第18話 夏の合宿、静かなさざ波
七月の終わり。うだるような暑さの通学路とも、蒸し風呂のような教室とも、しばらくおさらばだ。
俺たち陸上部は、今日から三泊四日の夏合宿のために、県境近くの涼しい高原へとやってきていた。
この高原施設は、県内の多くの高校が利用する合同合宿所のような場所で、いくつかのグラウンドやテニスコート、体育館が併設されている。
そして、今年の俺たちの合宿日程は、偶然にも、俺の幼馴染である日高陽菜や、その親友の結城舞が所属する女子ソフトテニス部の合宿日程と、見事に重なっていた。
他にも、同時にいくつもの部活が、各々の貸し切りバスで合宿所を訪れている。昨年の合宿は、地獄のような練習の思い出しか残っていないが、今年は...。
なぜか、陽菜の顔が頭の中に浮かぶ。
「うおー! 空気うめぇ! やっぱ下界とは違うな!」
貸し切りバスから降り立つなり、蓮が大きく伸びをしながら叫んだ。
その気持ちは、俺もよくわかる。木々の匂いが混じった、ひんやりと澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むと、身体の芯から活力がみなぎってくるようだった。
俺、桜井駆は、バスの荷物入れから自分のスポーツバッグを引っ張り出しながら、ちらりと陽菜の姿を探した。
彼女は、女子ソフトテニス部の貸し切りバスから、親友の舞たちと一緒に降りてきたところで、眩しそうに空を見上げていた。
今日の彼女は、いつものポニーテールではなく、髪を二つに結んだ、いわゆるツインテールというやつだ。普段より、少しだけ幼く見える。
その姿が、どうしようもなく可愛くて、俺は心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
「駆、何ニヤついてんだよ。気持ち悪いぞ」
「……ニヤついてねぇよ」
隣にいた健太に肩を小突かれ、俺は慌てて顔を引き締めた。
危ない。最近、どうも顔の筋肉が緩みっぱなしだ。
「しかし、いいとこだな。練習はキツそうだけど、夜は楽しそうだぜ。いろんな部の女子もいるわけだし」
「お前はそればっかだな。」
相変わらずな蓮とそんな軽口を叩き合っていると、ふと、視線を感じた。
そちらに目を向けると、少し離れた場所で、同じく陸上部のバスから降りてきた小野寺楓と目が合った。
彼女は、俺と目が合うと、びくりと肩を震わせ、慌てて顔を逸らしてしまった。
(……なんだ?)
最近、時々、小野寺と目が合うことがある。彼女は、いつも何か言いたげな顔で俺を見つめては、俺が気づくと、すぐに目を逸らしてしまうのだ。
俺が何かしただろうか。考えてみても、特に思い当たる節はなかった。
「はい、みんな注目! 荷物を各自の部屋に置いたら、十分後にグラウンド集合! すぐに練習始めるから、ダラダラしないように!」
部長である大和誠先輩の張りのある声が響き渡り、俺たちはそれぞれの宿泊棟へと向かった。
学校から遠く離れた、この合宿所。
親も、先生の厳しい目も、ここにはない。 つまり、ここは、俺たち高校生にとって、自由の楽園でもあった。
これから始まる四日間が、ただの過酷なトレーニングだけで終わらないことを、俺たちは皆、予感していた。
◇
「はぁ、はぁっ、はぁっ……!」
標高が高いせいか、平地で走るよりも、ずっと息が上がるのが早い。
心臓が張り裂けそうで、肺が焼けつくように痛い。
でも、不思議と、嫌な感じはしなかった。むしろ、心地よいくらいだ。
俺は、タータントラックを黙々と走り続ける。隣のレーンでは、健太が苦しそうな顔で腕を振っている。少し前を、神崎が涼しい顔で走っていた。悔しいが、あいつだけは、別次元だ。
練習の合間の、短い給水タイム。 俺は、ジャグからスポーツドリンクをカップに注ぎ、一気に呷った。
その時、近くの女子ソフトテニス部の方から、陽菜の声が聞こえてきた。
「舞、大丈夫? 無理しないでね」
「へ、平気だって……陽菜こそ、顔赤いよ?」
どうやら、舞が少しバテ気味らしい。
陽菜が、心配そうに彼女の背中をさすっている。
その優しい横顔から、目が離せなくなった。
あいつは、いつもそうだ。自分のことよりも、先に、周りの人間のことを心配する。お節介で、世話焼きで、そして、どうしようもなく、優しい。
俺が、そんなことを考えていると。
「……桜井くん」
