第111話 腕の中の温もり
楽しいはずの俺の誕生日。
それが、こんな形で陽菜を苦しめてしまった。
何も考えずに入ってしまった廃病院のアトラクション。
それが、こんな形で彼女を苦しめてしまった。
後悔と罪悪感が、津波のように俺の心を飲み込んでいく。
でも、それ以上に。この腕の中にいる、かけがえのない存在を、絶対に失いたくないという、強い強い想いが、俺の心を支配していた。
日は、ゆっくりと落ち、夕暮れのオレンジ色の光が遊園地に差した。
陽菜の激しかった嗚咽が、少しずつ小さなしゃくりあげに変わっていく。
俺は、彼女の背中をさする手を止めずに、ただ、静かにその時を待った。
やがて、陽菜がゆっくりと顔を上げた。
その目は、泣き腫らして真っ赤だったけど、もう、さっきまでの恐怖の色はどこにもなかった。
「……カケル」
「……ん?」
「……ありがとう。……守ってくれて」
俺は何も言えずに、ただ、こくりと頷くだけだった。
「……疲れただろ。……少し、眠るか?」
俺がそう言うと、陽菜は、素直にこくりと頷いた。
俺はベンチの上に、自分のパーカーを敷くと、自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「……え?」
「いいから。……ほら」
陽菜は、一瞬だけ戸惑ったような顔をしたが、やがて、おそるおそる、俺の膝に、その小さな頭を乗せてきた。
膝枕。漫画の中でしか見たことのない、あの究極のシチュエーション。それを、今、俺は現実に行っている。陽菜の柔らかな髪の毛が、俺のジーンズ越しに伝わってくる。
陽菜は俺の膝の上で、安心したように、すぐに、すうすうと、穏やかな寝息を立て始めた。
俺は、その無防備な寝顔を見つめながら。壊れ物を扱うように、優しく優しく、その髪を撫でた。長いまつ毛が、泣き疲れた頬に小さな影を落としている。
少しだけ開かれた唇からは、規則正しい穏やかな寝息が聞こえる。
陽菜の顔に、さっきまでの恐怖に歪んだ表情はどこにもない。
ただ、俺の隣が、安心できる場所だと信じ切ってくれているような無垢な寝顔。
陽菜の愛おしい表情に、俺の胸は、温かいもので満たされていく。
「楽しかったねー!」
遠くで、小さな子が嬉しそうに父親の腕にしがみつきながら、帰っていく様子が見えた。
夕暮れのオレンジ色の光が、園内のアトラクションを照らしている。その光はとても暖かく、俺たちを応援してくれているように思えた。
(……俺が、守らないと)
この小さくて可愛い女の子を。この温もりを。
こんな俺を信じてくれる、かけがいのない存在を。
俺は、こっそり涙を流しながら、その寝顔を見つめていた。
◇
夢を見ていた。
温かくて、優しい夢。
カケルの膝の上で眠る夢。
彼の指が、私の髪を優しく梳いてくれる。
その心地よい感触に、私の凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていく。
何も怖くなんてない。
彼がそばにいてくれるなら。
私は大丈夫。何も怖くなんてない。
そんな、幸せな夢だった。
ゆっくりと目を開けると。
目の前に、彼の少しだけ心配そうな、でも、どうしようもなく優しい顔があった。
夢じゃなかった。
私は、本当に、彼の膝の上で眠っていたのだ。
「……あ」
その事実に気づいた瞬間。
私の顔は、一瞬で沸騰した。
「ご、ご、ご、ごめん! 私、いつの間に……!」
「……い、いや。……よく、寝てたぞ」
私は、慌てて、彼から身体を離した。
恥ずかしい。 恥ずかしすぎて死んでしまいそう。
でもそれ以上に。 私の心の中は、温かいものでいっぱいだった。
彼が、ずっとこうして、私を守ってくれていたんだ。
そのことが、嬉しくてたまらない。
空は、もうすっかり、オレンジ色と紫色が混じった綺麗な夕焼け空に染まっていた。
「……そろそろ、帰るか」
カケルが、少しだけ寂しそうに、そう言った。
その言葉に。 私はハッとした。
嫌だ。 このまま終わりたくない。
今日の、この大切なカケルの誕生日を。
あんな悲しい思い出で終わらせたくない。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「……ねぇ、カケル」
「ん?」
「……このままじゃ、嫌だ。……楽しい思い出で、今日を、終わらせたい」
私はそう言って、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
私は、園内で、一番高い場所にある巨大な観覧車を指さした。
「……観覧車乗ろう? また二人で」
◇
修学旅行で乗って以来の観覧車。
陽菜の手をとって、一緒に乗り込む。
ゆっくりゆっくりと昇っていくゴンドラ。
眼下には、イルミネーションが点灯された遊園地の、夜景。
メリーゴーランドの柔らかな光、ジェットコースターの軌跡を描く光、そして、行き交う人々の小さな光。その美しい光景に、俺たちはしばらく、無言で見惚れていた。
世界が、俺たちの足元に広がっている。
その圧倒的な光景を前に、俺は隣にいる陽菜の横顔を見た。
イルミネーションの光に照らされた、その横顔が、あまりにも綺麗で。 愛おしくてたまらなかった。
キスしたい。そう思った。
でも、できなかった。
あのときの陽菜の心臓の鼓動。
あのときの陽菜の全身の震え。
心臓が壊れてしまうのではないか、意識が戻らないのではないか。
そんな恐怖の記憶が、俺の頭の中に蘇る。
不用意なことをすると、また、陽菜を怖がらせてしまうのではないか。
そんな恐怖が、俺の身体を縛り付けていた。
◇
私は、隣にいるカケルの横顔をこっそりと見ていた。
イルミネーションの光に照らされた、その真剣な横顔。
彼の戸惑いが、痛いほど伝わってくる。
私を傷つけたくない。大切にしたい。
その優しさが、彼の一歩を踏みとどまらせている。
いつも守られてばかりの、私。
でも今日だけは。
今、この瞬間だけは。
私から、あなたに伝えたい。
私の、本当の気持ちを。
「……カケル」
「ん?」
私は、彼の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして、ゆっくりと、顔を近づけていく。
カケルが息を呑むのがわかった。
でも、彼は逃げなかった。
ただ真っ直ぐに、私を見つめ返してくれている。
そして。
私たちの、唇が、そっと重なった。
柔らかくて。温かくて。そして、少しだけカケルの味がした。
修学旅行のときとはできなかった観覧車でのキス。
唇が触れ合うだけの優しいキス。
でも、そこには、私のすべての想いが詰まっていた。
『大丈夫だよ』
『怖くないよ』
『あなたが、好きだよ』
ゆっくりと唇を離すと、私は、彼の瞳を見つめて囁いた。
「お誕生日おめでとう」
その言葉と共に。 私のすべての想いを、彼に捧げた。
「……いつも守ってくれてありがとう。……だいすきだよ、カケル」
◇
陽菜の真っ直ぐな言葉と優しいキスに。
俺の心の中の、最後のためらいが溶けていくのがわかった。
俺は何も言わずに、ただ、彼女の小さな身体を、優しく抱きしめ返した。
観覧車が、ゆっくりと地上へと降りていく。
その腕の中の温もりが、俺のすべてだった。
ゴンドラの扉が開いても、陽菜は俺の腕の中にいた。




