第21話 未知の感触
合宿二日目の朝。
まだ太陽が昇り始めたばかりの、午前五時半。
ひんやりとした朝霧が立ち込める中、俺、桜井駆は、一人でグラウンドに出ていた。
昨夜の出来事が、頭にこびりついて離れない。
ほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、蓮の生々しい話や、神崎の胸糞悪くなるような武勇伝が、勝手に脳内で再生される。
そして、そのすべてが、陽菜の姿と結びついてしまう。その罪悪感で、どうにかなりそうだった。
布団の中で、陽菜を思い浮かべながら、自分を慰めてしまった、あの悍ましい記憶。
自分の欲望の醜さに、吐き気すら覚える。
陽菜の顔を、もう、まともに見られる自信がない。
走りたかった。とにかく、無心で走りたかった。
この、頭の中に渦巻く、汚い感情を、汗と一緒にすべて、一滴残らず流し去ってしまいたかった。
俺は、入念にストレッチを始める。アキレス腱を伸ばし、股関節を広げる。
いつものルーティンだ。筋肉が伸びる、心地よい痛み。それに意識を集中させれば、少しは落ち着けるかもしれない。
静かなグラウンドに響くのは、遠くで聞こえる鳥のさえずりと、俺の荒い呼吸の音だけ......。
「……あの、桜井くん」
その、静寂を破るように。か細い声が、背後から聞こえた。
俺は、驚いて振り返る。
そこに立っていたのは、上が白いTシャツ、下が紺色のジャージというラフな格好の、小野寺楓だった。
「……小野寺? どうしたんだ、こんな朝早くに」
「あ、えっと……。私も、朝練しようと思って……。邪魔、だったかな?」
小野寺は、おどおどと、不安そうな目で俺を見つめている。
その姿を見た瞬間、俺の頭の中に、昨夜の会話が、鮮明にフラッシュバックした。
『小柄なのに、出るべきとこはしっかり出てるしな!』
『ブラウスの上から胸を揉んでやって……』
『女なんて、結局は、身体が目当てなんだよ』
俺は、自分の視線が、まるで値踏みするかのように、無意識に、小野寺の身体のラインをなぞっていることに気づいた。
薄手のTシャツが、胸の柔らかなラインを拾っている。引き締まった腰つき。すらりと伸びる脚。
今まで、同じ目標を目指すチームメイトとしてしか見ていなかったはずの彼女が、急に、生々しい「女」の身体として、俺の目に映った。
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てる。
(……俺は、最低だ)
陽菜に対して抱いた罪悪感とは、また別の種類の、どす黒い自己嫌悪が胸を焼く。
俺は、どんな女子に対しても、こんな汚い視線を向けてしまうのか。
俺は、小野寺から視線を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。
「……別に。邪魔じゃねぇよ。好きにすればいいだろ」
「う、うん。ありがとう……」
小野寺は、少しだけ嬉しそうに微笑むと、俺から数メートル離れた場所で、ストレッチを始めた。
気まずい沈黙が、流れる。
俺は、彼女を意識しないように、自分のストレッチに集中しようとした。だが、無駄だった。 横目で、彼女の姿を追ってしまうのだ。
脚を広げ、前屈するたびに、ジャージのズボンが、彼女の尻の丸みをくっきりと浮かび上がらせる。
腕を伸ばすたびに、Tシャツの裾がめくれ上がり、白い腹がちらりと覗く。
その一つひとつが、昨夜植付けられた、俺の汚い好奇心を、容赦なく刺激した。
◇
(……来ちゃった)
カケルくんの隣でストレッチをしながら、私、小野寺楓は、心臓が張り裂けそうなくらい、緊張していた。
昨日の夜、女子部屋での恋バナが終わった後、沙織が私の背中を、強く、強く押してくれたのだ。
『楓、ウジウジしてても何も始まらないよ! 明日の朝、桜井くん、絶対一人で朝練するから、そこを狙うの!』
『で、でも、何を話せばいいか……。それに、私が行っても、迷惑じゃないかな……』
『迷惑なわけないでしょ! いい? 楓。男の子って、意外と単純なんだから。自分のために、女の子が早起きしてくれたって思ったら、絶対に意識するって!』
『そ、そうかな……』
『そうだよ! 話なんて、しなくていいの! とにかく、隣にいることが大事なの! 自分の存在を、意識させるのよ! これは、宣戦布告なんだから!』
沙織の、その力強い言葉に、私は勇気をもらった。
私は、桜井くんのことが好きだ。いつからかなんて、わからない。でも、気づいたら、いつも彼の姿を目で追っていた。
練習に、誰よりも真面目に取り組む姿。 ぶっきらぼうだけど、本当は、すごく優しいところ。そして、いつも幼馴染の日高さんのことを、大切そうに見つめている、その横顔。
彼が、日高さんのことを好きなのはわかっている。見ていれば痛いほど伝わってくる。
でも、諦めきれなかった。
ほんの少しでも、彼に、私という存在を見てほしかった。
彼の視界の隅にでもいい。私を映してほしかった。
(……でも、やっぱり、緊張する)
彼の逞しい背中。 ストレッチをするたびに隆起する腕や脚の筋肉。 そのすべてが、私の心を締め付ける。
何か話さきゃ。
沙織は、「話さなくていい」って言ってたけど、このまま黙っていたら、ただの不審者だ。
「……桜井くんは、いつも、こんなに早くから練習してるの?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、震えていた。
