彼女のお願い
1
「山内君、ちょっといい?」
教室を出る時に、小野沢聡子に呼び止められた。
「なに?」
「話したいことがあるの」
そう話す小野沢聡子の顔は青白く声が少し震えていた。
立ち止まり彼女の話を聞こうとした。
「ここでじゃないところで……」
「学生ラウンジに行く?」
彼女は首を振った。
「外で話せない?」
そう言った後、気がついたように「この後、授業は?」と彼女が心配そうに訊いた。
「今日はもう終わりだ」
彼女が安堵の表情を浮かべた。
「なら、少し付き合ってくれる」
「ああ」
僕らは肩をならべて、大学から駅までの道を歩いた。
二人でこうして歩くのは、久しぶりだった。僕らは偶然同じ市の出身だった。大学のゼミの初日の自己紹介の時にそれを知った。ただし、高校は別で、大学に入るまでは接点がなかった。同郷ということで、それ以来仲良くなり、二人でお茶をして他愛もない話に花を咲かせたりした。僕はそのまま彼女とお付き合いするつもりだった。彼女もそういうつもりだったのではないかと思う。しかし、そんな未来はある日、突然壊れ去った。
言葉を交わすこともなく僕らは渋谷の街に来た。
そして、センター街の外れのカフェに入った。店にはジャック・オー・ランタンのオブジェが飾られていた。
「もうすぐハロウィンか。きっとこの辺には大勢のコスプレした人が集まるんだろうな」
気まずい沈黙を破るために僕はそんな話をした。
だが、彼女はうつむいていて、相槌すら打たない。
「ねぇ、こんなところにまで連れて来て、どういう話なんだい」
黙っている彼女に訊いた。
僕は、何か頼まれると断れないお人好しの性格だとよく人に言われる。だけど、廊下で呼び止められて、渋谷まで連れてこられて、その後、だんまりでは、さすがにいい顔をすることはできない。
「ごめんなさい」
彼女が何を謝っているのかよく分からなかった。渋谷まで連れてきたことか。それとも黙り込んでいることなのか。
「こんなことをお願いするのは筋違いかもしれないけど、私の子の父親になってもらえない。山内君しか頼める人がいないの」
絞り出すように彼女は言った。
僕は飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。
2
それが起きたのは、大学3年の前期の講義が終了し、夏休みにはいる前のゼミのコンパでだった。
僕が所属していたのは、国際関係論のゼミだった。そのゼミ出身だとそこそこ政治・経済に明るく英語もできるということで、企業受けがよく、就職に有利だったので人気のゼミだった。小規模な大学だったにもかかわらずゼミ生も30人以上いた。
そのコンパで同じゼミの影山が彼女に接近し、2次会、3次会と連れ回し、結局彼女をお持ち帰りし、その後、彼女は影山と付き合うようなったのだ。
どこにでもある学生時代の一コマの陳腐な話だ。
だが、僕にとっては晴天の霹靂だった。うっかり目を離しているいる隙に大切なものを横取りされた気持ちだった。
その夜のことがあってから、彼女は僕を避けるようになった。そして、影山はキャンパス内でもベタベタと彼女に触れて、自分のモノであるかのように誇示していた。
その夏の日を境に僕の学生生活は最悪なものになった。
3
「どういうことなんだい」
僕は困惑して言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
彼女は泣き出した。
落ち着くのを待って、話を聞くと、彼女は現在妊娠3ヶ月で、子供を堕ろすつもりだが、医師から相手の男性の同意書の提出を求められているということだった。
「相手は影山か」
彼女は頷いた。
「なら、影山から貰えばいい」
「でも、彼は協力してくれないの……」
「そんな!」
僕は影山の身勝手さに憤った。
「だから、父親のフリをして同意書にサインして欲しいのか?」
彼女は頷いた。
「断る」
「そう……。そうよね。ごめんなさい。無理言って」
「だが、この問題はこのままにしない。僕があいつと話をつける」
そう言うと僕は伝票を掴み、店を出た。
影山のいるところはだいたい分かった。多分、今の時間なら大学の近くの麻雀屋に入り浸ってるはずだった。
4
「ちょっと話がある」
僕は麻雀をしている影山の後ろに立った。
「急に何だ」
「いいから来い」
僕は影山の襟首を掴み、立ち上がらせた。
「乱暴はよせ」
「ついてこい」
影山は僕の顔を見て、肩をすくめた。
「おお、怖いな。わかったよ」
僕は路地裏に影山を連れて行った。
「こんなことをして、どういうつもりだ」
「小野沢さんのことだ」
「聡子か? お前には関係ない」
「彼女は僕の友人だ」
影山は両手の手のひらを上にして、肩をすくめた。
僕は冷静になろうと努めた。
「彼女が子供を堕ろすことに反対なのか?」
僕は堕胎手術の同意を拒む理由を問いただした。
「逆だ。産むことに反対だ」
「なら、なぜ、同意書に署名することを拒絶する」
「必要ないからだ」
「どういうことだ?」
影山は馬鹿にしたような顔をした。
