第19話 熱い熱い夏の夜
午後十時。 消灯時間を告げる館内放送が、静かに響き渡った。
建前上、俺たちの長い一日はここで終わりだ。だが、本当の夜は、ここから始まる。
「……よし、行くか」
俺、桜井駆は、同室の健太と顔を見合わせ、音を立てないように部屋を抜け出した。
向かう先は、一つ下の階にある蓮の部屋だ。そこが、今夜の「作戦会議」の会場となっていた。
廊下は、しんと静まり返っている。
時折、他の部屋からの笑い声が聞こえてくるのが、俺たちの罪悪感を少しだけ和らげてくれた。
蓮の部屋のドアをこっそり開けると、そこにはすでに、俺たち以外のメンバーも集まっていた。蓮、健太、俺、それに同じ陸上部の男子が三人。そして、なぜか、神崎彰もそこにいた。
「よぉ、待ってたぜ。主役の登場だな」
蓮が、ニヤリと笑って手招きする。
部屋の真ん中には、コンビニで買ってきたであろうポテトチップスやジュースが広げられていた。
「主役って、俺のことか?」
「ったりめーだろ。お前と日高さんの、もどかしい恋の行方を、俺たちみんなで応援してやろうって会なんだからよ」
「……余計なお世話だ」
俺は悪態をつきながらも、部屋の隅に腰を下ろした。
神崎が、俺のことを面白くなさそうな目で見ている。だが、俺は気づかないフリをした。
「まあまあ、固いこと言うなって。練習の話はもう終わりだ。ここからは、男だけの、聖なる儀式を始めようぜ」
蓮が、そう言ってパンッと手を叩いた。 その言葉を皮切りに、部屋の空気は、一気に熱を帯びていく。 自由の楽園での、本当の夜が、今、始まった。
◇
「で、だ。まず、今回の合宿に参加してる女子の中で、誰が一番イケてるかって話から始めようじゃねぇか!」
蓮が、楽しそうに議題を切り出した。
途端に、他の男子たちが「おぉー!」と色めき立つ。
「やっぱ、副部長の水野先輩だろ! あの美貌とスタイルの良さは、反則だ!」
「わかる! でも、女子テニス部の城之内先輩も、姉御肌な感じでそそるよな」
「俺は、マネージャーの三年生がいい。いつも笑顔で、癒される」
それぞれが、思い思いの女子の名前を挙げていく。
俺は、その会話に混ざることもできず、ただ黙ってポテトチップスを口に運んでいた。 女子を、そんなふうに品定めするような会話は、正直、得意じゃない。
「まあ、三年生は殿堂入りとしてだ。俺たち二年のレベルも、相当高いと思わねぇ?」
「確かにな。……日高さんとか、普通にめちゃくちゃ可愛いよな」
不意に、陽菜の名前が出た。
俺の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
「わかる! 小柄なのに、出るべきとこはしっかり出てるしな! あの、夏服のブラウスの破壊力、ヤバくね?」
「ヤバい! 歩くたびに、ふわふわ揺れるんだよな、あれ……。マジで、目のやり場に困るぜ」
「わかるわかる! 俺、この前、間近で見たけど、谷間、すごかったぞ……」
下卑た笑い声が、部屋に響く。
俺は、握りしめた拳が、小刻みに震えているのに気づいた。
やめろ。 やめろよ。 お前らが、そんな目で、陽菜のことを見るな。 あいつの、柔らかな身体のことを、そんなふうに、汚い言葉で語るな。
怒りが、腹の底から、マグマのように込み上げてくる。
だが、俺は何も言えない。「ただの幼馴染」の俺に、その会話を止める権利なんて、どこにもなかったからだ。
「……桜井は、いいよな。毎日、あんなお宝を隣に侍らせて」
神崎が、挑発するように、俺に言った。
「……別に」
「へぇ? 興味ねぇんだ。じゃあ、俺がもらっても、文句はねぇよな? ああいう、素朴で、すぐ言うこと聞きそうな女、俺は結構、好みなんだぜ」
その言葉に、俺の中で、何かが、ぷつりと切れた。
俺は、無言で立ち上がり、神崎の胸ぐらを掴みそうになった。
だが、その腕は、隣にいた健太に、がっしりと押さえつけられた。
「……やめとけ、駆」
健太が、俺の耳元で、静かに囁く。
俺は、はっと我に返った。そうだ。ここで俺がキレたところで、何の意味もない。むしろ、俺が陽菜のことを特別に思っていると、公言するようなものだ。
「……わりぃ」
俺は、小さく呟いて、再びソファに腰を下ろした。
だが、一度燃え上がった怒りと嫉妬の炎は、そう簡単には消えてくれなかった。
