第110話 暗闇の記憶
「カケルと一緒なら、大丈夫かなって」
陽菜の悪戯っぽい笑顔と反則的な一言。
俺に断るという選択肢は残されていなかった。
俺たちは手を繋いだまま、二人並んで『戦慄迷宮 〜呪われた廃病院〜』と書かれた不気味な建物の前に立った。
古びたレンガ造りの外壁にはツタが絡まり、窓ガラスは割れて黒い口を開けており、その入り口からは、ひんやりとした、埃と消毒液が混じったような空気が流れ出てきていた。時折、中から聞こえてくる、甲高い絶叫が嫌でも耳に入ってきた。
正直、俺も、こういうのは得意じゃない。
でも、握っている陽菜の手から感じるこの温もり。
彼女の期待に満ちたキラキラとした瞳。
そのすべてが、俺に不思議な勇気をくれた。
大丈夫だ。 俺がそばにいる。
俺が陽菜を守る。
きっと、何も怖くない。
「……じゃあ、行くか」
「うん!」
俺たちは、受付で小さな懐中電灯を一本だけ渡されると、悲鳴が飛び交う廃病院の中へと、その足を踏み入れた。
薄暗い廃病院の中、入り口から離れるにつれ、その暗さが、どんどん増してくる。
そこにあるのは懐中電灯が照らし出す頼りない円形の光と、隣にいる陽菜の小さな気配だけ。
建物全体にひんやりとした湿った空気が漂っている。
床を踏みしめるたびに、ギシ、ギシ、と古い床板が悲鳴を上げ、どこからか聞こえる、うめき声のような、おどろおどろしいBGMが、じわじわと不安を煽ってきた。
「……ひっ」
隣で、陽菜が小さな悲鳴を上げて、俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。
その柔らかな感触。陽菜の身体の柔らかさと温もりが、パーカー越しにでもはっきりと伝わってくる。
俺は、恐怖とは全く違う理由で、心臓をバクバクと鳴らしていた。
「だ、大丈夫か?」
「う、うん……!」
陽菜は強がっているが、その声は完全に震えている。
俺は、陽菜の肩を優しく抱き寄せた。
「……大丈夫だって。隣には俺がいるから」
「……うん」
その、小さなやり取りが嬉しくて、俺は、少しだけこの状況を楽しんでいる自分に気づいていた。
俺たちは、壁を伝いながら、ゆっくりと前に進んでいく。
長い長い廊下。壁紙はところどころ剥がれ、不気味な染みが広がっている。
ひっくり返ったストレッチャーや、床に散らばったカルテらしき紙切れが、懐中電灯の光に浮かび上がった。
突然、すぐ横の、錆びついたロッカーが、キーキーと耳障りな音を立てて傾き、ガタン!と、大きな音を立てて倒れた。
「きゃあああああっ!」
陽菜の絶叫が、狭い廊下に響き渡る。
俺は、その小さな身体を、力強く抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫。作り物だって」
「わ、わかってるけど……!」
その怯えた声は可愛いすぎた。
そうだ。 これで、いいんだ。
二人で怖がって、笑い合って。
それだけで、最高の思い出になる。
そう思っていた。
俺の、その甘い考えが、打ち砕かれるまでは。
通路の突き当たり。
道が二つに分かれていた。
右も、左も、同じように暗い。
懐中電灯の光が、右手の先にある手術室らしき部屋の、血糊のついた器具を一瞬だけ照らし出した。
俺たちが、どちらへ行こうか迷っていると。
通路の奥の暗闇から、ひた、ひたと、誰かが近づいてくる、足音がした。
暗闇から迫る足音。
演出だ。 わかってる。
だが、その足音を聞いた瞬間。
隣にいる陽菜の身体が、氷のように硬直した。
俺が、ハッとして、隣の陽菜を見ると、彼女の顔から血の気が引いていた。
その瞳は、恐怖に見開かれている。陽菜の呼吸が、浅く速くなっていく。
「……ひ、……ぁ……」
声にならない悲鳴。
身体が、小刻みに震え始めている。
これは、ただの怖がり方じゃない。
