第15話 夏休みに二人で……
期末テストが終わり、夏休みを目前に控えた七月上旬。
答案用紙が次々と返却され、教室のあちこちで歓声と悲鳴が入り混じる。
そんな喧騒も、昼休みになればすっかり鳴りを潜め、いつもの賑やかな空気が戻ってきていた。
俺、桜井駆は、健太や蓮、そして陽菜や舞たちと机をくっつけ、弁当を広げていた。この大人数での昼食も、すっかり日常の一コマとして定着していた。
相変わらず、俺は女子たちの会話にうまく混ざれないでいたが、以前のような居心地の悪さはもうない。
ただ、そこに陽菜がいる。それだけで、この時間は俺にとって特別なものになっていた。
「あー、やっとテスト終わったな! 解放感ハンパねぇ!」
蓮が、伸びをしながら大げさに叫んだ。
「お前、どうせ一夜漬けだろ。赤点なかったのかよ」
「失敬な! 俺を誰だと思ってんだよ。まあ、古典はちょっとヤバかったけど、華麗に回避したぜ」
健太のツッコミを、蓮はひらりとかわす。この二人のやり取りは、もはや漫才だ。
「それでさ、健太、テストも終わったことだし、今週末、俺の彼女とダブルデートしねぇ?」
蓮が、爆弾を投下した。 その言葉に、俺だけでなく、健太も、そして女子たちも一斉に動きを止める。
「「「 ダブルデート!?」」」
「おうよ。健太も、葵ちゃんを誘ってさ。四人でどっか行こうぜ」
「い、いや、俺は別にいいけど……葵がなんて言うか……」
健太が、珍しく歯切れの悪い返事をする。その様子を見て、蓮はニヤリと笑った。
「なんだよ、健太。もしかして、葵ちゃんと喧嘩でもしてんのか?」
「……っ! な、なんでわかんだよ!」
「顔に書いてあんだよ、『彼女と絶賛喧嘩中』ってな」
蓮の指摘は、図星だったらしい。健太は、「うっ……」と呻きながら、がっくりと肩を落とした。
「……昨日、葵がさ、『夏休みに花火大会に行きたい』って言って」
「お、いいじゃん。青春だな」
「でも、その日は、大会前の合同強化練習の日とかぶっててさ、休めないよな。それを言ったら、『私のことより部活が大事なんだ』って、怒っちまって……」
健太は、心底しょげた様子で、ほうれん草の胡麻和えを箸でつついている。
普段は、俺たちの前で葵ちゃんの惚気話ばかりしている健太が、こんなに落ち込んでいるのは珍しい。
「あー……それは、まあ、女子なら怒るかもな」
「だよな……。どうすりゃいいんだよ、蓮。お前、彼女と喧嘩した時、どうしてんだ?」
健太が、藁にもすがるような目で蓮に助けを求める。 蓮は、少しだけ考える素振りを見せた後、からりと笑った。
「簡単だって。とりあえず、全力で謝る。たとえ、自分は悪くないって思っててもな」
「謝るのか……」
「おう。んで、彼女の言い分を、うんうんって全部聞いてやるんだよ。で、最後に、『お前のこと、世界で一番大事に思ってる』って言って、なんか甘いもんでも食わせてやれば、だいたい機嫌直るって」
「……お前、すげぇな」
蓮の、あまりにも手慣れたアドバイスに、健太は感心を通り越して、若干引いているように見えた。
俺も、その会話を黙って聞いていた。
彼女。喧嘩。仲直り。
そのどれもが、俺にとっては未知の世界の言葉だった。
(陽菜と、もし、付き合ったら……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
俺も、健太みたいに、陽菜と喧嘩したりするんだろうか。
陽菜が、俺に怒って、口を利いてくれなくなったら?