「まあまあ、落ち着けって。……じゃあ、そろそろ、本題に入ろうか」
蓮が、場の空気を変えるように、パンと手を叩いた。
「お前ら、……ぶっちゃけ、どこまでやったことあんだよ?」
その、あまりにも直接的な言葉に、部屋の空気が、一瞬だけ、凍りついた。
◇
同じ頃、女子の部屋。
私も、舞や、他の女子テニス部のメンバー、そして、なぜか部屋に遊びに来ていた陸上部の小野寺楓さんや中村沙織さん、さらには副部長の水野先輩も交えて、車座になって恋バナに花を咲かせていた。
「それでね、彼が、『今度の休み、どこか行きたいとこある?』って!」
「きゃー! それ、完全にデートのお誘いじゃん!」
舞が、自分の彼氏との最近の出来事を、嬉しそうに報告している。 その話に、周りの女子たちも、キラキラとした目で聞き入っていた。
「いいなー、舞は。私も、彼氏ほしいー」
「わかるー。夏休み、一人とか、寂しすぎるよね」
私も、その会話に頷きながら、心の中では、自然と、一人の男の子の顔を思い浮かべていた。
カケルと、夏休み。
もし、彼と二人で、どこかへ出かけられたら。 そう思うだけで、顔が熱くなる。
「陽菜は、桜井くんと、どっか行ったりしないの?」
舞が、また、私に話を振ってきた。
「えっ!? い、行かないよ! だって、カケルは大会に向けた練習で忙しいだろうし……」
「またそれ? 誘ってみなきゃ、わかんないじゃん」
「でも……」
私が口ごもっていると、今まで静かに話を聞いていた、女子ソフトテニス部の部長の城之内先輩が、ふふっと優しく笑った。
「まあまあ、舞。陽菜は、奥手なんだから、あんまり追い詰めちゃダメよ」
「だって、先輩! この二人、見ててもどかしいんですもん!」
「わかるわ。でもね、恋愛は、焦ってもいいことないのよ。……ねぇ、楓ちゃんも、そう思わない?」
不意に、城之内先輩が、隣にいた小野寺さんに話を振った。
小野寺さんは、「へっ!?」と素頓狂な声を上げ、顔を真っ赤にしている。
「か、楓は、桜井くんのこと、狙ってるんだよねー?」
小野寺さんの親友の、沙織さんが、ニヤニヤしながら、彼女の脇腹を突く。
「ち、違うってば、沙織!」
「えー、そうなの? 小野寺さん、いっつも桜井くんのこと見てるじゃん」
舞の言葉に、私の心臓が、チクリと痛んだ。
やっぱり、そうなんだ。小野寺さんも、カケルのことが……。
「……桜井くんは、その……練習、すごく、真面目だから。同じ、短距離として、尊敬、してるだけで……」
小野寺さんは、しどろもどろになりながら、そう答えた。 その姿を見て、私は、少しだけ、胸が苦しくなった。
ライバル、なのかもしれない。でも、彼女の、その健気な姿を見ていると、意地悪な気持ちにはなれなかった。
「ふーん? まあ、いいけど。……それで、水野先輩は、大和部長と、最近どうなんですか?」
舞が、今度は陸上部の副部長である水野先輩に話を振った。途端に、周りの女子たちの目の色が変わる。
三年生の、公認カップルの話だ。興味がないわけがない。
「誠とはねぇ……。まあ、相変わらず、かな」
水野先輩は、少しだけ、困ったように笑った。
「えー! キスとか、もうしたんですよね!?」
「……まあ、一応ね」
その言葉に、「「きゃー!」」と、黄色い歓声が上がる。
私も、ドキドキしながら、その会話に聞き入っていた。
――キス。
カケルと、キス。
想像しただけで、頭が、沸騰しそうだった。
「ど、どんな感じなんですか……? キスって……」
誰かが、おそるおそる尋ねる。
水野先輩は、少しだけ、遠い目をした。
「……そうだなぁ。……すごく、柔らかくて、温かい、かな。……好きな人の味が、する感じ」
その、あまりにも生々しい言葉に、部屋にいる全員が、ゴクリと唾を呑んだ。 私の心臓も、今にも張り裂けそうなくらい、大きく、速く、打っていた。
◇
「……で、だ。蓮。お前から、洗いざらい、ぶちまけろ」
健太が、尋問するように、蓮に言った。
蓮は、待ってましたとばかりに、ニヤリと笑った。
「まあ、俺の場合は、だな。……高一の冬だったかな。今の彼女と付き合って、三ヶ月くらいの時」
「お、おう……」
俺たちは、固唾を呑んで、蓮の言葉を待った。
「クリスマスの日だよ。イルミネーション見て、ちょっといいレストランで飯食って。で、まあ、そういうムードになるじゃん?」