桜井くんは、一瞬だけ、驚いたようにこちらを見たが、すぐに、いつも通りのぶっきらぼうな顔に戻った。
「うん、時々な。朝の方が集中できるし。実は朝は弱いんだけど、合宿中は毎日するつもり」
「そっか……。すごいね」
「別に。……お前こそ、いつもやってんのか?」
「う、ううん。私は今日が初めて……。桜井くんが頑張ってるから、私も頑張らなくちゃなって思って」
私がそう言うと、彼は、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。 その反応が嬉しくて私の胸はきゅんと高鳴った。
「あの……よかったら、ストレッチ、お互いに手伝わない? 一人じゃ、伸ばしきれないところとか、あるでしょ?」
私から、そんな言葉が自然と口をついて出ていた。
自分でも、驚くほど大胆な提案だった。 沙織が聞いたら、「よくやった!」って、褒めてくれるかもしれない。
◇
「……ストレッチ、お互いに手伝わない?」
小野寺のその言葉に、俺は、一瞬思考が停止した。
手伝う? お互いに? つまり、俺も、こいつの身体に触れるし、こいつも俺の身体に触れるってことか?
昨夜、あれだけの妄想を繰り広げた、この頭で?
陽菜を思い浮かべながら、自分を慰めたこの手で?
(……無理だ)
断ろう。 そう、思った。
だが、小野寺の、期待に満ちた、キラキラとした瞳を見てしまったら。 俺の口からは、拒絶の言葉は、出てこなかった。
「……あぁ。別に、いいけど」
「ほんと!? じゃあ、私からでいいかな? 桜井くん、うつ伏せになってもらってもいい?」
「……おう」
俺が言われるがままにうつ伏せになると、小野寺は俺の背中の上に、おそるおそる跨ってきた。
「……っ!」
背中に、柔らかな重みと、温もりが乗っかる。 俺は、息を止めた。
「ご、ごめん、重くない?」
「……いや、平気だ」
平気なわけ、あるか。 心臓が、今にも爆発しそうだ。
「じゃあ、肩甲骨伸ばすね」
小野寺の小さな手のひらが、俺の背中にそっと触れた。 Tシャツ一枚を隔てて、彼女の体温が、じかに伝わってくる。 その手は、驚くほど小さくて柔らかかった。
俺は、顔を地面に押し付け、自分の顔が真っ赤になっているのを必死に隠した。
◇
(……うわぁ……)
カケルくんの背中は、私が想像していたよりも、ずっと広くて硬かった。
Tシャツ越しに鍛え上げられた筋肉の形が、はっきりとわかる。
私の小さな手のひらでは、その背中を覆うのに何枚必要なんだろう。
これが、男の子の身体……。
(……すごい)
彼の筋肉は、ただ硬いだけじゃない。
しなやかで、まるでバネみたいだった。
私が体重をかけると、その力に反発するように、ぐっと盛り上がる。
彼の呼吸に合わせて、大きな背中がゆっくりと上下する。
そのリズムが、私の身体にも伝わってきて、なんだかすごく恥ずかしい。
「……どう? 伸びてる?」
「……あぁ。いい感じだ」
彼の、声が、地面から聞こえる。
その声を聞いただけで、私の心臓は、また、ドキドキと速くなった。
彼の背中に触れている、手のひらが、汗でじっとりと湿っていくのがわかる。
もっと、触れていたい。でも、これ以上は、ダメだ。 私の心臓が、もたない。
「……こ、交代、しよっか」
私がそう言うと、彼は「おう」と短く答えて、ゆっくりと身体を起こした。その顔は、少しだけ、赤くなっているように見えた。
◇
「じゃあ、お願いしてもいいかな? 仰向けになるから、脚のストレッチ、手伝ってもらってもいいかな?」
「……おう」
小野寺は、そう言って、芝生の上にこてんと仰向けになった。
俺は、ゴクリと唾を呑み、彼女の横に、おそるおそる膝をついた。さっきまで、俺の背中にあった、あの柔らかな感触が、まだ、生々しく残っている。
今度は、俺が彼女に触れる番だ。
「じゃあ、脚、上げるぞ」
「う、うん」
俺は、小野寺の右足首をそっと掴んだ。ジャージ越しでもわかる、驚くほど細い足首。ゆっくりとその脚を持ち上げていく。
「……っ」
小野寺が小さく息を呑んだ。
脚を上げるにつれて、彼女のジャージの裾がずり上がり、白い足首が露わになる。
俺は、それ以上見てはいけないと、必死に視線を逸らした。
「……これくらいか?」
「も、もうちょっとだけ……お願い」
俺は、彼女の脚を、さらにゆっくりと、彼女の胸の方へと近づけていく。 自然と、俺の顔は、彼女の顔の真上に近づく形になった。
上から見下ろす、小野寺の顔。
熱のせいか、ほんのりと上気した頬。
不安そうに揺れる、長いまつ毛。
少しだけ開かれた、潤んだ唇。
その無防備な表情に、俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
やばい。 身体が熱い。腹の底から、得体の知れない熱い何かが込み上げてくる。
その時だった。
朝露に濡れた芝生で、俺がついていた左手が、つるりと滑った。
「うわっ!」
俺は、体勢を崩し、前のめりに倒れ込む。
支えを失った小野寺の脚が、ぱたりと地面に落ちる。
そして。
俺は、倒れ込むまいと、とっさに右手をついた。
その右手は、最悪の場所に、着地してしまった。
ぐにゅり、という、今まで感じたことのない柔らかな感触。
それは、小野寺の左胸だった。
◇
(……え?)
