第114話 インターハイ地方大会
インターハイ地方大会最終日。
二百メートルの予選を、俺は、自己ベストに近いタイムで一位通過した。だが心は少しも晴れなかった。決勝には、もちろん神崎がいる。あいつとの直接対決、そして全国大会への出場権がかかった最後の戦いだ。
決勝までの短い休憩時間。俺はトラックの隅で、一人呼吸を整えていた。焦りも不安も、ない、と言えば嘘になる。だが、数週間前までの闇雲な焦燥感はもうなかった。俺は一人じゃない。陽菜や最高の仲間たちが、俺の心を照らしてくれている。 その確かな事実だけが俺の支えだった。
「カケル!」
観客席から、陽菜の声が聞こえる。俺は顔を上げた。 陽菜は、俺たちの陸上部の応援席の一つ前で。 小さなクーラーボックスを抱えて、こちらへ手を振っている。
予選が終わったのを確認して、ここまで降りてきてくれたのだろう。その笑顔だけで、俺の心は、温かいものでいっぱいになった。俺は、陽菜の元へと駆け寄った。
周りには、健太や蓮、そして、小野寺や中村たちの顔も見える。みんな俺を見守ってくれている。
「……これ」
陽菜が、少しだけ恥ずかしそうにクーラーボックスの中から、一本の水筒を取り出した。見慣れない新しい水筒。 その蓋を開けると、ふわりと柑橘系の爽やかな香りがした。
「……陽菜、これ……」
「うん。……いつものスペシャルドリンク。去年の夏の記録会の時は、渡せなかったから。……去年からの想いも、今年の想いも、全部全部込めたから」
陽菜はそう言って、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。去年の夏の大会。俺が、小野寺からタオルを受け取って、陽菜を傷つけてしまった、あの苦い記憶。
あの時、陽菜は、俺のために、これを用意してくれていたのか。
「……サンキュ、陽菜。……これが一番、力が出る」
俺はそう言って、そのドリンクを一口飲んだ。 甘くて少しだけ酸っぱい。陽菜の味がした。
「……それとね、カケル」
俺が水筒の蓋を閉めた、その時だった。
陽菜が、一歩前に出た。
そして、悪戯っぽく微笑む。
「……お守り、もう一つあげる」
「え?」
俺が、間抜けな声を上げるのと。陽菜がつま先立ちになって、俺の頬に、その柔らかな唇をそっと押し当てたのは、ほぼ同時だった。
ちゅ、という小さな可愛らしい音。シャンプーの甘い香り。頬に感じた信じられないくらい柔らかな感触。
周りで、健太と蓮が「うおおおおおっ!」「やるじゃねぇか、陽菜ちゃん!」と、野太い雄叫びを上げているのが聞こえる。
「……これでカケルは、絶対に負けない」
陽菜は、顔を耳まで真っ赤にしながら、でも、最高に誇らしげな笑顔でそう言った。
その勝利の女神のような笑顔に。 俺は、もう苦情なんて言えるわけがなかった。ただ熱くなった頬を押さえたまま、頷くことしかできない。もう、これで、負けるわけにはいかない。絶対にだ。
◇
(……やっちゃった)
カケルの頬にキスをしてしまった。
周りのみんなの前で。
恥ずかしい。
恥ずかしすぎて死んでしまいそう。
でも、後悔はしていなかった。
伝えたかったのだ。
私のすべての想いを。
言葉だけじゃ足りない。
行動で示したかった。
あなたは一人じゃない。
私がついてるよ、と。
カケルは、顔を真っ赤にして固まっている。
その初々しい反応が、可愛くて愛おしくてたまらない。
頑張って。私のヒーロー。
私は祈るように、決勝のスタートラインに向かう、彼の大きな背中を見つめていた。
◇
――パンッ!
乾いた号砲と共に。
俺は、地面を蹴った。
風になる。
ただひたすらに、前へ。
隣のレーンを、神崎が走っている。
速い。相変わらず腹が立つくらい美しいフォームだ。
だが、俺は負けない。
コーナーを曲がる。
最後の直線。
決勝に出ている選手は、ほぼ全員が並んでいた。
全員が全国の舞台を目指して全力で走っている。
頬に残る、陽菜の唇の感触。
彼女の声援。
『大好き』という言葉。
その記憶が、俺の中で最後の何かに火をつけた。
腕を、脚を、とにかく前に。
陽菜の笑顔を目指して。
俺は、最後の最後の、力を振り絞り、ゴールラインに飛び込んだ。
ゴールした後も、しばらく俺は、トラックの上に倒れ込んだまま動けなかった。
俺は、すべてを出し切った。
電光掲示板に表示されたタイム。
自己ベストを大幅に更新。
そして順位は四位。
神崎が、すぐ後ろの五位。
二人とも全国大会への切符を手に入れた。
「「「うおおおおおっ!」」」
陸上部の仲間たちの歓声が響き渡る。
俺は、観客席に視線を向けた。
陽菜が、舞と抱き合って泣いている。
その姿を見た瞬間、俺の目からも、熱いものがこぼれ落ちた。
健太と蓮が、俺の上に飛び乗ってくる。
「やったな、駆!」
「てめぇ、最高だぜ!」
俺は、二人にもみくちゃにされながら、ただ笑っていた。
ふと、視線を感じて横を見ると、百メートルと二百メートルの両方で全国を決めた神崎が、トラックに座り込んだまま、悔しそうにこちらを見ていた。
俺は、神崎に向かって、震える拳を、そっと突き出した。
神崎は、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに、ふっと鼻で笑うと自分の拳を、こつんと俺の拳にぶつけてきた。言葉はない。でも、それで十分だった。
俺は一人じゃない。
この最高の仲間たちが。
そして。世界で一番愛おしい彼女がいる。
そのことを改めて理解できた、そんな一日だった。




