第11話 心のお守り
月曜日の放課後。
昨日までの、あの重苦しい週末が嘘みたいに、空はどこまでも青く澄み渡っていた。カン、と乾いた打球音が、テニスコートに響き渡る。
強豪校との練習試合。
ゲームカウントは3対3。
勝敗の行方は、すべてこのファイナルゲームに委ねられていた。
(……大丈夫。私なら、できる)
じりじりと照りつける西日が眩しい。
額から流れ落ちる汗を、私は左手首に巻いたリストバンドでぐいっと拭った。
パートナーの舞が、後衛から「陽菜、一本集中!」と声をかけてくれる。
私は「うん!」と頷きながら、ぎゅっとラケットを握りしめた。
心臓が、バクバクと音を立てている。緊張で、足が震えそうだ。 でも、不思議と、怖くはなかった。
私はもう一度、左手首のリストバンドに目を落とした。
少し色褪せて、何度も洗濯したせいで生地も少しだけくたびれている、水色のリストバンド。
一昨日までは、これは私の、一方的な想いを込めた「《《お守り》》」だった。
でも、今は違う。 これは、カケルと私を繋ぐ、確かな「《《絆》》」の証だ。
『お前が、俺の隣から、いなくなっちまうのが、怖かったんだ』
昨日の、リビングでの出来事が、鮮やかに蘇る。 私のために、あんなに情けない顔で、必死に言葉を紡いでくれたカケル。
彼も、私と同じだったんだ。
この「当たり前」の関係が、壊れてしまうことを、怖がっていた。
私がいなくなることを、恐れてくれていた。
その事実が、私の心を、今まで感じたことのないような、温かくて、力強いもので満たしていた。
このリストバンドを、彼がくれた日のことを、今でもはっきりと覚えている。
◇
あれは、中学一年生の、私の誕生日だった。
ソフトテニス部に入部して、まだ数ヶ月。慣れない練習と、先輩たちとの関係に、少しだけ疲れを感じていた日のこと。
部活の帰り道、家の前でカケルが待っていた。
当時から、彼は陸上部で、私なんかよりずっと厳しい練習をしていたはずなのに。いつもみたいに、ぶっきらぼうな顔で、家の壁に寄りかかっていた。
『よぉ』
『あ、カケル。どうしたの? 部活は?』
『……もう終わった。……それより、ん。これ、やる』
そう言って、彼が突き出してきたのは、スポーツ用品店の小さな紙袋だった。
私が不思議そうな顔でそれを受け取ると、彼は照れくさそうに、ぷいと顔を背けた。
『誕生日、だろ』
『え……覚えてて、くれたの?』
『……まあな』
袋の中を覗くと、そこには、新品の水色のリストバンドが入っていた。
『テニス、頑張れよ』
彼は、たったそれだけ言うと、「じゃあな」と手を上げて、自分の家に帰ってしまった。
私は、その場に立ち尽くしたまま、彼の背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
心臓が、痛いくらいにドキドキしていた。 嬉しくて、嬉しくて、泣きそうだった。
カケルが、私の誕生日を覚えていてくれた。
私のために、プレゼントを選んでくれた。
私のことを、応援してくれている。
ただそれだけの事実が、当時、少しだけ部活に悩んでいた私の心を、温かいものでいっぱいにしてくれたのだ。
カケルは、私の隣に住む同級生で、本当に小さいときから一緒にいた。
一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に両親に怒られたりした。
兄妹のように、隣りにいるのが当たり前だった。
でも、カケルが私のためにプレゼントをくれるなんて初めてだった。
常に寝癖をつけたままな無頓着な性格でいて、内気で恥ずかしがり屋。特に女子が苦手で、私と莉子以外の女の子と話しているところなんて見たことがない。
そんなカケルが選んでくれたプレゼント。きっと、私が部活に悩んでいることに気を使って、これをくれたんだと思う。
◇
あの日から、このリストバンドは、私の一番のお守りになった。
初めての公式戦の日。緊張でガチガチだった私は、ベンチでそっとこれに触れた。
