第100話 陽菜を襲う悪夢と温かい光
その夜、私は、また、あの場所にいた。
暗くて、カビ臭い体育倉庫。
ひんやりとした、コンクリートの壁の感触。
そして、目の前で、ゆっくりと閉ざされていく、重い鉄の扉。
ガチャン、と、外側から、閂がかけられる、絶望的な金属音。
完全な、闇。 光の一切ない、闇。
「だ……だれか、いませんかー……」
叫んでも、声が響かない。
分厚い闇に吸い込まれていく。
怖い、怖い、怖い。
心臓がバクバクと、大きな音を立てている。
闇の向こう側。
ゆっくりと、近づいてくる足音。
そして、あの声。
ねっとりとした甘い声が、私の名前を呼ぶ。
獣の匂い。
獣の息遣い。
獣の力。
壁に押し付けられる。
振りほどけない。
熱い身体が、私の身体に密着する。
心臓が凍りついた。
ビリッ、と、布が裂ける絶望的な音が暗闇に響く。
そして、私は、古いマットの上に、力強く押し倒される。
重い身体が、私の上にのしかかってくる。
獣の手が、私の胸を強く揉み、着ていたワンピースを引き千切る。
ねっちょりとした口が、私の唇に触れ……
◇
「……はっ!」
私は、息を呑んで目を覚ました。
全身が、汗で、ぐっしょりと濡れている。
枕も、涙で冷たくなっていた。
心臓が、まだ、バクバクと大きな音を立てている。
夢だ。わかってる。
あの文化祭の日以来、何度も見ている悪夢。
その夢は、あまりにもリアルで。 身体が、まだ小刻みに震えていた。
私は、ゆっくりと身体を起こした。
そして自分の身体にそっと触れる。
服は破れていない。胸も触られていない。
夢だったんだから、当たり前だ。
あのときも、胸を触られはしなかった……。
でも、夢の中の、布が裂ける絶望的な音が、胸を揉まれたような感触が、まだ、肌に、残っているような気がした。
怖い。 やっぱり怖い。
男の人に、力で押さえつけられることが。
その恐怖は、私の心の一番深い場所に根を張ってしまっていた。
(……カケル、助けて)
私は、震える手で、枕元に置いてあったお守りを握りしめた。
中学の時から、ずっと、大切にしている、古い水色のリストバンド。
新しいリストバンドをもらったけれど、これも捨てられるわけがない。
カケルの匂いが、もう残っているわけじゃない。
でも、これを握りしめると、不思議とカケルの存在を、すぐ近くに感じられる気がした。
私は、リストバンドを胸にぎゅっと抱きしめる。
そして必死に思い出す。あのときの体育倉庫の光景。私を守るために戦ってくれた、彼の大きな背中。そして、すべてが終わった後、私を優しく抱きしめてくれた、あの温かい腕。
あの温もりだけが本物だ。
あの温もりだけが、私の救いだった。
(……ごめんね、カケル)
心の中で、彼に謝った。
あの日、私は、彼を傷つけた。
彼の優しさを、拒絶してしまった。
本当は、私も、カケルともっと触れ合いたいのに。
身体が、勝手に怖がってしまう。
この、心と身体がちぐはぐな自分が、嫌で嫌で仕方ない。
でも、舞が言ってくれた。
『陽菜は、何にも心配することないの』
そうだ。 私は、一人じゃない。
カケルも、舞も、みんな、私の隣にいてくれる。
だから大丈夫。 焦らなくていい。
ゆっくり行こう。
カケルが言ってくれたように。 私たちのペースで。
私は、窓の外を見た。
東の空が、少しずつ白み始めている。
新しい朝が来る。
怖い。
でもそれ以上に。
彼と会えるのが楽しみだった。
私は、もう一度リストバンドを、ぎゅっと握りしめた。
そして心の中で呟く。
カケル 大好きだよ。世界で一番。
そのどうしようもないくらい幸せな気持ちを胸に抱いて。
私は、新しい一日の始まりを、静かに待っていた。