「……なるのか?」
「なるんだよ、駆。で、公園のベンチで、初めて、キスした」
その言葉に、「「おぉー!」」と、どよめきが起こる。
「……どんな、感じなんだよ。キスって」
健太が、真剣な顔で尋ねる。
「んー、そうだな。……めちゃくちゃ、柔らかい。あと、あったかい。……んで、女の子の、甘い匂いがすんだよ。シャンプーとか、リップクリームとかの匂いが混じった、特別な匂い。あれは、マジで、脳みそが溶けるかと思ったぜ」
蓮の、あまりにも具体的な描写に、俺は、ゴクリと唾を呑んだ。
陽菜の、匂い。
あいつの、シャンプーの香り。
もし、あいつと、キスをしたら。
俺の脳みそは、どうなってしまうんだろう。
「……そ、それだけかよ?」
誰かが、震える声で尋ねた。
「まさか。……その日は、結局、《《最後》》まで、した」
蓮が、爆弾を投下した。 部屋が、しんと静まり返る。
「……マジかよ」
「マジだ。……まあ、初めてだったから、お互い、ガチガチでさ。全然、うまくはなかったと思うけどな。でも……」
蓮は、少しだけ、照れたように、頭を掻いた。
「……最高だったぜ。……なんて言うか、好きな女と、一つになるって、こういうことなんだなって。……あ、やべ。俺、今、めっちゃカッコいいこと言ってね?」
蓮は、おどけてそう言った。
だが、俺の頭の中は、それどころではなかった。
――《《最後》》まで、した。
――好きな女と、一つになる。
その言葉が、俺の頭の中で、ぐるぐると反響していた。
陽菜と、一つに、なる?
あいつの、柔らかな身体を、この腕で、抱きしめて。
あいつの、白い肌に、触れて。 そして――。
「……っ!」
俺は、自分の身体に起こった、明確な変化に気づき、慌てて膝の上で両腕を組んだ。
やばい。
やばい、やばい、やばい。
話を聞いているだけで、身体が、勝手に、反応してしまう。
「……神崎は、どうなんだよ。お前も、経験済みなんだろ?」
蓮が、話を神崎に振った。
神崎は、待ってましたとばかりに、得意げに胸を張った。
「まあな。俺の場合は、もっと、激しかったけどな」
「へぇ?」
「女なんて、最初は抵抗するフリするけど、結局は、力でねじ伏せてやれば、すぐに、気持ちよくなって、声、上げるんだよ。もっと、もっとってな。……男が、リードしてやんねぇと、ダメなんだよ」
神崎の言葉に、俺は、強烈な不快感を覚えた。
それは、蓮の話とは、全く違う、ドロリとした、汚い何かだった。
陽菜を、力で、ねじ伏せる?
そんなこと、できるはずがない。
あいつの、あの綺麗な瞳を、悲しみで、歪ませることなんて。
(……こいつは、ダメだ)
俺は、神崎という男の本質を、垣間見た気がした。
◇
その夜、俺は、自分の部屋の布団の中で、なかなか寝付けずにいた。
同室の健太は、もう、すうすうと寝息を立てていた。
でも、俺の頭は、冴えきっていた。
蓮の話が、神崎の話が、頭から離れない。
そして、そのすべてが、陽菜の姿と、結びついてしまう。
陽菜の、柔らかな唇。
陽菜の、白い項。
陽菜の、ブラウスの下に隠された、豊かな胸。
陽菜の、スカートの下の、白い脚。
今まで、見てはいけないと、自分に言い聞かせてきた、彼女のすべて。それが、今、鮮明なイメージとなって、俺の脳裏に、次々と浮かび上がってくる。
(……ダメだ。考えるな)
俺は、必死に頭を振る。 でも、一度燃え上がってしまった好奇心の炎は、もう、誰にも止められない。
身体が、熱い。特に、体の一部に、血液が集中していくのがわかる。苦しい。 どうしようもなく、苦しい。
俺は、布団の中で、そっと、そこに手を伸ばした。
瞼の裏に浮かぶのは、陽菜の、笑顔。 泣き顔。 怒った顔。
そして、俺が、まだ見たことのない、熱に浮かされた、甘い顔。
(……陽菜)
心の中で、彼女の名前を呟く。
罪悪感と、背徳感。
そして、今まで感じたことのない、強烈な、快感。 そのすべてが、ごちゃ混ぜになって、俺の思考を、ぐちゃぐちゃにかき乱していく。
長い、長い、夜だった。
その夜を境に、俺はもう、二度と、以前の俺には戻れないことを、悟っていた。
日高陽菜が、一人の「女」であることを強く意識してしまったのだから。
合宿一日目の夜の洗礼は、俺の、遅すぎた思春期を、容赦なく、こじ開けていった。