第13話 放課後の図書室にて
六月の終わり。窓の外では、梅雨のしとしととした雨が、紫陽花の花を濡らしていた。
教室の掲示板に期末テストの範囲表が張り出されると、クラス全体が途端にそわそわとした空気に包まれる。それは、俺たち二年五組も例外ではなかった。
「うげぇ……古典、範囲広すぎだろ……」
「数学なんて、もう暗号にしか見えねぇよ」
健太と蓮が、範囲表の前で頭を抱えている。
部活動も、テスト一週間前の今日から活動停止期間に入った。
放課後のグラウンドから活気が消え、代わりに、生徒たちの間にはテストという名の暗雲が立ち込めている。
俺、桜井駆は、自分の席でため息をついた。
俺の最大の敵は、英語だ。特に、長文読解。単語の意味はわかっても、文章全体で何を言っているのかが、さっぱり頭に入ってこない。
「はぁ……どうしよ、英語……」
俺がぼそりと呟くと、前の席の日高陽菜が、くるりとこちらを振り返った。
「カケル、英語苦手なの?」
「……致命的にな」
「そっか。私は、数学がちょっと……」
陽菜は、困ったように眉を下げて、自分の数学の問題集を指さした。
その瞬間、俺たちの隣で話を聞いていた健太が、ニヤリと笑って手を叩いた。
「お、じゃあ解決じゃん! 駆が日高に数学教えて、日高が駆に英語教えれば、万事解決! ウィンウィンってやつだな!」
「なっ……!?」
健太の余計な、しかし的確すぎる提案に、俺と陽菜は同時に固まった。
「い、いや、でも、陽菜も忙しいだろ……」
「そ、そんな! 私がカケルに教えるなんて、おこがましいよ……!」
二人して、全力で否定する。だが、周りの友人たちは、完全に乗り気だった。
「いいじゃん、陽菜! 桜井くんに教えてもらいなよ!」
「駆も、日高さんに教えてもらえば赤点回避できるって!」
舞と蓮が、口々にはやし立てる。完全に、外堀を埋められてしまった。
俺と陽菜は、顔を見合わせる。その顔は、きっとお互いに真っ赤だったと思う。
「……じゃあ、……放課後、図書室で、少しだけ……する?」
陽菜が、蚊の鳴くような声で言った。 俺は、それに頷くことしか、できなかった。
◇
放課後の図書室は、雨の音だけが静かに響く、特別な空間だった。
高い天井、ずらりと並んだ本棚、そして、古い紙の匂い。
普段の教室の喧騒とはかけ離れたその場所で、俺と陽菜は、大きな長机に向かい合って座っていた。
いや、正確には、隣り合って、座っていた。
向かい合って座ると、どうしても視線が合ってしまって気まずいから、という理由で、俺がそう提案したのだ。
今思えば、それは完全な失策だった。隣り合うことで、俺たちの距離は、物理的にゼロに近くなってしまったからだ。
「えっと、じゃあ、先に数学からでいい?」
「う、うん。お願いします……」
陽菜が、問題集を俺の前に差し出す。ふわりと、シャンプーの甘い香りがした。
俺は平静を装いながら、問題集を覗き込む。
「……ああ、この問題か。これは、まずこの公式を使ってだな……」
俺は、シャープペンシルを手に取り、陽菜のノートに解法を書き込んでいく。
数学は、嫌いじゃない。答えが一つしかない、その単純明快さが好きだ。陸上の、タイムという絶対的な数字と、どこか似ている。 普段、口下手な俺も、数学のこととなると、不思議とスラスラ言葉が出てきた。
「……で、この数字をここに代入すると、答えが出る。……わかるか?」
「うん……すごい、カケル。先生の説明より、ずっとわかりやすい」
陽菜が、感心したように、キラキラとした瞳で俺を見つめてくる。
その純粋な尊敬の眼差しに、俺の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
(……やめろ、そんな顔で見るな)
嬉しい。 素直に、そう思った。 陽菜に褒められて、認められて、嬉しくないはずがない。 だが、それと同時に、どうしようもないくらい、恥ずかしかった。
「……別に、普通だろ」
俺は照れ隠しにそう言って、彼女のノートに視線を落とす。
陽菜が、俺の書いた解法を、真剣な顔で追っている。その横顔が、あまりにも綺麗で、俺は数学のことなんて、一瞬で頭から吹き飛んでしまった。
長いまつ毛。すっと通った鼻筋。少しだけ開かれた、桜色の唇。そのすべてが、俺の心をかき乱す。
「……あの、カケル? 次の問題、なんだけど……」
「あ、あぁ、悪い」
陽菜の声で、俺はハッと我に返った。いかん、いかん。見惚れている場合じゃない。
俺は、次の問題に意識を集中させようとする。
だが、もう手遅れだった。
陽菜の存在そのものが、俺の集中力を、根こそぎ奪い去っていく。
◇
