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幼馴染の身体を意識し始めたら、俺の青春が全力疾走を始めた件  作者:
第2章 夏服が揺れる距離(6月/7月)
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第14話 夕暮れ、二人の帰り道

 図書室を出ると、ひんやりとした湿った空気が俺たちを包み込んだ。

 あれだけ降り続いていた雨は、いつの間にか上がっていた。


 空には、厚い雲の切れ間から、オレンジ色の夕日が顔を覗かせている。

 雨上がりのアスファルトの匂いと、濡れた葉の匂い。そのすべてが、妙に鮮明に感じられた。


 俺、桜井さくらいかけるは、隣を歩く日高ひだか陽菜ひなの横顔を、盗み見ることすらできずにいた。


 さっきまでの、図書室での出来事が、何度も頭の中で再生される。


 隣り合った肩から伝わってきた、彼女の体温。

 俺の頬をくすぐった、さらさらの髪の感触。

 俺の鼻腔を占領した、シャンプーの甘い香り。

 その一つひとつが、俺の思考を麻痺させるには、十分すぎた。


 二人とも、無言だった。でも、その沈黙は、少しも気まずくなかった。 気まずさを通り越して、もはや、どうしていいかわからない、というのが正直なところだ。


 心臓が、まだ、ドクドクと大きな音を立てている。

 隣を歩く陽菜にも、この音が聞こえてしまうんじゃないかと、本気で心配になるくらいに。


(……俺は、これから、どんな顔してこいつと話せばいいんだ)


 今まで通り、なんて、もう絶対に無理だ。

 今日の出来事で、俺の中の何かが、決定的に変わってしまった。


 陽菜は、ただの幼馴染じゃない。 俺が、どうしようもなく意識してしまう、一人の「女の子」なんだ。

 その事実が、ずしりとした重みを持って、俺の胸にのしかかっていた。





(……どうしよう。心臓が、まだドキドキしてる)


 カケルの少しだけ前を歩きながら、私、日高ひだか陽菜ひなは、必死に自分の気持ちを落ち着かせようとしていた。

 でも、無駄だった。 隣にいる彼の存在を意識するたびに、心臓は勝手に速度を上げていく。


 図書室での、あの時間。 数学を教えてくれる、真剣な横顔。私のノートを指さす、大きくて、ゴツゴツした手。 時々、肩が触れ合った時の、彼の体温。

 そのすべてが、私の記憶に、鮮明に焼き付いて離れない。


(カケルも、少しは、ドキドキしてくれたかな……)


 英語を教えている時、彼が私の顔をじっと見つめていたことには、気づいていた。私が顔を近づけるたびに、彼の身体が、びくりと硬直していたことも。


 もしかしたら、彼も、私と同じ気持ちでいてくれたのかもしれない。 そんな、都合のいい期待が、胸の中で、ふわりと膨らむ。

 でも、すぐに、しゅるしゅると萎んでいく。


(……ううん。きっと、私が馴れ馴れしすぎただけだ)


 彼は、女子と話すのが苦手なのだ。あんなに近くに座られて、きっと、迷惑だったに違いない。

 そう思うと、胸がチクリと痛んだ。


 嬉しい気持ちと、不安な気持ち。 その二つが、心の中で、ぐるぐると渦を巻いている。


 何か、話さなきゃ。 このまま黙っていたら、彼に「やっぱり迷惑だったんだ」って思わせてしまうかもしれない。


「……雨、上がってよかったね」


 絞り出したのは、そんな、ありきたりな言葉だった。


「……あぁ。そうだな」


 カケルは、短くそう答えた。

 その声が、いつもより少しだけ、優しい気がしたのは、きっと私の気のせいだ。


「今日の勉強会、その……ありがとう。カケルのおかげで、数学、なんとかなりそう」


「……俺の方こそ。英語、助かった」


 短い会話。

 でも、その言葉の応酬が、さっきまでの重い沈黙を、少しだけ溶かしてくれた気がした。


「また、わからないところあったら、聞いてもいい?」


「……おう。俺も、また頼むかもしんねぇ」


「うん!」


 私は、嬉しくて、思わず顔が綻んでしまう。

 よかった。嫌われては、いなかったみたいだ。


 私がホッと胸を撫を下ろした、まさにその時だった。


 ――バシャアァァッ!


