第113話 カケルの焦りと仲間の忠告
六月。 梅雨の晴れ間の、じりじりと照りつける太陽が、俺たちの最後の夏が近いことを告げていた。
俺、桜井駆は、インターハイの地方予選に向けて、人生で一番過酷なトレーニングを自分に課していた。
朝練、昼練、そして、放課後の部活。それだけでは足りない。部活が終わった後も一人グラウンドに残り、日が暮れるまで走り続けた。
正直、焦っていた。陽菜に告白して恋人同士になった。誕生日には、改めて陽菜の心の傷に触れ、その傷の深さを知った。
俺は陽菜の彼氏だ。そのことが、俺を奮い立たせると同時に、見えないプレッシャーとなってのしかかっていた。彼女にふさわしい男にならなければ。陽菜を守れるくらい強くならなければ。 その強迫観念にも似た想いが、俺を追い詰めていた。
フォームが少しずつ乱れていることには気づいていた。身体のあちこちが悲鳴を上げていることもわかっていた。でも休めなかった。立ち止まるのが怖かったのだ。
「……駆、お前、最近ちょっと無理しすぎじゃねぇか?」
部活の休憩中、部長の健太が心配そうに、俺の顔を覗き込んできた。
「……平気だ」
「平気な顔じゃねぇよ。……ちゃんと休むのもトレーニングのうちだぜ?」
わかってる。 わかっているけど休めない。
俺が休んでいる間に、陽菜がまた傷つけられるんじゃないか。そんな根拠のない不安が、俺を駆り立てていた。
◇
グラウンドの隅にある木陰。 私、小野寺楓は、親友の中村沙織と二人で、給水ボトルを片手に練習を見守っていた。
私の視線の先には、いつも彼の姿があった。桜井くん。
修学旅行のあの夜、私は、彼に告白して、そして振られた。痛くて苦しくて、たくさん泣いた。
でも後悔はしていない。今の私は、彼の「彼女」ではないけれど、「仲間」であり「ライバル」なのだから。その新しい関係が誇らしくて心地よかった。
でも、だからこそ。今の彼の姿を見てはいられない。
「……楓、……桜井くん、やっぱり、おかしいよ」
隣で、沙織が心配そうな声で呟いた。
「うん。フォームが完全に崩れてる。……あんなの、桜井くんの走りじゃない」
彼の走りは、もっとしなやかで美しいはずだ。
風のように、トラックを駆け抜けていくはずだ。
でも、今の彼の走りは、ただ力任せでぎこちない。
何かに追われるように、必死で自分を追い込んでいる。
その背中は、痛々しいほど、悲壮な覚悟に満ちていた。
「……沙織、私……」
声をかけたい。でも、どんな顔をして、なんて言えばいいのかわからない。
でも、日高さんが近くにいない今、私たちが、何か言ってあげなくちゃいけないのかもしれない。
「……行こう、楓」
沙織は、私の心を読んだように力強く頷いてくれた。
◇
部活の自主練習の時間。俺は、一人でスタートダッシュの練習を繰り返していた。
頭の中にパンッ、という、乾いた号砲が鳴り響く。地面を蹴る。加速する。でもダメだ。身体が重い。脚が思ったように前に出ない。焦れば焦るほど、空回りしていく。
「……くそっ!」
俺は、地面の土を蹴り上げた。
その時だった。俺の目の前に、すっと影が差した。
顔を上げると、そこに立っていたのは、俺が、今、一番会いたくない男だった。
神崎彰。神崎は、俺を一瞥すると、ふんと鼻で笑った。
「……様にならねぇな、桜井」
「……てめぇには、関係ねぇだろ」
「関係なくは、ねぇよ。……お前の、その無様な走りを見てると、こっちまでイライラしてくるんだ」
神崎はそう言って、俺の隣にしゃがみ込んだ。そして、意外な言葉を口にした。
「……お前、……何に、焦ってんだよ」
「……は?」
「焦ってるだろ、お前。何かに追われるみたいに、ただ、がむしゃらに走ってるだけだ。そんなんじゃ勝てねぇぞ。俺にも……全国の奴らにも……」
俺は、言葉を失った。こいつはわかっているのだ。 俺の心の迷いを。
「いいか、桜井……。速く走るために必要なのは、ただの筋力じゃねぇ……。自分をコントロールする力だ。今のお前はそれを見失っている……」
神崎はそう言って立ち上がった。
「お前には力がある。俺は、インターハイで、お前と本気で勝負するのを楽しみにしてるから。それまでに、ちゃんと仕上げてこいよ。今のお前と戦っても、面白くもなんともねぇからな……」
その背中は、いつもの自信過剰な嫌味な男のものじゃなかった。
ただ純粋に陸上を愛し好敵手を求める、一人のアスリートの背中だった。
俺はその背中に、何も言い返せなかった。
ただ呆然と、立ち尽くすことしかできなかった。
「……はぁ、はぁっ、はぁっ……!」
地面に手をつき、荒い息を繰り返す。神崎の言葉が、頭の中で反響していた。
『自分を、コントロールする力』
今の俺に、一番欠けているもの。
俺がそう思って、顔を上げたその時だった。
目の前に、小野寺楓と中村沙織が立っていた。その手には冷たく冷えたスポーツドリンクが握られている。
「……桜井くん」
小野寺が、心配そうな目で俺を見ている。
「……無理しすぎだよ。……見てるこっちが怖くなる」
そのチームメイトとしての飾らないストレートな言葉。
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ!」
今度は中村が明るい声で、でも、真剣な顔で言った。
「私たちは仲間でしょ? 桜井くんが一人で突っ走って怪我でもしたら、チームの士気も下がってみんなが困るの! ……それに……私たちが悲しい」
「みんな心配してるよ。佐藤くんも、橘くんも。私たちも……」
小野寺が、ドリンクを差し出してくる。
バカだな俺は。一人で戦ってるつもりになって。
俺の隣には、いつだってみんながいてくれたのに。
俺は、小野寺からドリンクを受け取った。
そして、そのドリンクのボトルを、ぎゅっと握りしめる。
「……サンキュ二人とも。……俺……目が覚めた」
俺の周りにには、最高の仲間たちが、俺の心を照らしてくれているのだ。
その夜。俺は、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。