不意に、すぐ近くで声をかけられた。 振り返ると、そこに立っていたのは、小野寺だった。
手には、まだ中身が入っている、新品同様のスポーツドリンクのボトルを持っている。
「……小野寺? どうかしたか?」
「あ、あの……これ、よかったら……。さっき、自販機で買いすぎちゃって……」
小野寺は、顔を真っ赤にしながら、俺にボトルを差し出してきた。その目は、不安そうに揺れている。
「え? あ、いや、でも俺、もう飲んだし……」
「で、でも、まだ練習続くし! 水分補給は、大事だって、副部長の水野先輩も言ってたし!」
必死な形相で捲し立てる小野寺に、俺は若干気圧された。 断るのも、なんだか悪い気がする。
「……あぁ。じゃあ、もらっとく。サンキュ」
俺がボトルを受け取ると、小野寺は、パッと顔を輝かせた。
「う、うん! じゃあ、私、練習に戻るね!」
そう言って、彼女はぱたぱたと走り去っていった。
俺は、手の中に残されたボトルを、不思議な気持ちで見つめた。
(……なんなんだ、一体)
俺の隣で、その一部始終を見ていた蓮が、ニヤニヤしながら俺の肩を叩いた。
「やるじゃん、駆。いつの間に、小野寺さんとそんな仲に?」
「……別に、何もねぇよ。ただ、もらっただけだ」
「ふーん? 『ただもらっただけ』ねぇ。まあ、せいぜい、本命さんをヤキモキさせないようにな」
蓮は、意味深な視線を、陽菜たちがいる方へと向けた。
俺が、慌ててそちらを見ると、陽菜が、じっと、俺の手の中のボトルを見つめているのがわかった。
目が合うと、彼女は、ふいと顔を背けてしまった。 その横顔は、どこか、少しだけ、不機嫌そうに見えた。
(……なんで、あいつ、怒ってんだ?)
俺は、訳がわからないまま、首を傾げることしかできなかった。
◇
(……なんなのよ、もう)
給水所の隅で、私、日高陽菜は、内心で悪態をついていた。
カケルが、小野寺さんから、飲み物をもらっていた。 ただ、それだけのこと。
わかってる。
わかってるけど、面白くない。
小野寺さんが、カケルに飲み物を渡す時の、あの真っ赤な顔。 そして、カケルが、それを受け取る時の、少しだけ戸惑った、でも優しい顔。
そのすべてが、私の胸を、チクチクと針で刺すように痛めつけた。
「……陽菜、どうしたの? 怖い顔して」
隣にいた舞が、心配そうに私の顔を覗き込む。
「……なんでもない」
「ふーん? ほんとかなー? さっきから、ずーっと桜井くんのこと、見てるけど?」
「見てない!」
私がムキになって否定すると、舞は「はいはい」と楽しそうに笑った。
「まあ、気持ちはわかるけどね。小野寺さん、最近、すっごい桜井くんのこと意識してるもんね。陸上部の女子の間じゃ、結構有名な話みたいだよ?」
「……え?」
私は、舞の言葉に、耳を疑った。
「そうなの……?」
「そうだよ。桜井くん、ああ見えて、結構ファン多いんだから。硬派な感じがいいんだって。陸上部の女子の中でも人気らしいよ。陽菜も、のんびりしてると、取られちゃうかもよ?」
舞の言葉が、冗談めかしているのはわかっていた。でも、私の心は、穏やかではいられなかった。
カケルが、他の女の子に取られちゃう? そんなの、絶対に嫌だ。彼は、私の、隣にいるのが、当たり前なんだから。
(……でも、当たり前なんかじゃ、ないんだよね)
私たちは、付き合っているわけじゃない。
ただの、幼馴染。
彼が、誰を好きになろうと、私にそれを止める権利なんて、どこにもないのだ。その事実に、胸が、きゅっと締め付けられる。
「……私、ちょっと、走ってくる」
「え、陽菜!? まだ休憩時間だよ!」
舞の制止を振り切って、私はトラックへと駆け出した。身体を動かしていないと、余計なことを考えて、泣いてしまいそうだったから。
汗と一緒に、このモヤモヤした気持ちも、全部、流れてしまえばいいのに。
そう、本気で思った。
◇
その日の夜。
夕食と入浴を終えた俺たちは、宿泊棟の広い談話室に集まっていた。 練習の疲れもあってか、皆、リラックスした表情で、思い思いに過ごしている。
トランプに興じる陸上部のグループ。
テレビを見る女子ソフトテニス部のグループ。
そして、自然と、男女の垣根を越えて、恋バナに花を咲かせる者たち。
俺は、健太や蓮、それに数人の男子部員と、部屋の隅のソファに座っていた。
「いやー、それにしても、女子の浴衣姿はヤバかったな!」
蓮が、思い出したように言う。
この合宿所は、温泉ではないが、大浴場があり、備え付けの浴衣を着ることができるのだ。
