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幼馴染の身体を意識し始めたら、俺の青春が全力疾走を始めた件  作者:
第1章 いつも隣にいた君(4月/5月)
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第10話 心の距離

 ――ガチャリ


 と。 背後で、リビングのドアに鍵がかかる音がした。

 俺、桜井さくらいかけるは、その音の意味を理解するのに、数秒を要した。


(……ハメられた)


 目の前には、お風呂上がりで、少し大きめのパジャマを着た日高ひだか陽菜ひなが、同じように呆然とした顔で立ち尽くしている。


 しっとりと濡れた髪からは、いつもより強く、甘いシャンプーの香りが漂ってくる。


 湯上りのせいか、頬はほんのりと上気し、白い首筋がやけに艶めかしく見えた。

 最悪だ。 今、世界で一番会いたくて、そして一番会いたくなかった人物と、密室に二人きり。


 仕掛けたのは、間違いなく、あの腹黒い弟と、小悪魔な妹だ。


「……」

「……」


 気まずい沈黙が、リビングを支配する。

 昨日、俺が吐き捨てた言葉。 地面に落ちた、ぐちゃぐちゃのクレープ。 力なく笑った、陽菜の悲しい顔。そのすべてが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。


 何か、言わなければ。

 今、ここで、言わなければ、俺たちの関係は本当に終わってしまう。

 俺は、震える唇を必死に動かした。


「……あのさ、陽菜」

「……なに?」


 陽菜は、俺の顔を見ようとしない。俯いたまま、パジャマの裾をぎゅっと握りしめている。その小さな手が、小刻みに震えているのが見えた。


「昨日のこと、だけど……」


 そこまで言ったところで、言葉が詰まる。


 何を言えばいい?


「ごめん」?


 そんな一言で、彼女の傷ついた心を癒せるはずがない。


「あれは本心じゃない」?


 じゃあ、何が本心なんだ。

 お前のことが好きです、とでも言うのか?  今、この状況で?


 頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。





 カケルの声が、すぐ近くで聞こえる。 心臓が、痛いほど締め付けられる。

 昨日、あれだけ泣いて、もう彼の前では絶対に泣かないって決めたのに。彼の顔を見たら、また涙腺が緩んでしまいそうだった。 だから、顔を上げられない。


(何を、言われるんだろう……)


 怖い。

 もし、ここでまた、「迷惑だ」とか、「もう、今までみたいにするのはやめよう」なんて言われたら。 私、今度こそ、本当に壊れてしまうかもしれない。


 いっそ、私から言ってしまおうか。 「もう、カケルには迷惑かけないから」って。

 そうすれば、これ以上、傷つかなくて済むかもしれない。 私が、先に、この関係を終わらせてしまえば――。



 ふっと言葉が出た。


「……私、カケルに、迷惑、かけちゃってたんだね」





 違う。

 違う、違う、違う!


 俺は、心の中で絶叫した。


 迷惑なんかじゃない。嫌だったことなんて、一度もない。


 お前(ひな)が隣にいるのが、俺の当たり前で、俺の世界のすべてだったんだ。



「……違う」


 俺の口から、ようやく言葉が漏れた。


「違うんだ、陽菜。そうじゃない」

「……じゃあ、なんであんなこと言ったの?」


 陽菜が、ゆっくりと顔を上げる。


 その大きな瞳は、昨日よりもさらに真っ赤に腫れ上がり、涙の膜が張っていた。今にも、大粒の雫がこぼれ落ちてきそうだ。

 その瞳に射抜かれて、俺はもう、逃げることができなかった。


「……怖かったんだ」

「え……?」


「お前との関係が、壊れるのが、怖かった。周りの奴らに、付き合ってるって思われて、からかわれて……そしたら、今までみたいに、普通に話せなくなるんじゃないかって。お前が、陽菜が、俺の隣から、いなくなっちまうのが、怖かったんだ」


 情けない声だった。 自分でも、驚くほどに。でも、それが、俺の偽らざる本心だった。


「だからって……あんな言い方、ないだろ。最低だ。陽菜の気持ち、何も考えないで……。本当に、ごめん」


 俺は、深く、深く頭を下げた。

 陽菜が、息を呑むのがわかった。


 長い、沈黙。


 もう、軽蔑されただろうか。呆れられただろうか。


 俺は、顔を上げられずにいた。





(……怖かった?)


