にいるちっこい太陽が、解決してくれるはずだからさ」
蓮は、そう言って、顎で陽菜の方を指し示した。 こいつには、何もかも、お見通しなのかもしれない。 俺は、何も言い返せなかった。
やがて、バスの準備ができたと、大和部長から声がかかる。
俺たちは、ぞろぞろとバスへと向かった。長くて、短かった、俺たちの夏合宿が終わる。
◇
バスの中は、行きとは比べ物にならないくらい、静かだった。ほとんどの部員が、練習の疲れからか、シートに身体を預けて、泥のように眠っている。
俺も、眠ってしまいたかった。眠って、このぐちゃぐちゃになった頭の中を、一度リセットしてしまいたかった。
でも、眠れなかった。窓の外を、高速で流れていく景色を、ただ、ぼんやりと眺める。隣の席では、健太が、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
(……俺は、これから、どうすればいいんだ)
陽菜を、守る。その決意に、嘘はない。
西園寺先輩みたいな奴からは、絶対に、俺が守り抜く。
でも、どうやって? 「ただの幼馴染」の俺に、何ができる?
あいつの隣に立つためには、俺は、もっと、強くならなければならない。身体も、そして、心も。
西園寺先輩の前に立った時、俺は、何もできなかった。
ただ、胸ぐらを掴むだけで、その先の一歩が踏み出せなかった。
もし、あの時、俺が殴っていたら? 活動停止処分になって、大会に出られなくなって、陽菜にもっと心配をかけていたかもしれない。
でも、もし本当に陽菜が危ない目に遭ったら? 俺は、自分のことなんて、どうでもいいと思えるだろうか……。わからない、 今の俺には、その覚悟がまだないのかもしれない。
それから、小野寺のことだ。 俺は、あいつに謝らなければならない。
あんな、最低なことをしてしまったのだから。でも、どんな顔をして謝ればいい? 「ごめん」の一言で、許されることじゃない。
それに、あいつの、あの、吹っ切れたような顔。
もしかしたら、あいつはもう、気にしていないのかもしれない。だとしたら、俺が今更謝ることで、逆に、傷口を抉ってしまうことにならないだろうか。考えれば、考えるほど、わからなくなる。
小野寺の、柔らかな胸の感触。あの時、俺は、確かに、興奮してしまった。陽菜じゃない、別の女の子に……。
その事実が、俺を、罪悪感で縛り付ける。
俺も、西園寺先輩や、神崎と、同じ種類の、獣なんじゃないのか。
(……俺は、本当に、ヘタレだな)
健太や、蓮みたいに。もっと、器用に、女の子と、向き合えたら。 こんなふうに、一人で、悩むこともないのかもしれない。俺は、自分の不甲斐なさに、深いため息をついた。
◇
バスの一番後ろの席。
私は窓に頭を預け、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
隣では、舞がすうすうと気持ちよさそうな寝息を立てている。
眠れなかった。カケルのことが気になって。
合宿最終日の朝。
カケルと二人で一緒に走れたときは、本当に嬉しかった。もう、大丈夫だって、思った。
でも、違った。カケルの心は、まだ、ここにない。
練習中も、ずっと、何か思い詰めたような顔をしていた。時々、小野寺さんのことを、複雑な表情で見つめていた。そして、私と目が合うと、困ったように悲しそうに、目を逸らすのだ。そのたびに、私の胸は、ぎゅっと、締め付けられた。
(……私に、何か、できることはないのかな)
カケルが、何に悩んでいるのかわからない。でも、カケルが、一人で苦しんでいることだけはわかる。
力になりたい。支えになりたい。
でも、私には、その方法がわからない。「どうしたの?」って聞くことすらできない。
もし、その悩みの原因が、私だったら?
もし、カケルが、私との関係に、悩んでいるのだとしたら?
そう思うと、怖くて、何も聞けなかった。
五月のあの日のように、カケルを傷つけてしまうのが怖かった。
(……ダメだな、私)
舞の言う通りだ。 私は、奥手で臆病者だ。
ただカケルの隣で、おろおろしているだけ。
カケルが、笑顔でいてくれるなら、それでいい。そう、思っていたはずなのに。
いつの間にか、私は、欲張りになっていた。カケルの、一番近くで彼を支える存在になりたい。カケルの特別な人になりたい。そんな、叶うはずもない夢を見てしまう。
私は、そっと自分の左手首に触れた。リストバンドの、少しだけ、ごわごわした感触。これだけが、私と彼を繋ぐ、唯一のお守り。
私は、それを、ぎゅっと握りしめた。 大丈夫。 私たちは大丈夫。 そう自分に言い聞かせるように。
◇
やがて、バスは、見慣れた学校の校門の前に、到着した。俺たちは、眠い目をこすりながら、バスを降りる。大和部長の、短い解散の挨拶が終わると、俺たちは、三々五々、家路についた。
「じゃあな、駆。また明日」
「おう」
健太と蓮に別れを告げ、俺は、丁度、女子ソフトテニス部のバスから降りてきた陽菜の元へと、向かった。
帰り道は、いつも、二人だから。 それが、俺たちの、当たり前だから。
「……帰るか」
「……うん」
二人で、並んで歩く。
でも、その距離は、合宿に行く前よりも、ほんの少しだけ、遠い気がした。
会話がない。何を話せばいいのかわからない。
気まずい沈黙が、俺たちの間に、重くのしかかる。
夕日が、俺たちの影を、長く、長く、アスファルトの上に伸ばしている。 その二つの影は、決して交わることがない。
やがて、家の前の、道に着く。 いつもなら、「じゃあな」の一言で終わる場所。
でも、今日は、このまま別れたくなかった。このまま別れたら、明日も、明後日も、ずっとこの気まずい空気が続いてしまう気がしたから。
何か、言わなければ……。「疲れたな」でも、「明日から、また練習頑張ろうな」でも、なんでもいい。この、重い空気を壊さなければ。
「……あのさ、陽菜」
俺が、意を決して口を開いた、その時だった。
「……合宿、お疲れ様。……ゆっくり、休んでね」
陽菜が、俺の言葉を遮るように、そう言った。その声は震えていた。
そして、俺の方を、一度も振り返ることなく。 自分の家の玄関へと、駆け足で向かってしまった。
バタン、と閉まる、ドアの音。
俺は、その場に、一人取り残された。
伸ばしかけた手が、行き場を失って、宙を彷徨う。
俺たちの夏合宿は、こうして終わった。
達成感なんて、どこにもなかった。
ただ、それぞれの胸に、複雑で、どうしようもない想いだけを残して。
夏休みは、まだ始まったばかり。
俺たちの、本当の試練は、ここから始まるのかもしれない。そう感じていた。
ここまで、お読みいただいてありがとうございます。夏合宿編は、ここまでですが、二人の夏休みはもう少し続きます。
皆さんにお願いがあります。
たくさんの方に読んでいただいて本当に嬉しいのですが、如何せん、リアクションが少なく…。
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