第122話 温かい祝福
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光が、金色の筋となって部屋に伸び、空気中の小さな埃をキラキラと照らしている。そして、その光が、俺の瞼を優しく揺らした。
ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋の殺風景な天井ではなかった。女の子らしい、淡いピンク色の壁紙。小さなぬいぐるみたちが、棚の上からこちらを見下ろしている。
ここは陽菜の部屋だった。彼女がいつも使っているフローラル系のシャンプーと、陽だまりのような優しい匂いが、部屋中に満ちている。
そして、俺の腕には、世界で一番愛おしい重み。
陽菜が、俺の腕を枕にして、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。長いまつ毛が頬に影を落とし、少しだけ開かれた唇からは、幸せそうな吐息が漏れている。
昨夜の出来事が夢ではなかったことを、その温もりと規則正しい寝息が教えてくれる。
俺は、陽菜の、その無防備な寝顔をじっと見つめた。
頬に残る涙の跡。それは悲しみの涙ではない。俺が彼女の辛い記憶を幸せな記憶で上書きできた証。
よかった。心の底から、その一言が込み上げてくる。
昨日の夜、陽菜が俺にすべてを委ねてくれた時、俺は、喜びと同時に、とてつもない恐怖を感じていた。
俺の、たった一つの過ちが、ようやく光の中に歩き出そうとしている彼女を、また、あの暗闇に引き戻してしまうかもしれない。そのプレッシャーで押しつぶされそうだった。
でも、陽菜は、俺を受け入れてくれた。「嬉しい」と涙を流しながら、笑ってくれたのだ。あの笑顔を、俺は一生忘れない。
俺は、陽菜の柔らかな髪をそっと撫でた。
指先に絡まる絹のような感触が、どうしようもなく愛おしい。
(……俺が、守る)
心の中で強く誓った。この寝顔を。 この温もりを。 この俺を信じてくれた、かけがえのない存在を。
過去の傷からだけじゃない。これから先、彼女に降りかかるであろう、すべてのことから、俺が一生守り続けるのだと。そう思って、彼女の額にそっとキスを落とした。
◇
額に触れる、優しい感触。
ゆっくりと目を開けると、目の前に、大好きな人の優しい顔があった。
朝日に照らされた彼の瞳が、私だけを映している。
「……おはよう、カケル」
「……おはよう、陽菜」
私たちは、お互いの顔を見つめ合って、ふふっと笑い合った。
身体の奥の方が少しだけ痛む。初めての気怠さ。
でもそれは、体育倉庫で感じた、あの恐怖と、それから長く続いた心の痛みと比べると、全然痛くなかった。
むしろ、カケルと一つになれた幸せな証のように感じられて、私の心が温かいもので満たされていく。
もう、怖い、なんて気持ちは、どこにもなかった。
ただ、彼の腕の中にいる絶対的な安心感だけがそこにあった。
彼の心臓の音が、私の背中から、優しく伝わってくる。
「……カケル」
「ん?」
「……夢みたい。……こんな幸せな朝が来るなんて、……私、ずっと思ってたの。もう二度と、他の誰かを好きになることなんてないんだろうなって……」
私がそう呟くと、彼は少しだけ困ったように笑って、私の身体をさらに強く抱きしめてくれた。
「……夢じゃないよ。……これからもずっと一緒だ」
その低い声と、腕の力強さが、どうしようもなく愛おしい。
私は、彼の胸に、顔をうずめた。
◇
腕の中で、陽菜が猫のように甘えてくる。
その、あまりにも可愛い仕草に、俺の心臓は朝から波打っていた。
俺は、どうしても確認しなければならないことがあった。
どうしても、彼女の本当の言葉が聞きたかった。
「……陽菜」
「ん?」
「……その、……大丈夫、だったか? ……本当に……辛くなかったか?」
俺の、その不器用な問いに、陽菜はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、朝日に照らされてキラキラと輝いている。
そしてその瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ! ご、ごめん……! やっぱり、無理させちまったよな……!」
俺が慌てて謝ると、陽菜は、ぶんぶんと首を横に振った。
そして、今まで見た中で、一番美しい笑顔で俺に微笑みかけた。
「……ううん。……怖くなかったし痛くなかったよ。全然。……カケルが、何度も私の名前を呼んでくれたから。カケルの声がずっとそばにあったから。……だから大丈夫だったの」
その言葉と笑顔に、俺は救われた。
心の底から安堵した。
俺は何も言わずに、彼女の涙の跡が残る唇に、そっと自分の唇を重ねた。
昨日の夜の、情熱的なキスとは違う。 お互いの存在を確かめ合うような優しくて温かい、朝のキス。この幸せな時間が永遠に続けばいいのにと思っていた。
その時だった。
コンコン、と。 控えめなノックの音が、部屋に響いた。
俺と陽菜は、ビクリと肩を震わせ、弾かれたように身体を離す。
「……お姉ちゃん? カケルお兄ちゃんも、いるんでしょ?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、莉子ちゃんの、やけに落ち着いた声だった。
「お母さんが、朝ごはんできたから、二人とも降りてらっしゃいって」
莉子ちゃんの、やけに大人びた、でも、どこか楽しそうな声だけが、ドアの向こうから聞こえてきて、足音が遠ざかっていく。
いつもは容赦なく乱入してくる莉子ちゃんなのに、ドアが開けられる気配は全くなかった。
俺たちは、顔を見合わせた。
そして次の瞬間、二人して顔から火が出るくらい真っ赤になった。
「……ど、どうしよう、カケル……」
「……ど、どうするって言われても……」
バレてる。間違いなく、全部バレてる。
俺たちは観念して、気まずい沈黙の中で身支度を整えた。 甚平しかない俺のために、陽菜がおじさんのスウェットを持ってきてくれた。その後、処刑台に向かうような気持ちで、そっと部屋のドアを開けて階段を降りる。
リビングのドアを開けると、香ばしい味噌汁の匂いが、ふわりと漂ってきた。
食卓には、温かい味噌汁と、ほかほかと湯気の立つ白いご飯。そして綺麗な焼き色のついた鮭が並んでいた。
その中に、俺の分の箸と茶碗が、当たり前のように用意されていた。
「あら、おはよう。二人とも、よく眠れた?」
キッチンに立つおばさんは、俺たちの顔を交互に見ると、何も言わずに、ただ、ふわりと優しく微笑んだ。向かいの席に座る莉子ちゃんは、恥ずかしいのか、ずっと俯いて味噌汁を啜っている。でも、その耳が、真っ赤に染まっているのを、俺は見逃さなかった。
俺と陽菜は、顔を見合わせ、小さくため息をついた。 気まずい雰囲気の中、ただ、もくもくと朝食を食べる。人生で一番、味のしない朝食だった。
ふと俯いていた莉子ちゃんが顔を上げた。
そして、俺たちの、特に、姉である陽菜の顔を、じっと見つめると、はにかむようにふわりと笑った。
「お姉ちゃん、よかったね」
その心からの祝福の言葉に。
俺と陽菜は、また顔を見合わせて、今度は、どうしようもなく幸せな気持ちで、笑い合った。
二人だけの秘密は、みんなの温かい祝福に変わっていた。




