第121話 『世界で一番安心できる場所』
陽菜の部屋。
二人きりになるのは、バレンタインのあの日以来だった。
あのときは、張り詰めた空気と、どうしようもない気まずさで息が詰まりそうだったのに。今は、部屋の隅々までが、穏やかで優しい空気に満ちている。
部屋の真ん中で、どうしていいか分からずに固まっている俺を見て、陽菜がふふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「……カケル、突っ立ってないで、こっち座って?」
陽菜はそう言って、自分のベッドの縁をぽんぽんと軽く叩いた。
俺は、ごくりと唾を呑み、言われるがままに、その隣に少しだけ距離を空けて腰を下ろす。ベッドのスプリングが、ぎしり、と小さな音を立てた。
部屋全体が、陽菜の甘い匂いに満ちている。
子供の頃、当たり前のように上がり込んでいたこの部屋が、今は、なんだか神聖な場所に感じられていた。
「……楽しかったね、今日のお祭り」
陽菜が、ぽつりとそう呟いた。
その声は、幸せの余韻で少しだけ弾んでいる。
「……おう。……最高だった」
「……ありがとう。去年の約束守ってくれて」
「いや。……あのさ、陽菜」
「ん?」
「……花火を見ながら考えてたんだ。……来年も、再来年も、十年後も。ずっと陽菜の隣で一緒に見たいなって」
俺の、その精一杯の言葉に、陽菜の顔が、ぽっと赤く染まる。
「……私も……同じこと、考えてたよ」
俺たちは、しばらく言葉もなく、ただ、お互いの顔を見つめ合っていた。
やがて、陽菜が何かを決意したように、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
その瞳の奥に、ほんの少しだけ恐怖の色が滲んでいることに俺は気づいていた。
でもそれ以上に、強い強い光が宿っていることも。
「……私ね。……カケルと前に進みたい。カケルと、そういうこと、したいなって思ったの」
陽菜の震えている、でも、真っ直ぐな声。
陽菜は、ゆっくりと立ち上がると俺の前に立った。
そして震える手で、浴衣の帯をはらりと解き始める。
俺は、自分が息を呑むのがわかった。
「……陽菜……」
「……カケル」
陽菜は、俺の大きな手のひらを取る。
そして、その手を自分の左手首へと導いた。
そこには俺があげた、水色のリストバンドがつけられていた。
「……これは、カケルがくれた、私のお守りなの。『心のお守り』。これに触ると、すぐ近くにカケルを感じられるんだ」
そして陽菜は、俺の手をそっと離すと、自分の勉強机の一番上の引き出しへと向かった。小さな箱の中から、一つの小さな四角い袋を取り出す。
彼女は、俺の前に戻ってくると、その小さな袋を俺の震える手のひらに、そっと置いた。
「そして、こっちが藤井先生にもらった、私たちの『未来のお守り』。……怖いけど。……カケルとなら……大丈夫だって思えるの」
陽菜のその涙ぐんだ、でも力強い告白。
俺の胸の中で陽菜への愛おしさが爆発した。
気付けば、俺は、この世界で一番かわいい女の子を優しく抱きしめていた。
この腕の温もりが。
陽菜の最後の恐怖を溶かしてくれればと思って。
俺たちは、夢中でお互いの唇を求めた。
それは、もうただのキスじゃなかった。
お互いのすべてを求め合う、魂の繋がり。
◇
長いキスが終わって、ゆっくりと唇が離れる。
目の前には、熱っぽい瞳をしたカケルの顔。
その視線に身体中が熱くなる。
カケルは、私の緩んだ浴衣の襟元に、そっと手をかけた。
その不器用で優しい手つきに、どうしようもなく愛おしさが込み上げる。
はらり、と、浴衣が肩から滑り落ちた。
部屋の柔らかな光の中に、初めて、私の肌が晒された。
天使のワンピースを引き裂かれたときの恐怖はもう感じない。
