第14話 夕暮れ、二人の帰り道
図書室を出ると、ひんやりとした湿った空気が俺たちを包み込んだ。
あれだけ降り続いていた雨は、いつの間にか上がっていた。
空には、厚い雲の切れ間から、オレンジ色の夕日が顔を覗かせている。
雨上がりのアスファルトの匂いと、濡れた葉の匂い。そのすべてが、妙に鮮明に感じられた。
俺、桜井駆は、隣を歩く日高陽菜の横顔を、盗み見ることすらできずにいた。
さっきまでの、図書室での出来事が、何度も頭の中で再生される。
隣り合った肩から伝わってきた、彼女の体温。
俺の頬をくすぐった、さらさらの髪の感触。
俺の鼻腔を占領した、シャンプーの甘い香り。
その一つひとつが、俺の思考を麻痺させるには、十分すぎた。
二人とも、無言だった。でも、その沈黙は、少しも気まずくなかった。 気まずさを通り越して、もはや、どうしていいかわからない、というのが正直なところだ。
心臓が、まだ、ドクドクと大きな音を立てている。
隣を歩く陽菜にも、この音が聞こえてしまうんじゃないかと、本気で心配になるくらいに。
(……俺は、これから、どんな顔してこいつと話せばいいんだ)
今まで通り、なんて、もう絶対に無理だ。
今日の出来事で、俺の中の何かが、決定的に変わってしまった。
陽菜は、ただの幼馴染じゃない。 俺が、どうしようもなく意識してしまう、一人の「女の子」なんだ。
その事実が、ずしりとした重みを持って、俺の胸にのしかかっていた。
◇
(……どうしよう。心臓が、まだドキドキしてる)
カケルの少しだけ前を歩きながら、私、日高陽菜は、必死に自分の気持ちを落ち着かせようとしていた。
でも、無駄だった。 隣にいる彼の存在を意識するたびに、心臓は勝手に速度を上げていく。
図書室での、あの時間。 数学を教えてくれる、真剣な横顔。私のノートを指さす、大きくて、ゴツゴツした手。 時々、肩が触れ合った時の、彼の体温。
そのすべてが、私の記憶に、鮮明に焼き付いて離れない。
(カケルも、少しは、ドキドキしてくれたかな……)
英語を教えている時、彼が私の顔をじっと見つめていたことには、気づいていた。私が顔を近づけるたびに、彼の身体が、びくりと硬直していたことも。
もしかしたら、彼も、私と同じ気持ちでいてくれたのかもしれない。 そんな、都合のいい期待が、胸の中で、ふわりと膨らむ。
でも、すぐに、しゅるしゅると萎んでいく。
(……ううん。きっと、私が馴れ馴れしすぎただけだ)
彼は、女子と話すのが苦手なのだ。あんなに近くに座られて、きっと、迷惑だったに違いない。
そう思うと、胸がチクリと痛んだ。
嬉しい気持ちと、不安な気持ち。 その二つが、心の中で、ぐるぐると渦を巻いている。
何か、話さなきゃ。 このまま黙っていたら、彼に「やっぱり迷惑だったんだ」って思わせてしまうかもしれない。
「……雨、上がってよかったね」
絞り出したのは、そんな、ありきたりな言葉だった。
「……あぁ。そうだな」
カケルは、短くそう答えた。
その声が、いつもより少しだけ、優しい気がしたのは、きっと私の気のせいだ。
「今日の勉強会、その……ありがとう。カケルのおかげで、数学、なんとかなりそう」
「……俺の方こそ。英語、助かった」
短い会話。
でも、その言葉の応酬が、さっきまでの重い沈黙を、少しだけ溶かしてくれた気がした。
「また、わからないところあったら、聞いてもいい?」
「……おう。俺も、また頼むかもしんねぇ」
「うん!」
私は、嬉しくて、思わず顔が綻んでしまう。
よかった。嫌われては、いなかったみたいだ。
私がホッと胸を撫を下ろした、まさにその時だった。
――バシャアァァッ!
すぐ横の車道を、一台の車が、猛スピードで走り抜けていった。
そして、道路脇にできていた大きな水たまりの水を、盛大に跳ね上げたのだ。
「きゃっ!」
私が悲鳴を上げるのと、腕を強く引かれるのは、ほぼ同時だった。
◇
陽菜の悲鳴を聞いて、俺の身体は、考えるより先に動いていた。
水しぶきが、壁のように迫ってくる。
俺は、陽菜の細い腕を掴むと、力いっぱい自分の方へと引き寄せ、その身体を、自分の背中で庇うように抱きしめた。
ザアァァッ、という音と共に、冷たい水が、俺の背中と肩に叩きつけられる。
制服のシャツが、一瞬で肌に張り付く、不快な感触。 でも、そんなこと、どうでもよかった。
腕の中に、陽菜がいる。
驚くほど、小さくて、柔らかくて、温かい。
俺の胸に、彼女の顔が埋まっている。
陽菜から感じる甘い匂いが、鼻腔を突き抜けて、頭がクラクラした。
俺の心臓の音が、うるさい。
いや、これは、陽菜の心臓の音かもしれない。
どっちの音かなんて、もう、わからなかった。
車は、とっくに走り去っている。
でも、俺は、腕の力を緩めることができなかった。
離したくない。 このまま、ずっと、こうしていたい。 そんな、身勝手な想いが、胸の奥から溢れ出してくる。
「……か、カケル……?」
腕の中から、くぐもった声が聞こえる。
その声で、俺はハッと我に返った。
「あ、あぁ! 悪い!」
俺は慌てて陽菜から身体を離す。
見ると、陽菜は顔を真っ赤にして、俯いていた。俺も、きっと、同じくらいひどい顔をしているに違いない。
「だ、大丈夫か? 濡れてねぇか?」
「う、うん。カケルが、庇ってくれたから……。でも、カケルの制服が……!」
陽菜が、心配そうに俺の背中を見つめている。 俺のシャツは、右肩から背中にかけて、びしょ濡れだった。
「たいしたことねぇよ。これくらい、すぐ乾く」
俺は、強がってそう言った。 本当は、心臓が、まだ、ありえないくらい速く打っている。
「でも……」
陽菜は、おろおろしながら、自分のスカートのポケットを探り始めた。そして、小さな、可愛らしい刺繍の入ったハンカチを取り出す。
「せめて、顔だけでも……」
そう言って、彼女は、そっと俺の頬にハンカチを当てた。
ひんやりとした、柔らかな感触。
そして、陽菜の、小さな指先が、俺の肌に触れた。
「……っ」
俺は、息を止めた。 時間が、止まったみたいだった。
目の前には、俺を心配そうに見上げる、潤んだ瞳。
近い。 近すぎる。
このまま、少しだけ顔を傾ければ、俺たちの唇は、きっと――。
「……うん。もう、大丈夫。ありがとう」
陽菜は、俺の顔を拭き終えると、パッと手を離し、はにかむように笑った。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
やがて、見慣れた家の前の道に着く。
二人とも、最後まで、無言だった。
「……じゃあな」
「……うん。また、明日」
ぎこちない挨拶を交わし、それぞれの家のドアへと向かう。
俺は、自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。
今日の出来事が、何度も、何度も、頭の中で再生される。
(……なんだ、これ)
心臓が、まだ、うるさい。
頬には、陽菜の指先の、柔らかな感触が、まだ、生々しく残っている。
目を閉じれば、腕の中にすっぽりと収まった、あいつの小さな身体の温もりを、思い出してしまう。
この、胸の奥で暴れている、熱い何かは、一体なんなんだ。
俺は、天井を仰ぎ見ながら、大きく、深いため息をついた。