想像しただけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
俺は、陽菜の悲しい顔なんて、絶対に見たくない。
(……でも、蓮みたいに、うまく仲直りできる自信もねぇな)
こないだのショッピングモールでの失言だって、弟たちの助けがないと謝れなかったんだ。恋人同士の喧嘩なんて俺が立ち向かえるはずがない。
俺は、自分の不器用さを勝手に思い知らされて、小さくため息をついた。
恋愛ってやつは、どうやら、陸上よりもずっと、複雑で難しいものらしい。
◇
「……っていうことがあってさー。もう、ほんと大変だったんだから」
私の少し離れた席で、舞が、この前の部活の練習での失敗談を、身振り手振りを交えて話している。
その話に、他の女子たちは「わかるー!」「大変だったねー」と相槌を打ちながら、楽しそうに笑っていた。
私は、その会話に頷きながらも、どこか上の空だった。
私の意識は、斜め向かいに座る、カケルのことに、ずっと向いていたからだ。
(……健太くん、彼女さんと喧嘩しちゃったんだ)
さっきの、男子たちの会話が、耳に残っている。
恋人がいるって、大変なんだな。楽しいことばっかりじゃないんだ。
もし、私がカケルの彼女になれたら。
私も、健太くんの彼女さんみたいに、ヤキモチを焼いたり、ワガママを言ったりするのかな。
部活で忙しい彼に、「会いたい」って言って、困らせてしまったりするのかな。
(……ううん。私なら、きっと、言えない)
想像してみる。
カケルに、「ごめん、今日は部活で疲れてるから」って言われたら。
きっと私は、「そっか、わかった! 無理しないでね!」って、笑って言ってしまうだろう。
本当は、すごく、すごく会いたいのに。 彼に、嫌われたくないから。 迷惑だって、思われたくないから。 そうやって、自分の気持ちに蓋をして、いい子のフリをしてしまうに違いない。
(……ダメだな、私)
葵ちゃんみたいに、自分の気持ちを素直に表現できたら、どんなに楽だろう。 でも、私には、その勇気がない。
カケルとの、今の、この心地よい関係を、壊してしまうのが、怖くてたまらないからだ。
「……陽菜? 聞いてる?」
「へっ!? あ、ご、ごめん! 何の話だっけ?」
舞に声をかけられ、私はハッと我に返った。
どうやら、完全に自分の世界に入り込んでしまっていたらしい。
「もう、陽菜ったら。ボーっとして。……さては……」
「ち、違うってば!」
舞が、ニヤニヤしながら私の脇腹を突いてくる。咄嗟に否定したけど、何が違うんだろ。 私は、顔が熱くなるのを感じながら、慌てて首を横に振った。
「ふーん? まあ、いいけど。それでね、夏休みの話してたの。陽菜は、何か予定とかある?」
「夏休み……?」
そうだ。もう、すぐそこに、夏休みが来ている。
一年で、一番長くて、一番特別な季節。
「私、彼氏と海に行く約束してるんだー」
「いいなー! 私は、部活の合宿かなぁ」
友人たちが、キラキラとした目で、それぞれの夏の予定を語り合う。 その会話を聞きながら、私の頭の中には、自然と、一人の男の子の顔が浮かんでいた。
(カケルと、夏休み……)
もし、彼と二人で、どこかへ出かけられたら。 お祭りとか、花火大会とか。 浴衣を着て、彼の隣を歩けたら。
想像しただけで、心臓が、甘く、きゅんと締め付けられる。
「陽菜は、桜井くんと、二人でどっか行ったりしないの?」
舞が、核心を突いてきた。
「えっ!? い、行かないよ! だって、カケルは陸上部の練習とか大会で、忙しいだろうし……。私たちよりも部活忙しそうだし……」
「またそれ? 誘ってみなきゃ、わかんないじゃん」
「でも……」
「『でも』じゃないの! このままじゃ、何も始まらないよ?」
舞の言うことは、正しい。
わかってる。頭では、ちゃんとわかってるんだ。 でも、その一歩が、どうしても踏み出せない。
◇
「なあ、駆」
「……なんだよ」
女子たちの会話から意識を逸らすように、俺は健太の方を向いた。
「お前、夏休み、なんか予定あんのか? 日高さんと、二人でどっか行ったりしねーの?」
健太が、蓮と同じようなことを聞いてくる。どうやら、あっちの会話も聞こえていたらしい。
「……行かねぇよ。俺は、部活で忙しい」
「はい、出ましたー、陸上バカの優等生発言。お前、それ、本気で言ってんのか?」
「……本気だよ」
俺がそう答えると、健太は、呆れたように、深いため息をついた。
「あのな、駆。女子ってのはな、『忙しい』って言われたら、『じゃあ、誘っちゃダメなんだ』って思う生き物なんだよ。お前がそうやって壁作ってたら、日高さんだって、誘いたくても誘えねぇだろ」
「……」
健太の言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。
確かに、そうだ。 俺は、自分の弱さを、「忙しい」という言葉で正当化しているだけなのかもしれない。
陽菜に断られるのが怖い。 陽菜を誘って、もし、迷惑そうな顔をされたら。
そう思うと、足がすくんでしまうのだ。
「まあ、駆の気持ちもわかるけどな」
俺が黙り込んでいると、今まで静かに話を聞いていた蓮が、口を開いた。
「初めてってのは、なんでも怖いもんだよな。俺だって、今の彼女、初めてデートに誘った時、めっちゃ緊張したし」
「……お前が?」
「おうよ。断られたらどうしようって、三日くらい悩んだぜ? まあ、結果、OKもらえたけどな!」
蓮は、ニカッと笑って、自分の胸を叩いた。
いつもは、飄々としていて、何も考えていないように見えるこいつにも、そんな一面があったのか。少しだけ、意外だった。
「だからさ、駆も、あんま難しく考えんなよ。ダメ元で、当たって砕けろ、ってな。男だろ?」
「……当たって、砕けろ、か」
俺は、蓮の言葉を、心の中で反芻した。
夏休み。 陽菜と、二人で。
想像すると、心臓が、期待と不安で、大きく揺れ動く。
俺は、ちらりと、陽菜の方を見た。
彼女は、舞たちと笑い合っている。でも、その笑顔は、どこか、少しだけ、寂しそうに見えた。
もしかしたら、彼女も、俺と同じように、何かを待っているのかもしれない。
俺が、勇気を出すのを。 ただ、ひたすらに。