 カケルの言葉が、私の頭の中で、ゆっくりと反響する。


 彼も、怖かった? 私が、彼の隣からいなくなることを?


(……うそ)


 信じられなかった。

 彼にとって、私はただの「当たり前」で、いてもいなくても同じ存在だと思っていたから。


 ううん、違う。

 昨日の出来事で、私は彼にとって「迷惑な存在」なんだって、思い知らされたはずじゃなかったの?


「……私も、怖かった」


 気づいたら、声が出ていた。


「……え?」

「カケルが、私のこと、嫌いになっちゃったんじゃないかって。もう、今までみたいに、隣にいちゃいけないんじゃないかって……そう思ったら、すっごく、怖くて……」


 私の声は、震えていた。 堪えていた涙が、ついに一筋、頬を伝う。


「昨日のカケルの言葉、すっごく、痛かった。……でも、今、カケルの本当の気持ちが聞けて……よかった……」


 そう言って、私は、泣きながら、ふわりと笑った。





 その陽菜の笑顔は、昨日見たどんな笑顔よりも、ずっと、ずっと綺麗で。

 

 俺は、顔を上げた。泣き笑いの陽菜と、目が合う。

 俺の目頭も、どうしようもなく熱くなっていた。

 俺も、きっと、ひどい顔で笑っていたと思う。


 昨日までの、重苦しい空気は、もうどこにもなかった。

 ただ、温かくて、少しだけ気恥ずかしい空気が、俺たちを包んでいた。




 と、その時だった。


 ――ガチャガチャガチャッ!


 リビングのドアが、ものすごい勢いで揺さぶられた。


「おい! どうなんだよ! 仲直りしたのか!? いつまで閉じこもってんだ!」


 航の、デリカシーのない声が響き渡る。


「もう、航くんは! でも、気になる! お姉ちゃん、大丈夫ー?」


 続いて、莉子ちゃんの声。

 俺と陽菜は、びくりとして顔を見合わせる。涙も引っ込んでしまった。


 ――ガチャリ、と鍵が開く音がして、ドアが勢いよく開いた。


 ひょっこりと顔を出したのは、ニヤニヤ顔の航と、心配しているような顔の莉子ちゃんだった。


 二人は、涙の跡が残る俺たちを交互に見ると、状況を察したように、パッと表情を明るくした。


「お、なんだ。解決済みか。つまんねーの」


「よかったね、お姉ちゃん、カケルお兄ちゃん!」


 航と莉子ちゃんは、リビングにずかずかと入ってくると、テーブルの上に置いてあったポテトチップスの袋を勝手に開け始めた。


「いやー、心配したぜ、兄貴。これでまた、陽菜姉ちゃんが朝、起こしに来てくれるな!」


「もう、航くん! そういうこと言わないの! ……でも、良かった。これでまた、四人で一緒に遊べるね!」


 二人は、好き勝手なことを言いながら、わいわいと騒ぎ始める。


 その様子を見て、俺と陽菜は、また顔を見合わせた。 そして、今度は、二人して、思わず吹き出してしまった。


「「ふふっ……あははは!」」


 さっきまでの、あの重苦しい空気は、もうどこかへ消えていた。


 弟と妹の、強引で、ちょっとお節介な優しさのおかげで。



 俺たちの関係は、まだ「恋人」にはほど遠い。


 でも、昨日よりも、ほんの少しだけ。 ほんの、一ミリだけ。 心の距離は、近づいた気がした。


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