第123話 最後の夏、君と見た空。
八月の突き抜けるような青空の下、巨大なスタジアムは、全国から集まった猛者たちの熱気と観客たちの期待で、陽炎のように揺らめいていた。
インターハイ本番。
俺、桜井駆は、二百メートルの予選、そのスタートラインに立っていた。
心臓が早鐘を打っている。でも、それは春先の焦燥感に満ちたものとは全く違った。心地よい緊張感。そして、どうしようもないくらいの感謝の気持ち。
ここまで連れてきてくれてありがとう。
俺は、観客席の一番前に視線を送った。
そこにいた。 俺の名前が書かれた、手作りのうちわを、少しだけ恥ずかしそうに振る親父とおふくろ。チームのジャージを着て、俺以上に緊張した顔で、固唾をのむ、親友で部長の健太。同行部員としてストップウォッチを握りしめ、真っ青な顔でこちらを見つめる中村沙織。そして、その中心で、祈るように手を組んでいる陽菜。
遠くまで、わざわざ来てくれた、俺のかけがえのない応援団。
その光景を見た瞬間。 俺の全身に、力がみなぎっていくのがわかった。
俺は、俺のすべてを、この一本のレースにぶつけるだけだ。
――パンッ!
乾いた号砲と共に。俺は地面を蹴った。
隣のレーンを走る選手たちの、息遣いが聞こえる。
速い。レベルが違う。
地方大会とは比べ物にならない、圧倒的な速さ。
コーナーを曲がり、最後の直線。
俺は、明らかに後れを取っていた。
予選を通過できない。その残酷な事実が頭をよぎる。
でも、俺の心は折れなかった。
頬に残る、地方大会での陽菜の唇の感触。
仲間たちの声援。
そして、今、俺を見守ってくれている、あいつらの顔。
俺は、歯を食いしばった。
腕を振れ。
脚を前に出せ。
陽菜の笑顔を目指して。
俺は、最後の最後の力を振り絞った。
ゴールラインが、目の前に迫ってくる。
俺は、そこに、身体を投げ出すように飛び込んだ。
◇
(カケル……!)
最後の直線、彼の順位が絶望的なのは、私にもわかった。
でも、私は目を逸らさなかった。
彼の、あの必死な形相。
最後まで諦めずに腕を振る、その雄々しい姿。
私の目に、彼のすべてを焼き付けたかった。
ゴールラインを、駆け抜けた瞬間。
彼の、高校最後の夏が終わった。
周りからは、ため息にも似た声が漏れる。
でも、私はなぜか泣いていなかった。
ただ胸がいっぱいで、誇らしくて、どうしようもなかった。
頑張ったね。 本当に頑張ったね、カケル。
◇
ゴールした後も、しばらく俺は、トラックの上から動けなかった。
全身が痛い。 でも不思議と心は穏やかだった。
俺は、すべてを出し切った。
結果は予選敗退。
でも、電光掲示板に、表示されたタイムは、自己ベストを更新していた。
人生で、一番の走りだった。
俺の口元からは、自然と笑みがこぼれた。
悔しさなんて、どこかへ吹き飛んでしまうくらいの、晴れやかで、満足げな最高の笑顔。
俺は、ゆっくりと身体を起こした。そして、仲間たちの元へと歩き出す。
「お疲れ、駆! ナイスランだったぜ! 自己ベスト更新、すげぇじゃねぇか!」
健太が、俺の肩を力強く叩く。
「桜井くん、本当にお疲れ様……! すごく、カッコよかった……!」
中村が、タオルを渡してくれながら、涙ぐんで笑ってくれた。
父さんは、何も言わずに、俺の頭を、一度だけわしわしと撫でた。
母さんは、もう涙でぐしゃぐしゃだった。
そして、陽菜が、俺の前に立った。
彼女は、ただ、俺の汗まみれの身体を、力いっぱい抱きしめてくれた。
「……お疲れ様。カケル。……私にとっては、カケルが、世界で一番速かったよ。世界で一番カッコよかった」
その震える声と、温もりが、俺のすべての疲れを溶かしていく。
俺も、彼女の小さな身体を、優しく抱きしめ返した。
ありがとう。
ただ、その一言だけを、心の中で、何度も何度も繰り返した。




