第119話 約束の夏祭り
七月。夏の終わりの匂いが、夕暮れの風に混じって私の部屋に流れ込んでくる。
私、日高陽菜は、自分の部屋の鏡の前で、紺色地に淡いピンク色の花火が散りばめられた浴衣に身を包んでいた。
去年、雨で夏祭りが中止となってしまった夜。カケルに、どうしても見てほしくて、一度だけ袖を通した思い出の浴衣。
あの時は、ただの幼馴染だった。でも、今は違う。私は、あなたの「彼女」だ。
その確かな想いを胸に、私は、去年よりも少しだけ丁寧に帯を結んだ。
今日、この街で一番大きな夏祭りがある。
二年生の時、突然の雨で行けなかった、約束の夏祭り。
あの時、叶わなかった夢が、一年越しに、最高の形で叶えられようとしている。
その奇跡に、私の胸はいっぱいで張り裂けそうだった。
「……よし」
私は、鏡の中の自分に小さく頷く。
髪も綺麗に、アップに結い上げた。
少しだけ薄化粧もした。
カケルに、可愛いって思ってもらいたい。 その一心で。
私の小さなバッグの中には、お財布とハンカチと、そして、小さなお守りを入れた。彼からもらった「心のお守り」。
これがあれば大丈夫。
今夜、きっと最高の夜になる。
心臓が、ドクン、ドクンと音を奏でる。
この鼓動の音を感じながら、私は幸せな気持ちに浸っていた。
◇
夕暮れ時。
俺、桜井駆は、着慣れない甚平の裾を、そわそわといじりながら、自分の部屋の窓から隣の家の玄関をじっと見つめていた。
陽菜の準備が終わったら一緒に家を出る。ただそれだけのことに、俺の心臓は、期待と不安で、今にも爆発しそうだった。
『……来年こそ、一緒に行こうね。夏祭り』
ちょうど一年前の、今日。
陽菜と二人で線香花火を眺めた、あの日にした約束。
幼馴染の俺たちにとって、『来年の約束』なんて、珍しいものではなかった。
それでも、そのときの俺は、陽菜への恋心を自覚していた俺は、『来年』の夏祭りも、一緒に過ごしてくれるのだと、その言葉がとてもとても嬉しかったことを覚えている。
俺と陽菜は恋人同士になった。俺は、陽菜の彼氏になった。
この「約束の日」を、陽菜にとって素敵な一日にしてあげないといけない。
俺は、そんなことを考えていた。
と、その時だった。
隣の玄関のドアが静かに開いた。
俺は慌てて階段を駆け下り、自分の家の玄関のドアを開ける。
そして、そこに現れた陽菜の姿を見て、俺は、完全に呼吸を忘れた。
そこに立っていたのは紛れもない、俺だけの女神だった。
紺色の浴衣。 去年、線香花火をしたあの夜、一瞬で心を奪われた、あの姿。
でも、今日は違う。
結い上げられた黒髪から覗く白い項。
紅を差した、小さな桜色の唇。
そのすべてが去年よりも、ずっとずっと大人びていて美しかった。
「お待たせ……」
陽菜が、はにかむように、そう言った。
「ど……どうかな……? 変、じゃない……?」
陽菜が、不安そうな声でそう言った。
変なわけ……ないだろ。
世界で、一番、綺麗だ。
俺は、そのありきたりな、でも、偽らざる本心を口にした。
「いや……。すげぇ……、すげぇ綺麗だ……」
俺の言葉を聞いて、陽菜の顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。
その見るだけでわかる喜びように、俺は、どうにかなってしまいそうだった。
「お、おう……。マジで……、一瞬、心臓……止まるかと思った……」
俺がそう付け加えると、陽菜は、最高の笑顔で、ただ「よかった……」と、小さく呟いた。その笑顔だけで、もう十分だった。
俺たちは、手を繋いで歩き出した。ただ、手を繋ぐだけじゃない。指と指を絡ませる『恋人つなぎ』。それが俺たちの当たり前になっていた。
そして、祭りの喧騒の中へと歩き出した。
◇
カケルの「綺麗だ」という言葉が、まだ耳の奥で甘く響いている。
この日のために、舞と一緒に悩んで、お母さんに手伝ってもらって、一生懸命に着付けをした、そのすべての努力が報われた気がした。
彼の、少しだけぶっきらぼうで、でも、どうしようもなく優しい言葉が、どんなお洒落な褒め言葉よりも、ずっとずっと私の心に深く響いた。
