第10話 心の距離
――ガチャリ
と。 背後で、リビングのドアに鍵がかかる音がした。
俺、桜井駆は、その音の意味を理解するのに、数秒を要した。
(……ハメられた)
目の前には、お風呂上がりで、少し大きめのパジャマを着た日高陽菜が、同じように呆然とした顔で立ち尽くしている。
しっとりと濡れた髪からは、いつもより強く、甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
湯上りのせいか、頬はほんのりと上気し、白い首筋がやけに艶めかしく見えた。
最悪だ。 今、世界で一番会いたくて、そして一番会いたくなかった人物と、密室に二人きり。
仕掛けたのは、間違いなく、あの腹黒い弟と、小悪魔な妹だ。
「……」
「……」
気まずい沈黙が、リビングを支配する。
昨日、俺が吐き捨てた言葉。 地面に落ちた、ぐちゃぐちゃのクレープ。 力なく笑った、陽菜の悲しい顔。そのすべてが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
何か、言わなければ。
今、ここで、言わなければ、俺たちの関係は本当に終わってしまう。
俺は、震える唇を必死に動かした。
「……あのさ、陽菜」
「……なに?」
陽菜は、俺の顔を見ようとしない。俯いたまま、パジャマの裾をぎゅっと握りしめている。その小さな手が、小刻みに震えているのが見えた。
「昨日のこと、だけど……」
そこまで言ったところで、言葉が詰まる。
何を言えばいい?
「ごめん」?
そんな一言で、彼女の傷ついた心を癒せるはずがない。
「あれは本心じゃない」?
じゃあ、何が本心なんだ。
お前のことが好きです、とでも言うのか? 今、この状況で?
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
◇
カケルの声が、すぐ近くで聞こえる。 心臓が、痛いほど締め付けられる。
昨日、あれだけ泣いて、もう彼の前では絶対に泣かないって決めたのに。彼の顔を見たら、また涙腺が緩んでしまいそうだった。 だから、顔を上げられない。
(何を、言われるんだろう……)
怖い。
もし、ここでまた、「迷惑だ」とか、「もう、今までみたいにするのはやめよう」なんて言われたら。 私、今度こそ、本当に壊れてしまうかもしれない。
いっそ、私から言ってしまおうか。 「もう、カケルには迷惑かけないから」って。
そうすれば、これ以上、傷つかなくて済むかもしれない。 私が、先に、この関係を終わらせてしまえば――。
ふっと言葉が出た。
「……私、カケルに、迷惑、かけちゃってたんだね」
◇
違う。
違う、違う、違う!
俺は、心の中で絶叫した。
迷惑なんかじゃない。嫌だったことなんて、一度もない。
お前が隣にいるのが、俺の当たり前で、俺の世界のすべてだったんだ。
「……違う」
俺の口から、ようやく言葉が漏れた。
「違うんだ、陽菜。そうじゃない」
「……じゃあ、なんであんなこと言ったの?」
陽菜が、ゆっくりと顔を上げる。
その大きな瞳は、昨日よりもさらに真っ赤に腫れ上がり、涙の膜が張っていた。今にも、大粒の雫がこぼれ落ちてきそうだ。
その瞳に射抜かれて、俺はもう、逃げることができなかった。
「……怖かったんだ」
「え……?」
「お前との関係が、壊れるのが、怖かった。周りの奴らに、付き合ってるって思われて、からかわれて……そしたら、今までみたいに、普通に話せなくなるんじゃないかって。お前が、陽菜が、俺の隣から、いなくなっちまうのが、怖かったんだ」
情けない声だった。 自分でも、驚くほどに。でも、それが、俺の偽らざる本心だった。
「だからって……あんな言い方、ないだろ。最低だ。陽菜の気持ち、何も考えないで……。本当に、ごめん」
俺は、深く、深く頭を下げた。
陽菜が、息を呑むのがわかった。
長い、沈黙。
もう、軽蔑されただろうか。呆れられただろうか。
俺は、顔を上げられずにいた。
◇
(……怖かった?)
カケルの言葉が、私の頭の中で、ゆっくりと反響する。
彼も、怖かった? 私が、彼の隣からいなくなることを?
(……うそ)
信じられなかった。
彼にとって、私はただの「当たり前」で、いてもいなくても同じ存在だと思っていたから。
ううん、違う。
昨日の出来事で、私は彼にとって「迷惑な存在」なんだって、思い知らされたはずじゃなかったの?
「……私も、怖かった」
気づいたら、声が出ていた。
「……え?」
「カケルが、私のこと、嫌いになっちゃったんじゃないかって。もう、今までみたいに、隣にいちゃいけないんじゃないかって……そう思ったら、すっごく、怖くて……」
私の声は、震えていた。 堪えていた涙が、ついに一筋、頬を伝う。
「昨日のカケルの言葉、すっごく、痛かった。……でも、今、カケルの本当の気持ちが聞けて……よかった……」
そう言って、私は、泣きながら、ふわりと笑った。
◇
その陽菜の笑顔は、昨日見たどんな笑顔よりも、ずっと、ずっと綺麗で。
俺は、顔を上げた。泣き笑いの陽菜と、目が合う。
俺の目頭も、どうしようもなく熱くなっていた。
俺も、きっと、ひどい顔で笑っていたと思う。
昨日までの、重苦しい空気は、もうどこにもなかった。
ただ、温かくて、少しだけ気恥ずかしい空気が、俺たちを包んでいた。
と、その時だった。
――ガチャガチャガチャッ!
リビングのドアが、ものすごい勢いで揺さぶられた。
「おい! どうなんだよ! 仲直りしたのか!? いつまで閉じこもってんだ!」
航の、デリカシーのない声が響き渡る。
「もう、航くんは! でも、気になる! お姉ちゃん、大丈夫ー?」
続いて、莉子ちゃんの声。
俺と陽菜は、びくりとして顔を見合わせる。涙も引っ込んでしまった。
――ガチャリ、と鍵が開く音がして、ドアが勢いよく開いた。
ひょっこりと顔を出したのは、ニヤニヤ顔の航と、心配しているような顔の莉子ちゃんだった。
二人は、涙の跡が残る俺たちを交互に見ると、状況を察したように、パッと表情を明るくした。
「お、なんだ。解決済みか。つまんねーの」
「よかったね、お姉ちゃん、カケルお兄ちゃん!」
航と莉子ちゃんは、リビングにずかずかと入ってくると、テーブルの上に置いてあったポテトチップスの袋を勝手に開け始めた。
「いやー、心配したぜ、兄貴。これでまた、陽菜姉ちゃんが朝、起こしに来てくれるな!」
「もう、航くん! そういうこと言わないの! ……でも、良かった。これでまた、四人で一緒に遊べるね!」
二人は、好き勝手なことを言いながら、わいわいと騒ぎ始める。
その様子を見て、俺と陽菜は、また顔を見合わせた。 そして、今度は、二人して、思わず吹き出してしまった。
「「ふふっ……あははは!」」
さっきまでの、あの重苦しい空気は、もうどこかへ消えていた。
弟と妹の、強引で、ちょっとお節介な優しさのおかげで。
俺たちの関係は、まだ「恋人」にはほど遠い。
でも、昨日よりも、ほんの少しだけ。 ほんの、一ミリだけ。 心の距離は、近づいた気がした。