 すぐ横の車道を、一台の車が、猛スピードで走り抜けていった。

 そして、道路脇にできていた大きな水たまりの水を、盛大に跳ね上げたのだ。


「きゃっ!」


 私が悲鳴を上げるのと、腕を強く引かれるのは、ほぼ同時だった。





 陽菜の悲鳴を聞いて、俺の身体は、考えるより先に動いていた。


 水しぶきが、壁のように迫ってくる。


 俺は、陽菜の細い腕を掴むと、力いっぱい自分の方へと引き寄せ、その身体を、自分の背中で庇うように抱きしめた。


 ザアァァッ、という音と共に、冷たい水が、俺の背中と肩に叩きつけられる。


 制服のシャツが、一瞬で肌に張り付く、不快な感触。 でも、そんなこと、どうでもよかった。


 腕の中に、陽菜がいる。

 驚くほど、小さくて、柔らかくて、温かい。

 俺の胸に、彼女の顔が埋まっている。

 陽菜から感じる甘い匂いが、鼻腔を突き抜けて、頭がクラクラした。


 俺の心臓の音が、うるさい。

 いや、これは、陽菜の心臓の音かもしれない。

 どっちの音かなんて、もう、わからなかった。


 車は、とっくに走り去っている。

 でも、俺は、腕の力を緩めることができなかった。


 離したくない。 このまま、ずっと、こうしていたい。 そんな、身勝手な想いが、胸の奥から溢れ出してくる。


「……か、カケル……?」


 腕の中から、くぐもった声が聞こえる。


 その声で、俺はハッと我に返った。


「あ、あぁ! 悪い!」


 俺は慌てて陽菜から身体を離す。

 見ると、陽菜は顔を真っ赤にして、俯いていた。俺も、きっと、同じくらいひどい顔をしているに違いない。


「だ、大丈夫か? 濡れてねぇか?」


「う、うん。カケルが、庇ってくれたから……。でも、カケルの制服が……!」


 陽菜が、心配そうに俺の背中を見つめている。 俺のシャツは、右肩から背中にかけて、びしょ濡れだった。


「たいしたことねぇよ。これくらい、すぐ乾く」


 俺は、強がってそう言った。 本当は、心臓が、まだ、ありえないくらい速く打っている。


「でも……」


 陽菜は、おろおろしながら、自分のスカートのポケットを探り始めた。そして、小さな、可愛らしい刺繍の入ったハンカチを取り出す。


「せめて、顔だけでも……」


 そう言って、彼女は、そっと俺の頬にハンカチを当てた。


 ひんやりとした、柔らかな感触。

 そして、陽菜の、小さな指先が、俺の肌に触れた。


「……っ」


 俺は、息を止めた。 時間が、止まったみたいだった。

目の前には、俺を心配そうに見上げる、潤んだ瞳。


 近い。 近すぎる。

 このまま、少しだけ顔を傾ければ、俺たちの唇は、きっと――。


「……うん。もう、大丈夫。ありがとう」


 陽菜は、俺の顔を拭き終えると、パッと手を離し、はにかむように笑った。

 俺は、その場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。


 やがて、見慣れた家の前の道に着く。

 二人とも、最後まで、無言だった。


「……じゃあな」

「……うん。また、明日」


 ぎこちない挨拶を交わし、それぞれの家のドアへと向かう。


 俺は、自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。


 今日の出来事が、何度も、何度も、頭の中で再生される。



(……なんだ、これ)



 心臓が、まだ、うるさい。


 頬には、陽菜の指先の、柔らかな感触が、まだ、生々しく残っている。


 目を閉じれば、腕の中にすっぽりと収まった、あいつの小さな身体の温もりを、思い出してしまう。


 この、胸の奥で暴れている、熱い何かは、一体なんなんだ。


 俺は、天井を仰ぎ見ながら、大きく、深いため息をついた。







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