(カケルの声、いつもより、ちょっと低い……)
数学を教えてくれる彼の声は、普段のぶっきらぼうな声とは少し違って、落ち着いていて、すごく優しかった。
私のために、一生懸命、言葉を選んでくれているのがわかる。
そのことが、嬉しくて、くすぐったくて、たまらない。
「……ここは、こうじゃなくて、こっちの角度から補助線を引くんだ」
カケルが、私のノートを指さす。
彼の大きな手が、私の小さな手の、すぐ隣にある。 日に焼けた、骨張った指。部活の筋トレでできた、硬いマメ。
その男の子らしい手に、私の心臓は、ずっとドキドキしっぱなしだった。
彼が、身を乗り出して解説してくれるたびに、彼の肩が、私の肩に、そっと触れる。
そのたびに、私の身体は、びくりと跳ねてしまう。
彼の匂いが、すぐ近くでする。汗と、制汗剤の匂いが混じった、カケルの匂い。
もう、ダメだった。数学の公式なんて、一つも頭に入ってこない。 私の頭の中は、カケルのことで、いっぱいいっぱいだった。
「……これで、数学は大丈夫そうかな?」
「う、うん! ありがとう! すごく、よくわかった!」
私は、ほとんど内容を理解できていないまま、必死に頷いた。
「じゃあ、次は、英語、お願いしてもいいか?」
「も、もちろん!」
今度は、私の番だ。 私は深呼吸を一つして、彼の英語の教科書を覗き込んだ。
「えっと、ここの長文だね。これは、まず主語と動詞を見つけるのが大事で……」
私は、カケルがしてくれたように、彼のノートに解説を書き込んでいく。
でも、集中できない。
隣に座る彼の体温が、じかに伝わってくるようで、意識が全部そっちに持っていかれてしまう。
彼の逞しい腕が、すぐそこにある。
時々、彼が動くたびに、その硬い筋肉が、私の腕に、そっと触れる。
そのたびに、私の心臓は、悲鳴を上げそうになった。
(……ダメだ、私。先生役、ちゃんとできてるかな)
顔が、熱い。きっと、真っ赤になっているに違いない。
カケルに、変に思われていないだろうか。 「こいつ、何一人で赤くなってんだ」って、呆れられていないだろうか。
不安で、いっぱいだった。
でも、それ以上に。
この、心臓が張り裂けそうなほどのドキドキが。幸せでたまらなかった。
◇
陽菜の顔が、近い。
英語を教えてくれる彼女は、俺のノートを覗き込むように、ぐっと顔を近づけてくる。
そのたびに、シャンプーの甘い香りが、俺の鼻腔を占領する。さらさらの黒髪が、俺の頬を、くすぐるように触れた。
「……っ」
俺は、息を止めた。
身体が、石のように硬直する。
陽菜の、柔らかな腕が、俺の腕に触れている。
ブラウス越しに、彼女の体温が伝わってくる。
もう、限界だった。
教科書に並んだアルファベットの羅列は、もはや意味のない記号にしか見えない。俺の全神経は、隣に座る、陽菜という存在に、完全に支配されていた。
「……だから、ここの関係代名詞は、前の単語を修飾してるから……って、カケル? 聞いてる?」
陽菜が、不思議そうな顔で、俺の顔を覗き込んできた。
その距離、わずか数十センチ。 大きな瞳に、俺の間の抜けた顔が映っている。
「あ、あぁ! 聞いてる、聞いてるぞ!」
俺は、自分でも驚くほど裏返った声で、そう答えた。
陽菜は、きょとんとした顔をしていたが、やがて「そっか」と小さく頷き、再び教科書に視線を落とした。
(……危なかった)
俺は、大きく息を吐いた。
この勉強会は、拷問だ。
甘くて、幸せで、それでいて、息が詰まりそうになる、最高の拷問。
俺たちが、そんな甘酸っぱい攻防を繰り広げている中、 図書室の隅の席で、健太と蓮が、俺たちの様子をニヤニヤしながら見守っていた。
「おい、見ろよ、蓮。あの二人、完全に自分たちの世界に入ってるぜ」
「だな。勉強しに来たのか、イチャつきに来たのか、わかんねーな」
「まあ、駆にとっては、大きな一歩だろ。あいつが、陽菜以外の女子と、あんな距離で話せるわけねぇしな」
「……だな。ま、俺らは邪魔しないように、静かに見守ってやろうぜ。青春、青春」
そんな会話が交わされていたことなど、俺たちは知る由もなかった。
やがて、閉館時間を告げるチャイムが鳴り、俺たちの勉強会は終わりを告げた。
図書室を出て、並んで歩く帰り道。 雨は、いつの間にか上がっていた。
湿ったアスファルトの匂いと、雨上がりの澄んだ空気が、火照った俺の身体を、優しく冷ましてくれるようだった。
二人とも、無言だった。でも、その沈黙は、少しも気まずくなかった。
ただ、隣を歩くお互いの存在を、今まで以上に強く意識していた。
第13話も、お読みいただき、ありがとうございました。
こんな、恋したかったなあ。