時間が、止まった。
脚を伸ばされる心地よい痛み。 真上から聞こえる、彼の少しだけ荒い呼吸。それが、急に消えた。
代わりに、私の左胸に、信じられないくらいの、熱と、重み。 何が起こったのか、理解できなかった。
おそるおそる目を開ける。
そこには、私のすぐ目の前で、信じられないくらい驚いた顔をしているカケルくんの顔があった。
そして視線を下に落とす。
私の胸を鷲掴みにしている、カケルくんの大きな手があった。
Tシャツと、薄いスポーツブラ。 何枚もの布を隔てているはずなのに。彼の、指の形が、熱が、まるで、素肌に直接触れられているみたいに、はっきりとわかった。
「……あ」
声が出ない。
頭の中が、真っ白になる。
恥ずかしいとか、怖いとか、そういうんじゃない。
ただ驚きと、混乱と、そして、ほんの少しのいけない喜びで。
身体が動かなかった。心臓が、痛いくらいに、速く、強く、打っている。
◇
俺の右手は、小野寺の胸を、鷲掴みにしていた。
柔らかい。 信じられないくらい柔らかくて温かい。
手のひら全体で、その豊かな膨らみを感じてしまっている。
指先が、硬くなった突起のようなものに触れている。
(……これが)
蓮が言っていた。
神崎が、下卑た笑いで語っていた。
俺が、昨夜、陽菜を思い浮かべながら、想像していた。 女の子の、胸。
でも、これは、陽菜じゃない。小野寺の、胸だ。
その事実に、罪悪感が、背筋を駆け上る。
「……あ、……わ、る……」
俺は、絞り出すようにそう言った。そして、まるで火傷でもしたかのように、慌てて手を引っ込める。
小野寺は固まっていた。顔を、見たこともないくらい真っ赤にして。 大きな瞳を潤ませて。
ただ、呆然と、俺の顔を見つめている。
「……ご、めん。わざとじゃ、なくて……。手が、滑って……」
言い訳にもならない言い訳。 俺は、その場から逃げ出したかった。
穴があったら、入りたい。いや、地球の裏側まで、逃げたい。
と、その時だった。
「おーい、駆ー! 朝から精が出るなー!」
グラウンドの入り口から、健太の、能天気な声が聞こえてきた。見ると、健太と蓮が、こちらに向かって歩いてくる。
俺と小野寺は、びくりとして、慌てて距離を取った。
健太と蓮は、俺たちの間の、異常な空気に、すぐに気づいたようだった。
「……あれ? なんか、あったのか?」
健太が、不思議そうな顔で、俺たちを交互に見る。
蓮は、何も言わない。ただ、面白くてたまらない、という顔で、ニヤニヤと口元を歪めている。
こいつ、絶対に、何か察してやがる。
「……別に、何も」
俺が、そう答えるのが、精一杯だった。
小野寺は、俯いたまま、何も言わない。
「……わ、私、ちょっと飲み物買ってくるね……!」
小野寺はそう言うと、脱兎のごとく、その場から走り去っていった。
残されたのは、俺と、ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込む、蓮と健太だけだった。
「……へぇ? 何も、ねぇ?」
蓮が、面白くてたまらないという顔で言った。
俺は、もう、何も言い返せなかった。
右手には、まだ、あの、柔らかな感触が、生々しく、残っていた。
それは、俺の、遅すぎた思春期の、始まりの、感触だった。




