第106話 小さな恋のお返し
三月十四日、ホワイトデー。
その、甘くて、キラキラとした響きを持つ一日。 私、日高莉子は、朝からずっとそわそわしていた。
原因は、もちろん、隣の家に住む、生意気でゲームばっかりやってる私の幼馴染。 桜井航くんのことだ。
(……くれる、かしら)
机の引き出しを、そっと開けては閉める。
スマホの、メッセージアプリを、何度も立ち上げては閉じる。
期待なんてしてない。
してないんだから。
だって、私がバレンタインにあげたのは、あくまで「義理」チョコなんだから。
そう。 義理。
断じて、本命なんかじゃ、ない。
◇
バレンタインデーの前日。私は、お姉ちゃんと一緒にキッチンに立っていた。
甘いチョコレートの香りが、部屋中に満ちている。
お姉ちゃんは、それはもう真剣な顔で、湯煎したチョコレートを、ハートの型に流し込んでいた。その、まさに乙女という姿に、私は少しだけ呆れてしまう。
「……お姉ちゃん。それ。誰にあげるか、聞くまでもないわね」
「……っ! り、莉子! いつの間に!」
「最初からいたわよ。……ふーん? カケルお兄ちゃんのために、随分と、気合が入ってるじゃない」
「……う、うるさいな!」
顔を真っ赤にして慌てるお姉ちゃん。
本当に可愛い人だ。 カケルお兄ちゃんが、羨ましい。
「……で? 莉子は、作らないの?」
「え? ……まあ、一応、義理チョコくらいは、作っておこうかなって」
私はそう言って、さりげなくボールと板チョコを取り出した。
そう。 義理チョコ。 日頃の、感謝を込めて。
いつも私のくだらない作戦に付き合ってくれる、あの、隊長さんのために。
別に、特別な意味なんて……ないんだから。
「……義理チョコなのに、ずいぶん丁寧なのね」
「……っ! そ、そんなことないし! これは、その、お菓子作りの基本よ!」
お姉ちゃんの的確すぎるツッコミに、私の声が裏返る。
いけない。 バレてしまう。 私が、この、ただの義理チョコに、こっそりと金箔を乗せようとしていること。 アラザンでキラキラにデコレーションしようとしていること。 そしてラッピングの袋に、小さなカエルのシールを貼ろうとしていること。
全部、全部、バレてしまう。
私は、慌ててお姉ちゃんに背中を向けた。
神様、お願い。
この気持ちが、ただの「義理」じゃないってこと。
あの鈍感な隊長さんに、絶対にバレませんように。
◇
そして今日は ホワイトデー当日。
私たちの通う中学校では、男子たちが、そわそわとお返しのプレゼントを女子に渡していた。
でも、航くんは、私に何もくれなかった。
朝、一緒に家を出た時も。 学校の休み時間も。 帰り道も。
彼は、いつも通り生意気で、私をからかってくるだけ。
別にいいんだけど。
期待なんてしてなかったし。
でも。やっぱり少しだけ。胸がチクっと痛んだ。
「……ただいま」
私は、元気のない声で家のドアを開けた。
リビングのソファに大きなクマのぬいぐるみを、ぽすんと置く。
これは、初詣のときに、航くんが射的で取ってくれたものだ。
あの日から、私の、宝物。
(……バカ)
心の中で悪態をつく。
期待してたじゃない、私。
ほんの少しだけでも。
彼が、私のことを思い出してくれるんじゃないかって。
涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えた。
その時だった。
――ピンポーン。
玄関のインターホンが鳴った。
出てみると、そこに立っていたのは航くんだった。
その手には、小さな可愛らしい紙袋が握られている。
◇
(……くそっ、なんで俺が、こんな……)
俺は、莉子の家のインターホンを押した後、心の中で悪態をついていた。
朝から、ずっとタイミングを計っていたのだ。
こいつに、これを渡すタイミングを。
でも、いざ、本人を目の前にすると言葉が出てこない。
結局、こんな、家まで押しかけるという一番ダサい方法を選んでしまった。
バレンタインのあの日、莉子からもらった、やけにデコレーションされた「義理」チョコ。正直、めちゃくちゃ嬉しかった。だから、お返しはちゃんとしないと、と思っていた。
でも、何をあげればいいのか、さっぱりわからない。
あいつは、いつも俺にカエルのグッズをくれる。だから、カエルが好きなのか?
しかし、莉子が、カエルグッズを自分で持っているのを見たことがない。
……もしかして、あいつ、俺がカエル好きだと、勘違いしてやがるのか?
その可能性に思い至ったとき、俺はなんだか、無性に可笑しくなった。
そして決めた。 俺は、俺が莉子に似合うと思うものを、あげようと。
◇
「……よぉ」
「……航くん? 何の用よ。私、今、忙しいんだけど」
莉子は、腕を組んで、わざとらしくふんと鼻を鳴らした。
内心のドキドキを、悟られたくなくて。
「うるせぇな。これ、バレンタインのお返し。義理には義理で返すのが、俺の主義なんでな。勘違いすんなよ」
俺はそう言って、気まずそうに目を逸らしながら、小さな紙袋を莉子に無言で突き出した。
その、あまりにも不器用な言い訳。 私は、一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐにいつもの小生意気な笑みを浮かべた。
「ふーん? 義理チョコのお返しに、わざわざ家まで来るなんて。……航くんも、律儀なのね」
「……うるせぇな。……いらねぇなら、いい」
「いるに決まってるじゃない! もらえるものは、もらっておくのが、私の主義なのよ!」
私はそう言って、ひったくるように紙袋を受け取った。
中に入っていたのは、小さな箱。 開けてみると、そこには 淡いピンク色の桜の花びらをかたどった小さな髪留めが、ちょこんと座っていた。
「……さくら……?」
「……別に。……もうすぐ、春だし。……お前、こういうの、好きそうだなって、思っただけだ」
(……なんで、知ってるのよ)
私の頭の中は、少しだけ混乱していた。
私が、桜の花が好きなことなんて、誰にも言ったことないはずなのに。
なんで、こいつは知ってるの?
心臓がドキドキしてきた。顔が熱くなる。
でも、ここで、照れているのがバレたら負けだ。
「……ふーん? まあ、悪くないんじゃない? 私の、この美貌に花を添えるアクセサリーとしては、及第点、ってとこかしらね」
「……そりゃ、どうも」
◇
(……くそっ、可愛い……)
俺の心臓は、もう、限界だった。
こいつの、こういうところがずるいのだ。
素直じゃないくせに、たまに、どストレートに突き刺してくる。
真っ赤な顔をして、口角が上がっている。
喜んでくれているのがわかる。
◇
「……じゃあな」
彼は、それだけ言うと、くるりと背中を向けて、自分の家へと帰っていってしまった。
私は、その逃げるような後ろ姿を見送ることしかできなかった。
そして、手のひらの中の、小さな桜を、ぎゅっと握りしめる。
心臓のドキドキが、まだ収まらない。
顔がずっと熱い。真っ赤になっていたりしないかな、と不安になる。
これが、恋、というものなのかな。
まだ、わからない。
でも、一つだけ確かなこと。
私は、この不器用で、口が悪くて、でも、世界で一番優しい隊長さんのことが。
どうしようもなく気になってしまっているのだ。
その、どうしようもない事実を胸に抱いて。
私は、甘くて温かい、幸せな気持ちでいっぱいだった。




