第112話 最強のシェルター
俺の十八歳の誕生日は、人生で最も幸せで、そして、最も無力さを感じた一日になった。
あの誕生日に二人で入ったお化け屋敷。ただの作り物の暗闇と足音が、陽菜の身体を再び凍り付かせてしまった。陽菜の心の中に眠る悪夢の記憶。あの悪魔は、もう学校からいなくなったのに、陽菜は今でも傷つき、苦しんでいる。
ただ自分の無力さと、彼女を再び傷つけてしまったという罪悪感だけが、心を支配していた。
『……いつも守ってくれてありがとう。……だいすきだよ、カケル』
観覧車の中での陽菜からの言葉。
こんな不甲斐ない俺のことを、ずっと信頼してくれている。
でも、俺がしっかりしていれば、お化け屋敷なんて一緒に入らなかった。
俺は、体育倉庫で、陽菜が感じた恐怖を、完全には理解できていなかったのかもしれない。
俺が、陽菜を守ってあげなければならない。
その気持ちが強ければ強いほど、俺の不用意な行動で、また、彼女の心の傷を抉ってしまうのではないか。その恐怖が、俺の身体を縛り付ける。
「……はぁ」
物理の授業中。 俺は、教壇で等加速度運動について説明する教師の話を、話半分に聞きながら、一人頭を抱えて深いため息をついた。
どうすればいい? 俺は、どうすれば、陽菜を本当に守ってやれるんだろう。
昼休み。俺は意を決して立ち上がった。 向かう先は一つしかなかった。 この学校で、一番、恋愛というものを熟知している男の元へ。
俺は屋上へと続く階段を上っていた。蓮は、昼休みに、よくここで昼寝をしている。そして、この日も、屋上には、フェンスにもたれて気持ちよさそうに寝息を立てている親友の姿があった。
「……蓮」
俺が声をかけると、蓮は、ゆっくりと目を開けた。 そして、俺の死んだ魚のような顔を見てニヤリと笑った。
「よぉ、駆。……なんだよ、その真っ青な顔。本物のお化けでも見たか?」
近からずとも遠からず。俺は観念して、蓮の隣に腰を下ろし、誕生日の日の出来事を、ぽつりぽつりと話し始めた。
俺の拙い話を、蓮はいつもの軽薄な笑みを消して、真剣な顔で聞いてくれた。
そして、すべてを話し終えた俺に、ぽつりと呟いた。
「……なるほどな。そりゃ悩むわ」
「……だろ? 俺、どうすりゃいいんだよ。俺は、陽菜を安心させたいのに、俺がそばにいるだけで、結果的に、陽菜を怖がらせちまうんだ」
俺の、その情けない言葉に。 蓮は呆れたように深いため息をついた。
「……駆。お前、完全に間違ってるぜ」
「え?」
「駆が、陽菜ちゃんを怖がらせてる、だと? ……バカ言え。逆だよ、逆」
「……逆?」
蓮は頷くと、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「いいか駆。バレンタインの時、お前が陽菜ちゃんをベッドに押し倒した。お化け屋敷では、暗闇の中で足音がした。……共通点はわかるよな?」
「……共通点?」
「体育倉庫での状況と似てるってことだよ。陽菜ちゃんが怖いのは、お前じゃない。押し倒されたときの、その体勢や、暗闇で誰かが近づいてくるっていう、その状況が、あの時の恐怖を勝手に思い出させてるだけだ」
「じゃあ、俺は……」
「だから思い出してみろって。陽菜ちゃんがパニックを起こした後、駆が抱きしめてる間、陽菜ちゃんの反応はどうだった?」
蓮の、その問いに。俺はハッとした。
そうだ。あの時、お化け屋敷でもバレンタインの日も。俺の腕の中で、陽菜の激しかった心臓の鼓動は、ほんの少しだけ緩やかになった。俺の胸に顔をうずめて泣きじゃくっていたけど、その身体の震えは確かに収まっていた。
「……気づいたか?」
蓮はそう言ってニヤリと笑った。
「陽菜ちゃんはな、駆に怯えてるんじゃねぇ……。駆に、救いを求めてんだよ……。陽菜ちゃんにとって、駆の腕の中は安心できる場所なんだ。どんな恐ろしい記憶も、悪魔も入ってこれない、最強のシェルターなんだよ」
その的確で優しい言葉。そっか、そうだったのか。俺は、無意識な、不用意な行動で陽菜を傷つけてしまっていると思っていた。でも、そうじゃなかったんだ。俺は、陽菜を守ってやれる存在だったんだ。俺の目から堪えていた涙がこぼれそうになった。俺は必死で、それを堪えた。
「だから、駆。何にも心配することねぇよ。今まで通り、……ううん、今まで以上に堂々と陽菜ちゃんの隣にいてやれ。そして、もし、また陽菜ちゃんが、暗闇や悪夢に怯えそうになったら。何も言わずに、ただ力いっぱい抱きしめてやれ。駆の、その不器用な優しさが、陽菜ちゃんにとって一番の薬になると思うぜ」
蓮はそう言って、俺の背中をパンと力強く叩いた。
「……サンキュ、蓮」
「いーってことよ。まあ、友達の幸せな顔を見るのが、俺の一番の趣味なんでな」
蓮はそう言って、悪戯っぽく笑った。その顔は、いつものチャラついた蓮とは全く違う最高の親友の顔をしていた。
その日の帰り道。俺は、いつものように陽菜の隣を歩いていた。彼女の小さな歩幅に合わせてゆっくりと。もう迷いはない。俺がすべきことは、陽菜にとって一番安心できる存在であり続けること。その覚悟が、俺の背筋をぴんと伸ばしてくれた。
ふと、陽菜が、俺のパーカーの裾を、きゅっと小さく掴んだ。
「カケル……」
「ん?」
「あのね、カケル。こないだは……ごめんね。誕生日だったのに……色々と迷惑かけちゃって。でも……私は……すごく楽しかったよ」
か細い、でも心のこもった言葉。
俺は、陽菜に微笑んだ。そして陽菜の小さな手を、そっと取る。
陽菜の身体がびくりと震え、一瞬強張ったが、すぐにその力を抜いてくれた。
俺は、陽菜の目を見て、その手を固く固く握りしめた。
「俺も楽しい誕生日だったよ。最高のプレゼントありがとうな」
陽菜は何も言わずに、ただ、瞳を潤ませながら、最高の笑顔で頷いてくれた。
俺は、もう一度、陽菜の手を強く握った。




