第1話 朝から無防備な彼女
ピピピピッ、ピピピピッ――。
けたたましく鳴り響く電子音が、深い意識の海の底まで沈んでいた俺を、無理やり現実へと引き揚げようとする。
枕元で存在を主張し続けるスマホのアラーム。俺、桜井駆は、その音の発生源を布団の中から手探りで探し当て、どうにかこうにか画面をタップして沈黙させた。
「ん……あと、五分……」
新しい学年が始まって、まだ一週間。それなのに、俺の身体は早くも鉛のような重さを訴えていた。
陸上部の短距離選手として、今年こそは、という気負いからか、春先のこの時期からついオーバーワーク気味になってしまう。その代償として、毎朝俺を襲うこの強烈な睡魔には、正直なところ勝ち目がない。
再び訪れた静寂に安堵し、俺が二度寝という名の甘美な世界へ旅立とうとした、まさにその瞬間だった。
――バタンッ!
「こら、カケル! いつまで寝てるの! もう高校二年生でしょ、しっかりしなさい!」
鼓膜を突き破るような快活な声と共に、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
続いて、シャッ!という小気味良い音を立ててカーテンが開けられると、四月の柔らかな朝日が、それでも眠い俺の網膜には容赦なく突き刺さる。
「ぐえっ……」
カエルが潰れたような情けない声を漏らし、俺は布団の中に顔を埋めた。
この声と行動の主が誰なのか、考えるまでもない。
「……うるせぇ、陽菜」
「うるさいじゃない! もう七時半だよ! 遅刻する気?」
声の主、日高陽菜は、俺の幼馴染だ。
幼稚園の頃からずっと隣に住み、物心ついた時から俺の隣にいるのが当たり前の存在。身長は152cmと小柄なくせに、態度はやたらとデカい。
今日も今日とて、人の部屋に合鍵で勝手に入ってきては、母親よろしく俺の尻を叩いている。
「昨日、夜桜、見に行ったんだよ。お前も来ればよかったのに」
「あんたが部活で疲れてると思ったから、何も言わなかったんでしょ。それより、早く起きなさいって」
呆れたように言う陽菜は、ずかずかと部屋に入ってくると、ベッドの縁にどかりと腰を下ろした。
ふわりと、陽菜がいつも使っているフローラル系のシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
寝ぼけた頭には、いささか刺激が強い。
(……なんで、こいつはこう、無防備なんだ……?)
俺は薄目を開けて、ベッドに腰掛ける陽菜の姿を盗み見た。
ブレザーを脱ぎ、白いブラウス一枚になった姿。
陽菜は俺より三ヶ月ほど生まれが遅いくせに、発育だけは俺なんかよりずっと早熟だった。
中学三年生くらいからだろうか、陽菜の身体は急に丸みを帯び始め、特に胸は、その小柄な身体には不釣り合いなほど豊かに膨らんでいった。
今も、少し身をかがめただけで胸元のボタンの隙間が僅かに開き、白い肌がちらりと覗いている。
ブラウスの生地は、その豊かな双丘の丸みをくっきりと浮かび上がらせ、内側から強く押し上げられているのが見て取れた。
最近、妙に意識してしまう。
いや、意識しないように、必死に蓋をしていたと言うべきか。
陽菜は家族だ。妹みたいなもんだ。
そう自分に言い聞かせ続けてきた。
でも、高校二年生にもなると、自分の身体も、そして陽菜の身体も、否応なく「男」と「女」であることを主張してくる。
特にきっかけがあったわけじゃない。ただ、気づいてしまったのだ。
俺の隣にいる幼馴染が、とんでもなく可愛い女の子だという、動かしようのない事実に。
「ちょっとカケル? 聞いてる?」
「あ、あぁ、聞いてる」
いかん、いかん。思考が変な方向に飛んでいた。
俺は慌てて思考を振り払い、陽菜の声に意識を戻す。
