第12話 夏服の威力
六月。 梅雨入り前の、束の間の晴れ間。じっとりとした湿気を含んだ空気が、夏の訪れを告げていた。
そして、今日から、俺たちの高校も夏服での登校に切り替わった。
「カケル! 遅れるよー!」
玄関先から聞こえてくる、聞き慣れた声。
俺、桜井駆は、慌ててトーストの最後の一切れを口に押し込み、牛乳で流し込んだ。
「今行く!」
バッグを掴んで玄関へ向かうと、そこには、白い半袖ブラウスに紺色のスカートという、夏服姿の、俺の幼馴染、日高陽菜が立っていた。
その姿を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
(……やべぇ)
心臓が、ドクン、と大きく脈打つ。
ブレザーという名の鎧を脱ぎ捨てた陽菜の姿は。俺が思っていた以上に、破壊力があった。
薄手の白いブラウスは、彼女の身体のラインを、特に胸の豊かな膨らみを、一切の遠慮なく主張させている。襟元の大きなリボンが陽菜の可愛らしさを強調している。
スカートからすらりと伸びる、白い脚。首筋から鎖骨にかけての、繊細なライン。そのすべてが、春先の制服姿とは比べ物にならないほど、生々しく、鮮やかに、俺の目に飛び込んできた。
「……何ぼーっとしてるの。早く行かないと、遅刻しちゃうよ?」
陽菜が、不思議そうな顔で俺を見つめている。
俺が、彼女の身体に釘付けになっていたことなど、露ほども気づいていない、無垢な瞳。その無防備さが、余計に俺の理性を揺さぶった。
「……おう。わりぃ」
俺は自分の顔が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らしながら靴を履いた。
まずい。これは、本当にまずい。
これから毎日、俺はこの破壊兵器と隣り合わせで過ごさなければならないのか。
俺の心臓は、果たして夏を越せるのだろうか。
◇
通学路を、二人で並んで歩く。
五月の一件以来、俺たちの関係は、以前よりもずっと穏やかなものになっていた。
気まずい沈黙は消え、くだらない話で笑い合える、心地よい時間が戻ってきた。
「夏服、やっぱり涼しくていいね」
「……だな」
俺は、隣を歩く陽菜を直視できなかった。
歩くたびに、ふわりと揺れるポニーテール。半袖ブラウスの袖から覗く、華奢な腕。 そして、どうしても視界に入ってしまう、柔らかそうな胸の輪郭。
風が吹いて、ブラウスの生地が彼女の身体に張り付くたびに、俺は心の中で悲鳴を上げていた。
(落ち着け、俺。平常心、平常心だ……)
俺は必死に自分に言い聞かせる。だが、一度意識してしまったものは、どうしようもない。
陽菜は、特別だ。それは間違いない。
でも、この胸のざわめきが、何なのか。俺にはまだ、よくわからなかった。
ただ、今まで感じたことのない、むず痒いような、それでいて心地よいような、奇妙な感覚だった。
「カケルは、夏服似合うよね」
「は……?」
不意に、陽菜がそんなことを言った。
「その、半袖の開襟シャツ。腕の筋肉、すごいなって。……運動部って感じ」
陽菜は、少しだけ顔を赤くしながら、視線を俺の腕に向けていた。
その言葉に、今度は俺の顔がカッと熱くなる。 こいつ、俺のこと、そんなふうに見てたのか。
この腕なんて、男にとってはただの腕だ。腕の筋肉がどう、なんて意識したことない。
だが、陽菜にそう言われると、自分の腕が、急に恥ずかしいもののように感じられた。
「……お前こそ。その……涼しそうだな」
「え?」
俺の口から出たのは、そんな気の利かない、意味不明な言葉だった。
涼しそう? なんだそれは。 俺は自分のコミュニケーション能力の低さに絶望した。
「ふふっ。うん、涼しいよ」
だが、陽菜はそんな俺の言葉を、馬鹿にすることなく、嬉しそうに笑ってくれた。
その笑顔が、また、俺の心臓を鷲掴みにする。 もう、勘弁してくれ。
◇
教室に入ると、そこは解放感に満ち溢れていた。
ブレザーやセーターから解放されたクラスメイトたちは、どこか身軽で、楽しそうに見える。 特に、女子たちの夏服姿は、教室の雰囲気を一気に華やかなものに変えていた。
「うっひょー! やっぱ夏服は最高だな! 目の保養、目の保養!」
前の席の蓮が、振り返ってウインクしてきた。
「お前はそればっかだな」
「いいじゃねぇか、男の特権だろ? な、健太?」
「まあな。うちの葵の夏服姿も、マジで天使だったわ……」
蓮と健太が、そんなアホな会話を繰り広げている。
俺は、そんな二人を横目に、自分の席へと向かった。
俺の席からは、陽菜の席がよく見える。
彼女は、親友の舞や、他の女子たちと、楽しそうにおしゃべりをしていた。
「陽菜、スタイルいいから、夏服めっちゃ似合うよねー」
「わかるー! 胸とか、すごいもんね。男子の視線、釘付けだよ、あれは」
女子たちの、遠慮のない会話が、俺の耳にも届いてくる。 その言葉に、俺は自分のことのようにドキリとした。
(……だよな。やっぱ、みんなそう思うよな)
陽菜の魅力に、他の男たちが気づいてしまう。
陽菜の、俺だけが知っているはずのいろんな表情や仕草を、他の男たちも、見ている。
その事実が、俺の胸を、チリチリとした焦燥感で満たした。
なんで、こんなにイライラするんだ?
