第120話 その先の未来へ
ヒュルルル、と甲高い音を立てて光の玉が夜空を駆け上がっていく。
次の瞬間、ドン!という腹の底に響く音と共に、色とりどりの花が咲き乱れた。
河川敷から少し離れた小高い丘の上。ここは、ガキの頃から俺たちだけが知っている秘密の場所。祭りの喧騒から逃れて、陽菜と二人きりで花火を見ることができる最高の特等席だった。
でも俺の目は、夜空の豪華なショーよりも、隣にいる浴衣姿の陽菜に釘付けだった。
陽菜は、夜空を見上げたまま、その瞳をキラキラと輝かせている。花火が打ち上がるたびに、その横顔が、赤や青や緑の光に照らされて幻想的に揺れる。
綺麗だと、思った。
去年までは、こんな風に、隣で横顔を見ることさえできなかったのに。
体育倉庫での一件から、陽菜の心に暗い傷が生まれた。その傷を、どうすれば癒せるのか分からずに、ただ、もどかしい時間だけが過ぎていった。
でも、今は。
でも、今は、俺の隣で陽菜が笑ってくれている。
その当たり前のようで、奇跡みたいな光景に、胸が熱くなった。
俺の視線に気づいたのだろうか。
陽菜が、ふとこちらを振り返った。
ぱちり、と視線がぶつかる。
花火の音が、急に遠くなった。
◇
ずっと、感じていた。
カケルが花火じゃなくて、私のことを見ているのを。
その熱っぽい視線に、心臓がドキドキと音を立てる。
私も花火を見ているふりをしながら、何度もカケルの横顔を見ていた。
甚平姿のカケル。
少しだけ伸びた前髪が夜風に揺れている。
花火の光に照らされた真剣な横顔は、私がずっと知っている幼馴染の顔とは少しだけ違って見えた。
男の人の顔。
私の、大好きな人の顔。
勇気を出して、彼の方を振り返る。
視線が絡み合う。
彼の真っ直ぐな瞳に、吸い込まれそうだった。
ドン、と、また一つ、大きな花火が夜空を照らす。
でも、もう私の目には何も映っていなかった。
見えるのは、ただ目の前の彼だけ。
◇
陽菜の潤んだ瞳。
少しだけ開かれた唇。
吸い寄せられるように、俺はゆっくりと顔を近づけた。
陽菜も、そっと目を閉じる。
唇が触れ合った。
最初は、ほんの軽く触れるだけのキス。
でも、すぐに、お互いの気持ちを確かめ合うよう、深く長くなっていく。
甘くて、切なくて、どうしようもないくらい愛おしい。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
ひときわ大きな轟音と共に、夜空全体が真昼のように明るくなった。
最後の、巨大な花火。
俺たちは、ゆっくりと唇を離し、夜空を見上げる。
大輪の花が、キラキラと輝く光の粒子となって、俺たちの頭上に降り注いでくる。
祭りの終わりを告げる、その、あまりにも美しい光景を、俺たちは黙って見つめていた。
歓声と拍手。
熱気に包まれた河川敷で、俺は、もう一度、隣に立つ陽菜の横顔をそっと見た。
彼女の白い頬を、一筋の涙が伝っていた。
◇
最後の花火が消えると、世界は、ふっと元の静かな暗闇に包まれた。
体育倉庫での、あの出来事以来、私にとって急に訪れる暗闇は、恐怖そのものだった。あのときの冷たい床の感触と息苦しさが、フラッシュバックして心臓が凍りつくような感覚を覚える。
でも、今は。
隣にカケルがいる。
彼の温かい気配を感じるだけで。
彼の力強い呼吸が聞こえるだけで。
あの忌まわしい記憶が、嘘みたいに遠ざかっていく。
不思議と、少しも怖くなかった。
むしろ、この二人だけの静かな暗闇が、どうしようもなく愛おしい。
私の頬を伝った涙は、悲しい涙じゃない。
嬉しくて幸せで、温かい涙。
◇
祭りの喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
人々が、幸せな余韻を胸に、家路へと向かい始めていた。
「……行こっか」
俺がそう言うと、陽菜は、涙の跡を隠すように俯きながら、こくりと頷いた。
そして、俺の甚平の袖を、きゅっと掴んだ。
その小さな仕草が、どうしようもなく愛おしくて、俺はその小さな手をそっと取り、指と指を絡ませる。陽菜は何も言わない。でも、繋いだ手に、少しだけ力がこもったのがわかった。
◇
カケルの手のひらは、大きくてゴツゴツしていて、でも、世界で一番優しい。
この温もりが、私の凍てついた心を、少しずつ溶かしてくれた。
花火、綺麗だったな。
さっきのキス、夢みたいだったな。
『怖い』と思う気持ちが全くない、と言ったら、嘘になる。
体育倉庫でのあの忌まわしき出来事は、今でも私の心の奥に澱のように沈んでいる。
でも。
不思議と、今は、その澱が静かに凪いでいるのがわかった。
カケルが、隣にいてくれるから。
この温かい手のひらで、私の手を握りしめていてくれるから。
もう大丈夫。
私、もう、前に進める。
ううん、進みたい。
カケルと一緒に。
その先の未来へ。
◇
二人だけの秘密の場所だった小高い丘。その坂道を、俺たちは、ゆっくりと下りていく。
祭りの喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。聞こえるのは、草むらで鳴く虫の声と、隣を歩く陽菜の小さな息遣いだけ。
やがて見慣れた景色が、目の前に広がった。
二軒ならんだ俺たちの家の前。
魔法が解けてしまう場所。
俺は立ち止まり、繋いでいた手を、名残惜しくも離そうとした。
この幸せな時間が終わってしまうのが、寂しくてたまらなかった。
でも。
陽菜は、俺の手を離さなかった。
むしろ、今まで以上に、強く強く握りしめてきた。
「……陽菜?」
俺が、戸惑いながら彼女の名前を呼ぶと。
陽菜は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、月明かりを反射してキラキラと輝いている。
そして、その瞳は、何かを決意したように、俺を真っ直ぐに見つめていた。
「……カケル」
「……おう」
「……私の部屋に……来てほしい……」
その震える、でも真っ直ぐな一言。
今、なんて言った?
俺の聞き間違いか?
でも、目の前の陽菜は、顔を真っ赤にしながら、必死な顔で俺を見つめている。
その瞳が、本気だということを物語っていた。
俺の心臓が、今までで一番大きな音を立てて、鳴り響いている。
俺は声にならない声で、ただ、こくりと頷くことしかできなかった。
陽菜は、ホッとしたように、ふわりと微笑んだ。
そして俺の手を引いて、自分の家の玄関へと向かう。
リビングの明かりは、なぜか消えていた。
叔父さんたちも、莉子も、もう寝ているのだろうか。
陽菜は、音を立てないように、そっと鍵を開け、俺に、中に入るように促した。
ゆっくりと手をつないで階段を上る。
ぎしりと軋む床の音が、やけに大きく聞こえた。
そして陽菜の部屋の前で、立ち止まる。
陽菜はドアノブに手をかけると、一度だけ、俺の方を振り返った。
俺は、そんな彼女の不安を取り除くように、力強く頷き返した。
陽菜は、安心したように小さく微笑むと、ゆっくりとドアを開けた。
甘い、陽菜の匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。
俺は、ごくりと唾を呑み込んだ。
そして、覚悟を決めて、その聖域へと足を踏み入れた。
カチャリ、と。
背後で、ドアの閉まる音が、静かに響き渡った。