ただただ、恥ずかしくて、カケルの顔が見られなかった。
そして俯いた私の目に映ったのは、彼の鍛えられた逞しい腕。
私も、彼の甚平に、そっと手を伸ばした。
カケルの、息を呑む気配が伝わってくる。
彼も、きっと同じくらい緊張しているんだ。
そう思うと、不思議と、恐怖よりも愛おしさが勝った。
初めて見る、カケルのすべて。しなやかな筋肉に覆われた、陸上選手特有の、引き締まった身体。
初めて見せる、私のすべて。カケルは、どんな顔で、私を見てるんだろう。
怖くて、でも、知りたくて、ゆっくりと顔を上げる。
彼の瞳は、欲望の色じゃなかった。ただひたすらに、愛おしいものを見るような慈しみに満ちた優しい色をしてくれていた。
その視線に、私は救われる。
彼が、私を、そっと抱き上げ、ゆっくりとベッドの上に横たえた。
やっぱり一瞬だけ。体育倉庫での、あの冷たいマットの感触と、獣のような息遣いが脳裏をよぎった。びくり、と私の身体が硬直するのが自分でもわかる。
でも、すぐに、彼の優しいキスが、わたしの身体に落とされた。彼の温かさが、私の忌まわしい記憶を上書きしていく。
バレンタインデーのような、彼を拒絶する心の声は、聞こえなかった。
「……大丈夫だ。陽菜。……俺がずっとそばにいる。……絶対に、陽菜を傷つけるようなことはしない」
彼の囁く声が、私の最後の恐怖を溶かしていく。
怖い、なんて少しも思わない。
ただ温かくて安心できて、どうしようもなく幸せだった。
そして。
彼のすべてが、私の中に入ってきて。
私も、彼のすべてを、受け止めている。
舞が言っていた。
『世界で一番安心できる場所』
その意味が、今、ようやくわかった気がした。
初めて受け入れた瞬間、身体の奥に鋭い痛みが走った。
思わず、彼の背中を掴む手に力が入る。
でもそれは、一瞬だった。
すぐに彼の動きが止まり、心配そうな声が私の耳元で囁く。
「……陽菜……ごめん……。やっぱりやめようか……?」
違う。違うの、カケル。
私は首を横に振って、彼の頬にそっと手を添えた。
そして涙で濡れた瞳のまま、精一杯の笑顔で彼を見つめる。
「大丈夫だよ……。嬉しいの。この痛みはね、カケルが、私の嫌な記憶を全部消してくれてる痛みだから……」
痛みよりも、ずっとずっと大きく温かい幸福感が、私の全身を包み込んでいく。
ただ、ひたすらに、お互いの名前を呼び合い温もりを確かめ合った。
それは、世界で一番優しくて温かい、初めての夜だった。
◇
陽菜の熱い涙が、俺の胸を濡らす。
その、どうしようもなく愛おしい身体を、俺は力いっぱい、でも、壊さないように、そっと抱きしめた。
よかった。
俺は、ちゃんと陽菜を守れている。
傷つけずに怖がらせずに、ただ、温もりだけを伝えることができた。
単なる欲望じゃない。陽菜と繋がれたことに対するどうしようもない喜び。
そして、それ以上に、彼女のすべてを受け止め、守り抜けたという確かな実感。
体育倉庫の事件からずっと、彼女のトラウマを見てきた。
俺のせいで、彼女を苦しめているんじゃないかと何度も自分を責めた。
でも、これからは。
俺はこの手で、陽菜の辛い記憶を、全部幸せな記憶で上書きしていく。
彼女の、これからの笑顔のために。二人の幸せな未来のために。
「……カケル……。好き……」
腕の中で、陽菜が、夢うつつにそう呟いた。
激しい情熱の後、心地よい疲労感に包まれた彼女の身体から、少しずつ力が抜けていくのがわかる。
「……俺も好きだ、陽菜。……ずっとずっと子供の頃から、陽菜のことだけが好きだった」
俺は、その額に、そっとキスを落とした。
陽菜は、安心しきったように、俺の腕の中で、すうすうと穏やかな寝息を立て始めた。
俺は、その可愛い寝顔を、ずっとずっと近くで見ていたいと思った。