体育倉庫のあの夜。
あの悍ましい記憶。
陽菜が、今、あの絶望の淵に引き戻されようとしている。
フラッシュバックだ。 俺は、すぐに悟った。
◇
何も見えない暗闇。
ひた、ひたと、近づいてくる、足音。
やだ。
やだ、やだ。
やだ、やだ、やだ。
頭の中で、あの日の記憶が勝手に再生される。
鉄の扉が閉まる音。
暗闇の中に聞こえる足音。
獣のような息遣い。
私のワンピースを引き裂いた、あの絶望的な音。
身体が動かない。
声が出ない。
怖い、怖い、怖い、怖い。
息ができない。
胸が苦しい。
世界が歪んでいく。
もうダメ......。
私が、そう思った、その瞬間だった。
◇
「陽菜!」
俺は叫んだ。
そして、彼女の小さな身体を、力いっぱい抱きしめた。
「大丈夫だ! 俺が、ここにいる! 大丈夫だから!」
俺は、何度も何度もそう叫びながら、陽菜の耳を両手で塞いだ。
不気味な足音もお化けのうめき声も、何も聞こえないように。
俺の腕の中で、陽菜の身体がびくびくと大きく震えている。
陽菜の心臓の鼓動が、俺の胸にダイレクトに伝わってくる。
速い。 速すぎる。 まるで、壊れてしまいそうなほど、激しく脈打っている。
俺は、陽菜の震える身体を、さらに強く抱きしめた。
俺の温もりを、すべて分け与えるように。
俺の存在を、その身体に刻みつけるように。
「……大丈夫だ、陽菜。……俺が、絶対に守るから」
俺が、そう囁いた、その時だった。
俺の胸に伝わってくる、陽菜の心臓の鼓動が。
ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、緩やかになったのを感じた。
(……よし)
安堵する暇なんて、一秒もなかった。
とにかく、ここから一刻も早く脱出しなければ。
陽菜を、この悪夢から連れ出さなければ。
俺は、陽菜の震える身体を抱え上げた。
「……っ!」
陽菜が、小さく息を呑む。
でも抵抗はしなかった。
ただ、俺の首に、その細い腕をぎゅっと回してくるだけ。
俺は、その小さな温もりを胸に抱いたまま、出口の光を目指して全力で走り出した。
途中で、白衣を着たゾンビが飛び出してきても。
壁から、血だらけの手が伸びてきても。
そんなものは、もう、何も怖くなかった。
陽菜の心が潰されてしまうことの方が怖かった。
陽菜を失うことの方が怖かった。
俺が、守るべきものは、たった一つ。
この腕の中にあった。
俺は、ただ、ひたすらに、光を目指して走り続けた。
この暗闇の記憶を、俺の温もりで上書きするために。
ただただ、その一心で。
光の中へ飛び出すと、出口にいた係員のお兄さんが「お客様!?」と驚きの声を上げた。
だが、俺はそれに構わず、人の喧騒から逃れるように、一番近くにあった植え込みの陰へと駆け込んだ。
そこに置かれた古びたベンチ。
俺は、その上に、陽菜の身体を、やさしくやさしく、ゆっくりと下ろした。
「……陽菜大丈夫か? もう大丈夫だから」
俺は、陽菜の肩を抱き、何度も何度も、声をかけ続けた。
陽菜は、まだ真っ青な顔で小さく震えている。
でもその瞳には、少しずつ光が戻ってきていた。
俺の顔を、ちゃんと認識している。
「……ごめん」
陽菜の震える唇から、か細い声が漏れた。
「……私の、せいで……」
「違う」
俺は、その言葉を強く遮った。
「違うんだ陽菜。……俺のせいだ。……気づいてやれなくて、ごめん」
俺は何も言わずに、ただ彼女の背中を、優しくさすり続けた。
陽菜は、俺の胸に顔をうずめ、子供のように声を殺して泣き始めた。
遠くで遊園地の楽しそうなBGMが聞こえる。
その、あまりにも平和な音が、今の俺たちには、ひどく場違いに感じられた。
俺は、陽菜の小さな身体を、もう一度強く抱きしめた。
せめて、この腕の中だけは、彼女にとって安心できる、安全な場所なのだと信じてもらいたくて。




