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幼馴染の身体を意識し始めたら、俺の青春が全力疾走を始めた件  作者:
第10章 消えない記憶と二人の葛藤(2月/3月)

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第102話 先生が先生になる前の話

 放課後の職員室は、生徒たちが去った後の静かな時間が流れていた。


 私、藤井ふじい千尋ちひろは、採点を終えた小テストの束を机の上に置き、ふぅ、と深いため息をついた。


 窓の外では、夕日が校舎をオレンジ色に染め上げている。グラウンドからは運動部の生徒たちの活気のある声が聞こえてくる。

 いつもと同じ、平和な放課後の風景。でも、私の心は、まだ少しだけ波立っていた。


 つい先程の、保健室での日高さんとの会話。彼女の涙で濡れた痛々しいほど純粋な瞳。

 そして、彼女が勇気を振り絞って打ち明けてくれた、心と身体のアンバランスな悩み。

 その一つひとつが、私の心の奥底にしまい込んでいた、古い記憶の蓋を、こじ開けていく。


『……実は、先生もね、昔、……あなたと同じようなことで、すごく悩んだことがあるの』


 私は、彼女にそう言った。

 それは嘘じゃなかった。


 私も、昔は、ただの恋に恋する、愚かな女子高生だったのだから。





 あれは、もう十年も前のこと。 高校二年生の夏だった。

 当時の私は、日高さんと同じように、初めての恋をしていた。

 相手は一つ年上のサッカー部のキャプテン。誰にでも優しくて爽やかで、太陽みたいな笑顔が素敵な人だった。

 彼に告白された時は、夢を見ているようだった。 世界がキラキラと輝いて見えた。


 彼とのデートは、いつも楽しかった。

 手を繋ぐだけで、心臓が張り裂けそうになって。

 彼のくだらない冗談で、腹を抱えて笑い合って。

 そのすべてが宝物みたいな時間だった。


 私は、彼が大好きだった。

 心の底から愛していると信じて疑わなかった。


 だから、彼が、私に「それ」を求めてきた時。

 私は断ることができなかった。


『……千尋のこと、本気で愛してる。……だから……』


 その甘い言葉。


 今ならわかる。

 それは、ただの彼の身勝手な欲望だったのだと。


 でも、当時の私は愚かだった。


 彼に嫌われたくなくて。

 彼が望むなら、何でもしてあげたいと思ってしまった。

 心の中では、まだ「怖い」という気持ちがあったのに。

 身体の準備も、心の準備も、まだ、できていなかったのに。


 私は、彼のその言葉を信じてしまったのだ。


 初めての夜。

 それは、私が、夢見ていたようなロマンチックなものではなかった。

 彼がコンドームを持っていないと知ったとき、ほんの一瞬だけ不安がよぎった。


 でも、彼に「外に出すから大丈夫だよ」と、優しい声で抱きしめられて。

 私は、その不安を、偽りの多幸感の海の中へと沈めてしまった。

 彼との初めての行為は、ただ痛くて、苦しく、そして、悲しかった。


 彼は、私を見ているのではなく、私の身体を見ていた。

 彼は、「初めて」の私の痛みを気にする素振りを見せることもなく、私の身体を貫き、突き、そして私の中に吐き出した。


 彼の腕の中にいても、心はずっと遠い場所にあった。

 まだ覚悟が、心が伴っていなかった、身体の繋がり。

 それが、こんなにも虚しくて冷たいものだなんて。私はそのとき初めて知った。


 そして、その日を境に、私たちの関係は少しずつ壊れていった。

 彼は目的を達成してしまったからだろう。 私への態度は、少しずつ冷たくなっていった。

 そして私の身体に異変が起きた時、彼は、完全に私から逃げた。


 望まぬ妊娠。


 その残酷な事実を彼に告げた時の、あの怯えたような軽蔑に満ちた目を、私は一生忘れない。



 後に残されたのは、私の、心と身体に、深く刻み込まれた傷跡だけだった。

 

 両親に泣きながらすべてを話した。

 そして、私は一つの命を、この手で消すことを選んだ。人工妊娠中絶。その冷たい響きは、今も、私の胸の奥に突き刺さっている。


 それからの私は、人を信じることが怖くなった。

 男の人に触れられるのが怖くなった。


 私は、長い間、恋をすることができなかった。

 あの虚しい夜を、二度と繰り返したくなかったから。


 そんなボロボロになった私を救ってくれたのが、当時の担任の先生だった。

 先生は、何も聞かずに、ただ、私のそばにいてくれた。


 そして言ってくれたのだ。 『あなたは、何も、悪くない』と。

 『この辛い経験の先には、キラキラとした未来がまだ待っている』のだと。





「……藤井先生? お疲れ様です」


 不意に声をかけられ、私はハッと我に返った。

 目の前には、生徒指導の佐藤先生が、心配そうな顔で立っていた。


「……どうかされましたか? 顔色優れませんが」

「……いえ。……少し、考え事をしていただけです。……お疲れ様です、佐藤先生」


 私はそう言って、無理やり笑顔を作った。

 佐藤先生は、それ以上何も聞かずに、静かに頷いてくれた。


 私は、もう一度、窓の外を見た。


 桜井くんと日高さんが一緒に下校していくのが見えた。


 桜井くんは日高さんの横顔を、じっと見つめている。

 その眼差しは、どこまでも優しくて温かい。


 あの彼とは違う。桜井くんは誠実な人だ。

 日高さんの心の傷を、ちゃんと理解して、彼女のペースを尊重しようとしてくれている。


 だから、きっと大丈夫。

 あの子たちなら、きっと乗り越えられる。

 私みたいに、愚かな過ちを、犯したりはしない。



 でも、それでも心配だった。

 恋は、時に、人を盲目にするから。


 だから、私はここにいる。

 教師として、そして、少しだけ人生の先輩として。

 あのとき、私を救ってくれた恩師と同じように。


 あの子たちが、道に迷いそうになった時。

 そっと手を差し伸べてあげられるように。


 あの子たちの、キラキラとした宝物みたいな時間を守ってあげられるように。


 それが、過去の愚かな自分への贖罪。

 そして、未来のあの子たちへの、私からの精一杯のエールなのだから。



 机の上に置かれた婚約者との写真立てが、夕日を浴びてキラリと光った。

 

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