「もう、ぼーっとしちゃって。はい、これ。お母さんから。今日はカケルが好きな唐揚げ、多めに入れてくれたって」
「お、マジか。叔母さんによろしく言っといてくれ。サンキュ」
陽菜が差し出した弁当箱を受け取る。
その時、俺の無造作に伸びた寝癖だらけの髪を、陽菜の小さな手がわしゃわしゃと撫でた。
「また髪、ボサボサ。あとでちゃんととかすんだよ? カケルは元がいいんだから、もうちょっと身だしなみに気を使えば、絶対モテるのに」
「わーってるよ。別にモテたくて生きてるわけじゃねーし」
まるで妹か弟にするような、その自然なスキンシップ。
陽菜にとっては、きっと何の意味もない行動だ。昔からずっとこうだった。
でも、今の俺には、その小さな手のひらの温もりが、髪を撫でる指の感触が、心臓に悪かった。
(バカ、カケル。意識しすぎだ。陽菜は陽菜だろ。昔から何も変わらない、うるさくてお節介で、だけど誰よりも優しい幼馴染……)
自分にそう強く言い聞かせながら、俺はのろのろとベッドから起き上がった。
その背中に向けられる陽菜の視線に、どんな感情が込められているのかも知らずに。
◇
(もうっ、この鈍感朴念仁!)
カケルの背中を見つめながら、私、日高陽菜は内心で盛大にため息をついていた。
私が毎朝こうしてカケルの部屋まで押しかけているのを、彼はきっと「昔からの習慣」くらいにしか思っていない。
でも、本当は違う。
中学二年生の頃からずっと、私はカケルのことが好きなのだ。
彼が他の女子とまともに話せないシャイな性格なのも、恋愛に驚くほど無頓着なのも、全部知っている。
だからこそ、私が隣にいられる。
でも、その「隣」が、「幼馴染」というポジションから一歩も前に進めないことが、もどかしくて、悔しくて、仕方ないのだ。
さっきベッドに腰掛けたのだって、本当は計算ずくだ。
春になって、ブレザーを脱ぐ機会が増えた。
この白いブラウスが、角度によっては少し危ないことくらい、女子なら誰だって知っている。
カケルの視線が、一瞬だけ私の胸元に注がれたことにも、気づいていた。
(もしかして、少しは意識してくれた……?)
そんな淡い期待を抱いたのも束の間、彼はすぐに目を逸らしてしまった。
がっかりしたような、少しだけ安心したような、複雑な気持ちが胸に渦巻く。
彼の寝癖だらけの髪も、陸上部で鍛えられた広い背中も、ぶっきらぼうな優しさも、全部が愛おしくてたまらない。
いつか、この手が髪を撫でる意味も、このゼロ距離の意味も、ちゃんと気づいてくれる日が来るのだろうか。
そんなことを考えていると、制服に着替えを終えたカケルが部屋から出てきた。
「陽菜、先行くぞ」
「あ、うん! ちょっと待って!」
私は慌ててカケルの後を追う。
玄関までの短い廊下。並んで歩く彼の肩は、いつの間にか私よりずっと高い位置にあった。
その当たり前の事実に、また胸がきゅんと小さく鳴った。
「カケル、今日の部活、練習きついの?」
「あぁ、シーズンインしたからな。陽菜こそ、もうすぐ春の大会だろ?」
「うん。だから頑張らないと」
なんてことのない、日常の会話。
でも、この時間が私にとっては宝物だった。
いつか、この当たり前の日常が、恋人としての特別な日常に変わることを夢見て。
「じゃ、行くか」
「うん!」
玄関のドアを開けて、私たちは並んで外に出る。
春の柔らかな日差しが、二人の影をアスファルトの上に長く、長く伸ばしていた。
ラブコメ作品の執筆をはじめました。
ある程度の期間の連載になる予定ですので、ゆっくりとお付き合いいただければ嬉しいです。
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