第22話 胸に残る、二つの戸惑い
右手には、まだ、あの柔らかな感触が、生々しく、残っていた。
俺、桜井駆は、健太と蓮のからかいを上の空で聞き流しながら、自分の右手を、ぎゅっと握りしめた。
消えない。
何度、強く握りしめても、あの、未知の感触が、まるで皮膚に焼き付いたかのように、消えてくれない。
「……おい、駆。大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
健太が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
隣では、蓮が、まだニヤニヤと楽しそうな顔を崩していない。
「……別に。なんでもねぇよ」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。
嘘だ。なんでもなくなんて、あるはずがない。
俺は、女子の胸を触ってしまったのだ。事故だったとはいえ、その事実は変わらない。
しかも、それは、陽菜じゃない。別の女子の胸を。
その事実が、俺の胸に、鉛のような重りとなって、ずしりと沈み込んでいた。
午前中の練習は、地獄だった。
まったく、集中できなかった。
スタートの合図に、何度も反応が遅れた。
走っている最中も、足がもつれそうになる。
頭の中は、今朝の出来事で、ぐちゃぐちゃだった。
小野寺の、驚きと、混乱と、そして、あの潤んだ瞳。そして、俺の右手に残る、柔らかな感触。
その二つが、交互に、何度も、何度も、フラッシュバックする。そのたびに、俺の身体は、勝手に熱を帯び、心臓は、罪悪感で、きりきりと痛んだ。
「桜井、今日、どうしたんだ? 全然、身体が動いてないぞ」
練習の合間に、大和部長から、厳しい声で指摘された。
「……すみません。少し、寝不足で」
「合宿中に、体調管理もできんようじゃ、話にならんぞ。気合を入れ直せ」
「……はい」
俺は、そう答えることしかできなかった。
違う。
寝不足なんかじゃない。
俺の頭の中が、不純なもので、いっぱいになっているだけだ。
そんな自分が、心底、嫌だった。
昼休み。
食堂で、俺は、ほとんど飯を喉に通すことができなかった。
目の前では、陽菜が、舞たちと楽しそうに話している。
その笑顔が、眩しくて、直視できない。
まるで、俺の心の中の、汚い部分を、見透かされているようで。
「カケル、食欲ないの? 顔色、悪いよ?」
陽菜が、心配そうに、俺の顔を覗き込む。
その、純粋な優しさが、今は、何よりも、辛かった。
「……いや。ちょっと、夏バテ気味なだけだ」
俺は、そう言って、無理やり笑顔を作った。人生で、一番、下手くそな笑顔だったと思う。
陽菜は、まだ何か言いたげな顔をしていたが、舞に話しかけられ、そちらに意識を戻した。
俺は、その隙に、大きく息を吐いた。 息が、詰まりそうだった。
◇
(……カケル、絶対、何か隠してる)
食堂のテーブルで、私は、カケルの様子を、横目で窺っていた。今朝から、ずっと、彼の様子がおかしい。
朝練の時、小野寺さんが、顔を真っ赤にして、彼のもとから走り去っていくのを見た。その後、健太くんと橘くんに合流した時の、彼の顔は、見たこともないくらい、青ざめていた。
何か、あったんだ。小野寺さんと、二人きりで。
そう思うだけで、胸の奥が、チリ、と焦げるような、嫌な感覚に襲われる。
(……嫉妬、なのかな)
認めたくなかった。
でも、きっと、そうだ。
私は、カケルが、私以外の女の子と、二人きりでいるのが、嫌なのだ。
彼が、私以外の女の子に、特別な表情を見せるのが、許せないのだ。 なんて、身勝手で、独占欲の強い、醜い感情だろう。そんな自分が、嫌になる。
「陽菜、どうしたの? ため息ついちゃって」
隣にいた舞が、心配そうに私の顔を覗き込む。
「……ううん。なんでもないよ」
「ふーん? ほんとかなー? さっきから、桜井くんのこと、ずーっと見てるけど?」
「見てない!」
私がムキになって否定すると、舞は「はいはい」と楽しそうに笑った。
「まあ、気持ちはわかるけどね。桜井くん、今日、なんか変だもんね。心、ここにあらず、って感じ」
「……やっぱり、舞もそう思う?」
「思う思う。午前中の練習も、全然集中できてなかったって、陸上部の友達が言ってたよ。……絶対、今朝、小野寺さんと何かあったんだよ」
舞の、その言葉が、私の胸に、ぐさりと突き刺さる。
「……何が、あったのかな」
「さあね。……でも、陽菜。あんまり、思い詰めない方がいいよ。男の子なんて、私たちが思ってるより、ずっと、単純で、バカなんだから」
舞は、そう言って、私の肩を、ぽんと軽く叩いた。その優しさが、嬉しくて、少しだけ、泣きそうになった。
午後の練習が始まっても、カケルの調子は、戻らなかった。むしろ、悪化しているようにすら、見えた。走り終えた後、一人で、グラウンドの隅で、頭を抱えてうずくまっている。
その姿を見ていると、胸が、痛くて、苦しくて、どうにかなりそうだった。
声を、かけたい。「どうしたの?」って、聞いてあげたい。 でも、私には、その勇気がなかった。