「わかる! 特に、うちの副部長の水野先輩な! マジで美人すぎだろ!」
「だよな! あの水野先輩が彼女だなんて、大和部長が羨ましいぜ、ちくしょう!」
男子たちの会話は、すぐに、そういう方向へと流れていく。俺は、その会話に混ざることもできず、ただ黙って、自販機で買ったジュースを飲んでいた。
(……陽菜の、浴衣姿)
頭の中に映像が生まれ、一人で、顔が熱くなる。
先日の、二人での、静かな線香花火、隣に屈む陽菜の姿。白い項や、華奢な鎖骨が、思い出される。
他の奴らに、見せたくない。 そんな、身勝手な感情が、胸の奥で、鎌首をもたげた。
「そういや、神崎は、日高のこと、本気で狙ってるらしいぜ」
不意に、周囲で、誰かが言ったのが聞こえた。その言葉に、俺はびくりと肩を震わせる。
「マジかよ。あいつ、プライド高そうだし、日高みたいなタイプ、好きそうだよな」
「でも、日高って、桜井と付き合ってんじゃねーの?」
「いや、ただの幼馴染で、そんな関係じゃないって、桜井が言ってたらしいぜ」
俺の知らないところで、そんな噂が広まっていることに、俺は愕然とした。
そして、その話題の中心人物である神崎は、少し離れた場所で、女子マネージャーたちに囲まれながら、得意げに自分の武勇伝を語っていた。
ちらりと、その視線が、陽菜たちがいる方へと向けられる。
陽菜は、舞たちと楽しそうに話していて、神崎のことなど、気にも留めていない様子だった。
それに、俺は少しだけ、安堵した。
と、その時だった。
俺の眉間に、ぐっと皺が寄る。
見たくないものが、視界に入ってしまったからだ。
男子テニス部の、西園寺巧先輩。あいつが、陽菜たちのテーブルに、馴れ馴れしく近づいていく。
「よぉ、日高。練習、お疲れさん」
「あ、西園寺先輩。お疲れ様です」
陽菜は、愛想よく笑顔を返している。だが、その笑顔が、少しだけ引きつっていることに、俺は気づいた。
西園寺先輩は、陽菜の隣に、断りもなくどかりと腰を下ろした。
「明日、少し時間あるか? 俺が、お前のために特別レッスンしてやるよ」
「いえ、私たちは明日の練習メニューも決まっているので……」
「そう言うなって。俺に教えてもらえれば、絶対うまくなるぜ?」
その距離が、近い。
近すぎる。
俺は、握りしめたジュースの缶が、ミシミシと音を立てているのに気づいた。
「……駆は、どうなんだよ。日高のこと、本当は、好きなんだろ?」
健太が、俺の耳元で、こっそりと囁いた。
「……別に」
「またそれかよ。まあ、いいけどさ。ああやって、他の男に取られてもいいのかよ」
健太は、そう言って、顎で西園寺先輩の方を指し示した。
いいわけがない。でも、俺に、何ができる? 「ただの幼馴染」の俺に、あいつを止める権利なんて、どこにもない。俺は、自分の無力さに、唇を噛みしめることしかできなかった。
幸い、そこに女子ソフトテニス部の部長である城之内先輩がやってきて、「巧、うちの後輩にちょっかい出すのやめなさい」と、西園寺先輩を追い払ってくれた。
俺は、心の底から城之内先輩に感謝した。
その時だった。
女子のグループの方で、何やら、ひときわ大きな笑い声が上がった。
見ると、小野寺楓が、友人である中村沙織に背中を押され、何かからかうようなことを言われている。
小野寺は、顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を横に振っていた。
そして、助けを求めるように、ちらりと、俺の方を見た。
また、目が合ってしまった。
(……一体、なんなんだ)
陽菜の、不機嫌そうな顔。
小野寺の、意味ありげな視線。
女子たちの気持ちなんて、俺には、一ミリも理解できない。
俺は、ただ、混乱するばかりだった。
やがて、消灯時間となり、俺たちはそれぞれの部屋へと戻ることになった。
「よーし、お前ら! 十時から、俺の部屋で作戦会議だからな! 遅れんじゃねーぞ!」
部屋に戻る途中、蓮が、俺と健太に、そう言ってウインクした。
「作戦会議って、明日の練習のか?」
「ちげーよ、健太。……この、俺たちの青春を、どう攻略するかの、作戦会議だよ」
蓮は、ニヤリと笑って、自分の部屋へと消えていった。
俺は、その言葉の意味を、まだ、半分も理解できていなかった。
ただ、これから始まる長い夜が、ただ眠るだけでは終わらないことだけは、確かだった。