別に、陽菜は俺のものじゃない。そんな当たり前のことが、今はひどく、気に食わなかった。
授業が始まっても、俺の苦難は続いた。
陽菜が、黒板の文字をノートに書き写すために、少しだけ身を乗り出す。そのたびに、ブラウスの背中のラインがくっきりと浮かび上がる。
風でめくれた教科書のページを、慌てて押さえる、細い指先。
時々、退屈そうに、窓の外を眺める、その綺麗な横顔。
もう、ダメだった。俺は、完全に、陽菜という巨大な惑星の引力に捕まってしまった、ただの衛星だった。
◇
(カケルの腕、やっぱりカッコいいな……)
授業中、私は何度か、カケルのことを盗み見ていた。
彼が、教科書を持つ腕。ノートに文字を書く腕。時々、気だるそうに頭をかく、その腕。
半袖のシャツからのぞく、日に焼けた前腕には、くっきりと筋が浮かんでいる。
陸上部で、毎日、毎日、筋トレに励んでる証拠だ。
その逞しさに、私の心臓は、授業の内容なんてそっちのけで、ずっとドキドキしていた。
(……私のこと、見てくれてるかな)
今朝、彼が私の夏服姿を見て、一瞬だけ固まっていたのを、私は見逃さなかった。
彼が、私を「女の子」として意識してくれている。その事実が、嬉しくて、恥ずしくて、たまらない。
今日の肌着も、下着も、いつもより少しだけ、気合いを入れて選んできた。
もちろん、見てもらえる部分じゃないけど、彼に、可愛いって思ってもらえたら、なんて。 そんな、淡い期待を抱きながら。
昼休み。
あの日以来、私たちは、健太くんや舞たちと、一緒に机をくっつけてお弁当を食べるのが習慣になっていた。
カケルは相変わらず、女子たちの会話にはあまり入ってこない。でも、以前のような、針の筵に座っているような雰囲気は、もうなかった。
時々、私が舞と話しているのを、穏やかな目で見つめている。
その視線に気づいて、私が彼の方を見ると、彼は慌てて目を逸らす。
そんな、小さなやり取りの一つひとつが、私の心を、幸せな気持ちで満たしてくれた。
「そういえば、日高さん。この前の練習試合、勝ったんだって? すごいじゃん!」
「うん! なんとかね!」
私は、あの日、お守りのリストバンドに力を貰って、勝つことができた。 そして、その力の源は、間違いなく、カケルだ。
私がちらりと彼の方を見ると、彼は少しだけ、誇らしそうな顔で、小さく頷いてくれた。 それだけで、十分だった。
放課後。
部活が終わり、帰り道。
二人きりになると、昼間の喧騒が嘘のように、静かで、穏やかな時間が流れる。
「……今日、暑かったな」
「うん。もう、すっかり夏だね」
なんてことのない会話。
でも、その声が、隣にあるだけで、私は安心できた。
と、その時だった。
角を曲ろうとした瞬間、向こうから来た自転車と、危うくぶつかりそうになった。
「うわっ!」
私が驚いて立ち止まると、カケルが、とっさに私の腕を掴んで、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。
「……危ねぇだろ。ちゃんと前見て歩けよ」
彼の大きな手のひらが、私の二の腕を、しっかりと掴んでいる。
シャツ一枚越しに伝わってくる、彼の体温。 がっしりとした、指の感触。 私の心臓が、大きく跳ねた。
「……ご、ごめん」
「……いや。俺も、悪かった」
彼は、名残惜しそうに、ゆっくりと私の腕から手を離した。
触れられていた部分が、じんわりと熱い。 私たちは、どちらからともなく、黙り込んでしまった。
◇
夕日が、俺たちの影を、アスファルトの上に長く伸ばしている。
その二つの影は、ほんの少しだけ、昨日よりも、近づいているように見えた。
夏が、始まろうとしていた。
俺たちの、長くて、熱くなりそうな、夏が。
6月に入って、新章突入です。
全然、全力疾走してないじゃないかというツッコミはなしでお願いします。
カケルにとっては、全力疾走してるんです(当社比)。
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