もし、彼が悩んでいる原因が、小野寺さんのことだったら? それを、私の口から、聞くのが、怖かったからだ。
◇
(……どうしよう。どうしよう、どうしよう……)
合宿所の、自販機コーナーの隅。
私、小野寺楓は、買ったばかりの、ぬるくなったスポーツドリンクを握りしめたまま、その場にうずくまっていた。
今朝の、出来事が、何度も、何度も、頭の中で再生される。
彼の、驚いた顔。
私の胸に触れた、大きな手のひらの、熱。
そして、あの、ときに感じた、未知の感覚。
(……触られちゃった)
事故だった。
わかってる。彼に、悪気はなかった。
でも、私の身体は、正直だった。あの瞬間、恥ずかしいとか、怖いとか、そういう気持ちよりも、先に。心臓が、張り裂けそうなくらい、高鳴ってしまったのだ。
嬉しかった、なんて言ったら、軽蔑されるだろうか。
でも、ほんの少しだけ。 ほんの、少しだけ。彼のものに、なれたような気がして。いけないことだと、わかっているのに。胸の奥が、甘く、疼いてしまうのだ。
そして、これから、彼とどう接したらいいのか。あのとき、彼から逃げてしまった気まずさが、また、この胸に残っていた。
「……楓? こんなところにいたんだ。探したよ」
不意に、優しい声が降ってきた。
顔を上げると、そこには親友の沙織が、心配そうな顔で立っていた。
「沙織……」
「どうしたの? 朝から、ずっと、様子がおかしいよ。……もしかして、桜井くんと、何かあった?」
沙織の、その言葉に、私の目から、堪えていた涙が、ぽろりとこぼれ落ちた。
「え、ちょ、楓!? なんで泣いてるの!?」
沙織は、慌てて私の隣にしゃがみ込み、背中を優しくさすってくれる。
「……ごめん、沙織……。私、もう、ダメかも……」
「大丈夫だから。何があったか、話してごらん?」
沙織のその優しい声に、私は、堰を切ったように、今朝の出来事を、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
彼と二人きりになったこと。ストレッチを手伝ってもらったこと。そして、事故で、胸を、触られてしまったこと。恥ずかしくなり、逃げ出してしまったこと。
私の話を、沙織は、黙って最後まで聞いてくれた。
そして、すべてを話し終えた私を、ぎゅっと、力強く抱きしめてくれた。
「……そっか。……それは、びっくりしたね。……怖かったでしょ」
「……ううん。怖くは、なかった……。ただ、どうしていいか、わからなくて……」
「……そっか」
沙織は、それ以上、何も聞かなかった。ただ、黙って、私の背中を、さすり続けてくれる。
その温もりが、嬉しくて、私は、子供のように、声を上げて泣いた。
しばらくして、少しだけ落ち着いた私に、沙織は、そっと、耳元で囁いた。
「……でも、楓。……これは、チャンス、かもしれないよ?」
「え……?」
「だって、桜井くんも、絶対に、楓のこと、意識したはずだよ。あんなことがあって、意識しない男の子なんて、いないもん」
「で、でも、あれは、事故で……」
「事故でも、なんでもいいの! 大事なのは、楓の身体に、触れたってこと! これで、桜井くんの頭の中は、きっと、楓のことで、いっぱいになってるはずだよ!」
沙織は、力強く、そう言った。
その言葉は、少しだけ、私の心を、軽くしてくれた。
「……そう、かな」
「そうだよ! だから、明日からは、もっと、積極的に行くの! いい?」
「……うん」
私は、小さく、頷いた。
まだ、彼の顔を、まともに見られる自信はない。
でも、沙織の言う通りかもしれない。これは、神様がくれた、チャンス、なのかもしれない。私は、涙で濡れた顔を、ぐいっと拭った。
そして、心の中で、小さく、誓った。
もう、逃げない。
自分の、気持ちから。
そして、彼からも。
◇
その日の夜。
俺は、昨夜と同じように、布団の中で、眠れない時間を過ごしていた。
だが、昨夜とは、明らかに、何かが違っていた。
昨夜、俺の頭を支配していたのは、陽菜への、罪悪感と、劣情だった。だが、今夜、俺の心を占めているのは。 小野寺の、潤んだ瞳。そして、右手に残る、あの、柔らかな感触。
その二つが、陽菜への想いと、複雑に絡み合って、俺を、混乱の渦へと、突き落としていた。
(……俺は、どうしたいんだ)
陽菜のことが、大切だ。それは、間違いない。
でも、小野寺の身体に触れた時、俺は、確かに、興奮してしまった。 陽菜じゃない、別の女の子に。 その事実が、俺を、苦しめる。
(……俺は、ただの、スケベなだけなのかもしれない)
そう思うと、自分が、ひどく、ちっぽけで、汚い存在に思えた。
俺は、布団の中で、ぎゅっと、目を閉じた。
早く、朝になってほしかった。
そして、早く、この合宿が、終わってほしかった。
これ以上、自分の、醜い部分を、見たくなかったからだ。
胸に残る、二つの戸惑い。
陽菜への、名前のつけられない、この想い。
そして、小野寺に触れてしまった、この、生々しい感触。
その二つを抱えたまま、俺の、長い、長い夜は、更けていった。




