第17話 消えた天の川、二人の花火
夏休みに入って、一週間が経った土曜日。
私、日高陽菜の部屋のベッドの上には、紺色地に、淡いピンク色の花火が散りばめられた、新品の浴衣が広げられていた。
今日、この街で一番大きな夏祭りがあるのだ。
(……似合う、かな)
私は、浴衣を自分の身体にそっと当てて、姿見の前でくるりと回ってみる。
この日のために、妹の莉子に付き合ってもらって、一時間以上も悩んで選んだ、とっておきの一着。
カケルに、可愛いって思ってもらいたい。 その、一心だった。
『お姉ちゃん、夏祭り一緒に行こうよ! 』
『でも、女子だけだと夜は危ないから、カケルお兄ちゃんも誘って、ボディガードしてもらわない?』
数日前、莉子が、そんなことを言ってきた。
もちろん、それが莉子と航くんが仕組んだ壮大な作戦であることなんて、私は知る由もない。
ただ、カケルと夏祭りに行ける。 その事実だけで、私の心は浮き足立っていた。
ドキドキしながら、スマホで天気予報を確認する。
降水確率10%。 大丈夫。 きっと、素敵な夜になる。
◇
「……兄貴、マジで行くのかよ、夏祭り」
俺の部屋のドアから、航がひょっこりと顔を出す。
「……うるせぇ。莉子ちゃんに頼まれたんだよ。陽菜たちのボディガード」
俺、桜井駆は、鏡の前で、自分の髪を、必死にいじっていた。
ワックスなんて、普段使ったこともない。どうすればいいのか、さっぱりわからなかった。
「ふーん? ボディガードねぇ。陽菜姉ちゃんの浴衣姿が目当てなくせに」
「……っ! ちげーよ、バカ!」
図星を突かれて、俺の声が裏返る。
航は、「はいはい」と、楽しそうに笑っていた。
陽菜の浴衣姿。 想像しただけで、顔から火が出そうだった。
絶対に、可愛い。
間違いなく、可愛い。
そんなの、見る前からわかっている。
他の奴らに、見せたくない。
でも、俺が、一番見たい。
そんな、矛盾した感情が、俺の胸の中をぐるぐると渦巻いていた。
――ピコン。
スマホが、短く鳴った。莉子からのメッセージだ。
『作戦は順調? こっちは、完璧よ!』
そのメッセージを見て、俺は眉をひそめる。作戦? いったいなんのことだ?
『……送信先まちがえてるぜ。軍師殿。』
俺のスマホを覗き込んだ航が、勝手にそう返信して、ニヤリと笑う。
こいつら、絶対にまた何か企んでる。
でも、もうどうでもよかった。 今日、俺は、陽菜と夏祭りに行くのだ。 その事実だけで、俺の心臓はもう限界だった。
◇
だが。 俺たちの淡い期待と弟妹の完璧な作戦は、あまりにも無慈悲な天の気まぐれによって打ち砕かれることになる。
夕方。 待ち合わせの一時間前。さっきまで、あんなに晴れ渡っていた空が、急に真っ黒な雲に覆われた。 ゴロゴロ、と、低い地鳴りのような音が、遠くで聞こえる。
「……嘘だろ」
俺は、窓の外を見て呟いた。
次の瞬間、バケツをひっくり返したような、猛烈な土砂降りの雨が、地面を叩きつけ始めた。
――ピロリロリン、ピロリロリン。
スマホの、緊急速報が、けたたましく鳴り響く。
『大雨・雷・洪水警報が発令されました。不要不急の外出は、控えてください』
そして、追い打ちをかけるように。 町の公式サイトに非情なお知らせが掲載された。
『本日開催予定の、夏祭りと花火大会は、悪天候による警報発令のため中止といたします』
◇
「「そんなあああああああああっ!」」
桜井家と、日高家。二つの家で、同時に、弟と妹の悲痛な叫び声が響き渡った。
「嘘でしょ!? 私たちの完璧な作戦が! 天に見放されたっていうの!?」
「くそっ! あと、一時間だったのに! なんでだよ、天気の子!」
莉子は、自分の部屋のベッドの上で、枕をバンバンと叩いている。
俺、桜井航は、リビングのソファで、頭を抱えて蹲っていた。
俺たちの、緻密な計算と努力が。
こんな理不尽な形で水の泡になるなんて。
神様なんて、絶対にいない。
◇
――ピコン。
俺のスマホに、陽菜からメッセージが届いた。
『……雨、すごいね。夏祭り、中止になっちゃった』
その、シンプルな一文に、彼女の、深い、深いため息が聞こえてくるようだった。
俺も、がっかりしていた。
陽菜の、浴衣姿を見れなかったこと。
陽菜と、花火を見れなかったこと。
俺は、なんて返信すればいいのか、わからなかった。
『……だな。残念だ』
当たり障りのない、返信を打つ。
既読は、すぐについた。
でも、そこから返信はなかった。
俺は、窓の外を見た。 激しい雨が、窓ガラスを叩きつけている。
隣の家の、陽菜の部屋の窓にも、明かりが灯っていた。
あいつも、今、俺と同じように、がっかりしているんだろうか。
どれくらい、時間が経っただろうか。 雨足が、少しだけ弱まってきた。
その時、またスマホがピコンと鳴った。 陽菜からだった。
『……ねぇ、カケル。……線香花火、しない?』
『……え?』
『……雨、少しだけ、止んできたみたいだし。……うちの縁側でならできるかなって』
その、あまりにも予想外のお誘いに。俺の心臓は、ドクンと大きく跳ねた。
◇
俺は傘をさして、隣の家の縁側へと向かった。
雨は、もうほとんど霧雨のようになっていた。 湿った夏の夜の匂い。カエルの鳴き声。
日高家の縁側には、小さな、ロウソクの灯りが灯されていた。
そして。
「……あ」
声が、出なかった。
そこに、彼女が座っていた。
紺色地に、淡いピンク色の花火が散りばめられた、浴衣姿の陽菜が。
髪も、綺麗にアップに結い上げられている。白い項が、ロウソクの柔らかな光に照らされて、艶めかしく輝いていた。
「……ごめん。……どうしても、カケルに、見てほしくて」
陽菜は、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俯いた。
俺は、もう何も言えなかった。
可愛い......。 そんな、ありきたりな言葉じゃ足りない。 心臓が、痛いくらいに鼓動している。
俺は、自分の顔が熱くなるのを感じながら、彼女の隣にそっと腰を下ろした。
二人で、線香花火に火をつける。
ぱち、ぱち、と。
小さな火花が闇の中に咲いては消えていく。
会話はない。
でも、その沈黙が、心地よかった。
お祭りの、喧騒の中じゃなくて。 こうして、二人きりで、静かに、火花を眺めている方が、ずっと俺たちらしい気がした。
やがて、最後の一本の火が、ぽとりと落ちた。
「……綺麗だったね」
「……あぁ」
陽菜が、ぽつりと呟いた。
「……来年こそ、一緒に行こうね。夏祭り」
「……おう。……絶対、な」
俺がそう言うと、陽菜は、嬉しそうにふわりと笑った。
来年の約束。
いつも、当たり前のようにしている会話。
でも、なぜか、今日は。
そんな、「来年の約束」が、なんだか、とても嬉しかった。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
第2章はここまで。次から、第3章にはいります。
そう、夏休みの間のお話です。
部活の夏合宿、そこで強い刺激を受けて、駆と陽菜の心はまた大きく動きます。
思春期の心と身体の微妙な機微を、感じでいただければなと思います。ぜひ、今後も読み続けていただければ嬉しいです。
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