第107話 桜と手のひら
四月。 新しい学年の始まりを告げる、少しだけ肌寒い風が、通学路の桜の花びらを舞い上げていた。
「……なんか、緊張するね」
隣を歩く陽菜が、ぽつりとそう呟いた。
俺、桜井駆は、その横を歩きながら相槌を打つ。
「……だな」
高校三年生。
進路選択、受験、そして、卒業。考えるだけで、胸が、ずしりと重くなる。
でも、今、俺たちの心を占めているのは、もっと目の前の切実な問題だった。クラス替えだ。昇降口の前は、案の定、クラス分けの掲示板に群がる生徒たちで、山のような人だかりができていた。
「うわぁ、すごい人……。見えるかな」
陽菜が、不安そうに背伸びをする。
しかし、陽菜の身長では、背伸びをしても俺の背にも届かない。
一生懸命に背伸びをしている、その姿が、微笑ましく思えてならない。
「……行くぞ」
俺は、陽菜の手を自然に取った。
そして、人混みをかき分けるように、掲示板の前へと進んでいく。
繋いだ手のひらが、少しだけ汗ばんでいる。それは、きっと俺だけじゃない。
「あ、あった! カケルの名前あったよ、三年五組!」
陽菜が、小さな声を上げた。
その声に導かれるように、俺も三年五組の名簿に視線を走らせる。
自分の名前があるかどうかを確認するよりも先に、目で追っていたのは、たった一つの名前。心臓が、ドキリと鳴る。
頼む。頼むから、いてくれ。
祈るような気持ちで、名簿の上を目で追っていく。
桜井駆の名前を通り過ぎる。俺が探しているのはその名前じゃない......。
「……あった!」
俺が、その名前――「日高陽菜」――を見つけたのは、陽菜が自分の名前を見つけて嬉そうな声を上げたのと、ほぼ同時だった。
その、四文字を見つけた瞬間。俺たちは顔を見合わせた。そして、二人とも同時に、ふっと、笑みがこぼれた。よかった。 今年も、陽菜と同じ教室にいられる。
「よかったな」
「うん!」
繋いだ手に、きゅっと力を込めてくる陽菜。
その温もりが、嬉しくて、照れくさくて。
俺たちは、まだ興奮冷めやらぬ掲示板の前を後にして、三年五組の教室へと向かった。
教室のドアを開けると、そこは、新しいクラスへの期待と、ほんの少しの不安が入り混じった、独特の熱気に包まれていた。
進級したばかりの席は出席番号順だ。「さ」行の俺は、中央あたりの席。一方、「は」行の陽菜は、教室の廊下に近い席だった。
俺が自分の席に荷物を置くと、陽菜が舞と一緒にこちらへやってきた。
「席、離れちゃったね」
陽菜が少しだけ残念そうに、でも、嬉しそうに笑う。
「……だな。でも、まあ、同じクラスだし。一年間、よろしくな」
照れくさくて、それしか言えなかった。でも、心の中は温かいものでいっぱいだった。
陽菜の隣には、舞もいる。どうやら、三人、同じクラスらしい。
だが、健太と蓮の姿はなかった。どうやら別のクラスになってしまったらしい。
やがて担任の先生が教室に入ってきた。
その姿を見た瞬間。 俺は、陽菜が、心の底からホッとしたような息を吐くのを見逃がなかった。 そこに立っていたのは、藤井先生だったからだ。
◇
藤井先生が、私たちの、三年五組の担任の先生。
その事実を知った瞬間、私の心の中の、最後の小さな不安の棘が、綺麗に抜き去られた気がした。
体育倉庫でのあの事件。 先生は、すべてを知ってくれている。 そして誰よりも、私の心の傷に寄り添ってくれた恩人。先生がそばにいてくれるなら。 きっと、この一年、私は大丈夫。
始業式は、あっけなく終わった。今日は、午後の授業もない特別な一日。部活も今日はない。
「ねぇ、カケル。……帰り、少しだけ、寄り道しない?」
私がそう言うと、カケルは、少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに優しく頷いてくれた。
帰り道。 私たちは、手を繋いで歩いていた。
バレンタインデーの一件で、一度は離れてしまった二人の距離。
また、こうして手を繋いで歩けることが、私は、この上なく嬉しかった。
「……カケルは、進路、どうするの? もう、決めてる?」
私がそう尋ねると、彼は、少しだけ遠い目をした。
「……インターハイの結果次第だな。……でも、もし良い結果が出せたら、……大学でも、陸上続けたいって思ってる」
その静かな、でも、力強い言葉に。 私の胸は熱くなった。
彼は、いつだってそうだ。 真っ直ぐに、自分の夢を追いかけている。
その姿が、眩しくて誇らしくて、そして、どうしようもなく愛おしい。
「……そっか。……カケルなら、絶対、大丈夫だよ。私、応援してるから」
「……おう。……陽菜は?」
「……私はね」
私は、一度、言葉を切った。
そして、ずっと胸の中にしまい込んでいた新しい夢を、彼に打ち明けた。
「……学校の、先生に、なりたいなって思ってるの」
「先生?」
「うん。……特に、保健室の先生。……藤井先生みたいに、生徒の、心に、ちゃんと、寄り添ってあげられるような。……温かい、先生に」
それは、あの辛い経験があったからこそ、見つけられた、私の光。
カケルは、何も言わずに、黙って、私の話を聞いてくれていた。
そして、繋いでいた手に、きゅっと力を込めて言った。
「……いいじゃねぇか。……陽菜なら、絶対なれるよ。……陽菜は、世界で一番、優しい奴だから」
その彼の、とてもとても温かい言葉に。
私の目から、涙がこぼれそうになる。
私は、必死で、それを堪えた。
「……二人の夢が叶う大学、あるといいね。……一緒に、探せたらいいな」
私がそう言うと、彼は照れくさそうに、でも、最高に嬉しそうな顔で頷いてくれた。
◇
陽菜の夢。保健室の先生。
その、あまりにも、彼女らしい、優しい夢に。 俺の胸はいっぱいになった。
陽菜は、本当に強い。
自分の心の傷を、誰かを癒すための優しさに変えようとしている。
俺は、そんな彼女を、心の底から尊敬した。
そして、改めて誓う。このかけがえのない宝物を、自分が、一生守り抜くのだと。
「……あ」
陽菜が、小さな声を上げた。
彼女が指さした先。 そこには、川べりに、満開の桜並木が広がっていた。
去年、俺たちが、一緒に見ることができなかった景色。
「……行こうぜ」
「うん!」
俺たちは、どちらからともなく駆け出していた。
川べりの、柔らかな草の上に座る。
風が吹くたびに、桜の花びらが、ひらひらと雪のように舞い落ちてくる。
その、美しい光景に、俺たちは、しばらく言葉を失っていた。
繋いだ手のひらから、陽菜の温もりが伝わってくる。
やっぱり照れくさい。でも、それ以上に幸せだった。
ただ手を繋いで隣にいる。
ただ、それだけのことで愛おしい。
俺は、この瞬間を、この日々を、一生、忘れないだろう。
俺たちの高校三年生の物語は、満開の桜と、温かい手のひらの感触と共に、最高の形で幕を開けた。