そして、今、私の手の中にあるカケルの大きな手のひら。
私の指に、彼の硬い指が絡みついて、ぎゅっと握られる。
熱い。 彼の手のひらから伝わってくる熱が、私の全身に駆け巡っていくようだった。
隣を歩く、彼の横顔を、ゆっくり見つめる。
甚平姿のカケルは、いつもより、ずっと大人びて見えて、その少しだけ逞しくなった首筋に、私の心臓は、また、ドクン、ドクンと大きな音を立てた。
境内は、提灯の柔らかな光と、人々の熱気で溢れかえっていた。綿菓子の甘い匂い、焼きそばの香ばしいソースの匂いが鼻腔をくすぐる。
「わあ、すごい人だね!」
「おう。はぐれんなよ」
カケルが、繋いだ手にきゅっと力を込めてくれる。
その、不器用な優しさが、嬉しくて愛おしくてたまらない。
去年、叶わなかった『約束の場所』。
今、私は、あなたの『彼女』として、あなたの隣を歩いてる。
本当に夢みたいだった。
◇
俺たちは、まず、射的の屋台を見つけた。
「カケル、やってみてよ!」
「えー、俺、こういうの苦手なんだよ」
こういうのは航の得意分野だ。俺自身は、射的なんてほとんどやったことがない。
でも、陽菜の期待に満ちた瞳に、断れるはずがなかった。
俺は、コルク銃を構える。
陸上のスタート前と同じように、深く、息を吸い込んだ。
パンッ! 乾いた音と共に、《《狙ったものではない》》、景品のぬいぐるみが、ことりと台から落ちた。
「きゃー! すごい、カケル! やったね!」
陽菜が、子供みたいにはしゃいで喜ぶ。
なんとなく、気まずさは残るが、喜んでくれている。
屋台のおじさんから受け取ったぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめるその姿が、どうしようもなく愛おしかった。
◇
(カッコいい……)
コルク銃を構える、彼の真剣な横顔。
的を射抜いたときの驚いたような、でも、嬉しそうな笑顔。
その一つひとつの仕草が、愛おしい。
彼が、私のために取ってくれた、このぬいぐるみ。 ふわふわで温かい。
これは、ただのぬいぐるみじゃない。今日の、この幸せな時間の証。私の新しい宝物。
私は、そのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめながら、彼の大きな背中を追いかけた。
◇
次に、俺たちは、焼きそばの屋台に並んだ。
「一つ、ください」
俺がそう言って、一つのパックを受け取ると、陽菜が、真っ赤な顔で俺を見る。
「……はんぶんこ、すんだろ」
その言葉に、陽菜が、真っ赤な顔で嬉しそうに微笑む。
「……うん!」
◇
文化祭のとき、したらよかったね、って言っていた「はんぶんこ」。
修学旅行で、チュロスを分け合ったあのドキドキした時間。
唇が触れ合いそうになって二人して真っ赤になった、あの甘酸っぱい記憶。
あのときは、ただ恥ずかしくて心臓が飛び出しそうだったけど、今は違う。
これが、恋人同士の「当たり前」なんだ。
心の中が、温かくて、とろけそうな幸福感でいっぱいになっていた。
二人で、一つの焼きそばを、熱いね、美味しいね、と言いながら分け合って食べる。それは、どんなレストランのディナーよりも、ずっとずっと美味しかった。
◇
金魚すくいで、二人して、一枚もすくえずに笑い合ったり。
りんご飴の、べたべたになった手を、二人で拭き合ったり。
その、一つひとつの何気ない時間が、たまらなく愛おしかった。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
気づけば、空は、深い藍色に染まり始めていた。
「そろそろ、始まるな……」
「うん……」
アナウンスが、花火の開始を告げている。
俺は、陽菜の手を、もう一度強く握りしめた。
「陽菜……」
「ん?」
「花火が見えるとっておきの場所……。行こうぜ……」
俺はそう言って、陽菜の手を引いた。
向かう先は、神社の裏手の小高い丘の上。
そこは街の夜景と花火が一望できる、俺たちだけの秘密の場所だった。