「カケルも頑張ってるんだから、私も頑張らなくちゃ」。
そう思うと、不思議と力が湧いてきて、私たちは一回戦を突破することができた。
負けそうな試合の時も、いつもそうだった。
このリストバンドをぎゅっと握りしめて、「カケル、力を貸して」と心の中で祈る。すると、なぜか身体が軽くなって、逆転できたことが何度もあった。
それは、ただの偶然かもしれない。私の、思い込みかもしれない。
でも、私にとっては、このリストバンドが、カケルそのものだった。
彼への信頼が、私に勇気をくれる。
彼が応援してくれていると思えるだけで、私は何倍も強くなれるのだ。
◇
「陽菜」
舞の声で、私はハッと我に返った。
どうやら、また無意識にリストバンドを握りしめていたらしい。
「陽菜、またお守りにパワーもらってたでしょ。……っていうか、今日、なんかすごいね、陽菜」
「え?」
舞が、ニヤニヤしながらではなく、どこか感心したような目で私を見ていた。
「なんか、吹っ切れた顔してる。昨日、桜井くんと何かあった?」
「な、なんでもないよ! 別に、いつも通りだって!」
私は慌てて顔を逸らす。舞には、何でもお見通しだ。
でも、昨日のことは、まだ誰にも言えない。私とカケルだけの、秘密だから。
「ふーん? まあ、いいけど。でも、陽菜はさ、桜井くんに助けてもらわなくても、十分強いじゃん」
「そ、そんなことないよ! 私は、舞がいてくれるから……」
「私だけじゃないって。陽菜自身の力だよ。……まあ、恋する乙女は無敵って言うし? そのお守りパワーも、今は最大限に活用しちゃおっか」
「も、もう! 舞までからかうんだから!」
私がぷうっと頬を膨らませると、舞は「ごめんごめん」と楽しそうに笑った。
「からかってないって。本気で応援してるの。だから、この試合も勝って、桜井くんに良いとこ見せなきゃね!」
「……うん!」
舞の言葉に、私は力強く頷いた。
そうだ。良いところを見せなくちゃ。 もう、うじうじ悩んで、彼に心配をかけるのは終わりだ。 私は、彼の隣で、胸を張って笑っていたい。
私たちは力強く頷き合い、再びコートへと向かった。
相手のサーブ。 速いボールが、舞の足元を襲う。
だが、舞は完璧なレシーブで、ふわりとしたチャンスボールを相手コートに返した。
相手の後衛が、それをスマッシュしようと大きく振りかぶる。
今だ。 私は、ネット際へと一気にダッシュした。
相手のスマッシュが、私のラケットめがけて飛んでくる。
コースは読めていた。
私は身体を捻り、ラケットをコンパクトに振る。
――パシンッ!
ボールは、相手の前衛が誰もいない、がら空きのサイドラインぎりぎりに突き刺さった。
「「やったっ!」」
私と舞の声が、コートに響き渡る。
ゲームセット。私たちの、勝利だ。
私たちは駆け寄り、力いっぱいハイタッチを交わした。
「陽菜、今のポーチ、最高だったよ!」
「舞のレシーブがあったからだよ!」
喜びを分かち合う。これも、ダブルスの醍醐味だ。
私は、息を切らしながら、もう一度、左手首のリストバンドをそっと撫でた。
(……カケル、見ててくれたかな)
見てるはず、ないんだけどね。
彼は今頃、グラウンドで、汗だくになって走っているはずだから。
でも、それでいい。
私も、頑張ってるよって。胸を張って言えるように。
いつか、このお守りをくれた彼に、ちゃんと、好きだって伝えられる、その日まで。
もう、何も怖くない。
ここまで、読んでいただき、ありがとうございます。
次から、物語は6月に入ります。
6月といったら衣替え。そう、夏服に切り替わるのです。
遅めの思春期を迎えて、毎日のドキドキが続くカケルくん。
カケルくんを意識している陽菜ちゃん、そしてその友人たち。
たぶん、少しづつ進んでいくであろう二人の関係を、
お楽しみいただければと思います。
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