「どいつも、こいつも不勉強だ。いいか、優生保護法は堕胎手術に配偶者の同意を原則として必要としている。しかし未婚の女性の場合は同意がなくてもいいんだ。同意が必要と言っている医師が法律を知らないんだよ」
「でも、お前に責任のあることなんだから、協力してあげてもいいじゃないか」
「法律上求められてない」
僕は影山をぶん殴りたくなった。
「そもそも、お前の子供なんだから責任を取って彼女と結婚して育てるべきじゃないのか」
「それは無理な注文だ」
「来年の3月には卒業だ。就職先が内定しているんだから二人で生活するのは無理ではない」
「そういう問題じゃない」
「彼女のことが好きじゃないのか。ただの遊びのつもりだったのか?」
「そういう次元の問題でもない」
僕はついに我慢できずに、影山のふてぶてしい顔めがけて思い切り拳を振るった。
だが、拳は空をきり、二の腕に激痛が走った。
「痛い」
影山が半身になり、冷たい目で見下すようにして構えている。
「やるならやってもいいが、俺は空手二段だ」
腕がしびれて上げられない。影山は僕の攻撃をかわすと同時に僕の腕を叩いた。その一撃は木刀のような硬さと威力だった。
「どうだ。痛みで腕が上がらないか。受け即ち攻撃の攻防一体は空手の基本だ」
空手二段というのはハッタリではないようだった。
なさけないことだが、僕は戦意を喪失した。
「どうして彼女にそんな仕打ちをする。彼女が嫌いなのか」
「いや」
「じゃあ、どうしてだ?」
「反出生主義という言葉を知っているか?」
僕は首を振った。
「俺は反出生主義者だ」
「どういうことだ」
「世の中を見てみろ。戦争、経済的格差の不公正、環境問題、人間こそが諸悪の根源だろう。それにこの世は生きていても辛いことばかりだ。生まれて来なかった方がいいと思えることばかりだ。だから、人間は生まれるべきではないという考えだ。生まれて来なければ、つらい思いをすることもないし、そうして100年もして、人間がいなくなれば、地球は平和で美しい星に戻ることができる」
「なんだそれ」
「だから、聡子が産むことに反対なのさ。生まれてくる子は苦労するばかりだし、人間が一人増えることは世界にとって害をなすからだ」
「おかしいだろう」
「いや。おかしくない。れっきとした哲学だ。古代から言われている」
「ならなぜ、聡子を抱いた。それに存在することが悪なら、どうして自殺しない」
「あのな。反出生主義は生まれてきてしまった者の生までは否定しないんだよ。だから俺は自殺はしないし、飯も食うし、女も抱く。だが、そんなことは俺一代で終わりにしたいんだ」
「お前の言っていることはめちゃくちゃだ」
だが、うまく反論できなかった。力でも議論でも屈服させられたという惨めな思いが僕を包んだ。
5
「先生、私の話、聞いています?」
「う、うん、聞いているよ」
「なんだか心ここにあらずですよ」
「いや。それより、さっきの話は本当かい?」
「ああ、塾の先生のことですか。ええ、その先生もウチの大学の出身だと言っていました」
「それで、名前は小野沢聡子さんだったのか」
「下の方の名前は分かりませんが、小野沢という名前でした」
「そうか……」
「もしかして、先生の元カノとかですか?」
「いや、違う」
「わーあ、動揺している」
女子学生にからかわれた。
僕は就職せず大学院に進学し、そのまま大学に残った。今、准教授だった。
彼女はあの後、ゼミを欠席するようになり、消息が分からなくなっていた。卒業アルバムに名前だけはあったので卒業だけはしているようだった。
たまたま夏休み前の打ち上げの僕のゼミのコンパで、ゼミ生が僕と同じ市の出身ということで、話をしたところ高校生のときに通った塾の講師がこの大学出身で小野沢という名前の女性だったというのだ。
僕の出身地の市は大きな街ではない。またこの大学も大学としては小さい方だ。偶然に、同じ市に同じ大学出身で同じ姓の人がいる確率は低い。
ゼミのコンパがお開きになった後、僕は家に戻った。
研究一筋で、留学もしたので、今も独身で、付き合っている女性もいなかった。
小野沢さんの顔が浮かんでくる。
笑顔が素敵なひとだった。
カレンダーを見た。
明日からは夏休みだ。これから前期試験の採点をして、成績をつけなければならないが、時間には余裕がある。
(久しぶりに今年の夏は実家に帰省するか)
留学などで実家にはここ何年も戻っていなかった。だが、高速で3時間ほど走れば、僕が生まれ育った街に帰ることができた。
あれから、彼女はどうしたのだろうか。故郷の街に帰ったということだったのだろうか。女子学生が話していた塾のホームページを確認したが、そこに行けば会えるのだろうか。小野沢姓で働いているということは彼女もまだ独り身なのだろうか。
僕の思いは彼女のことで一杯になった。
結局今も独り身でいるのは、忙しいからでも、出会いが無かったからでもなく、彼女のことを引きずっていたからだったのだと自覚した。
学生時代のゼミのコンパの夜に僕の未来は一度閉じた。
だが、歳月が流れ、今度は教師として参加したゼミのコンパの夜に未来がまた変わろうとしているのを感じていた。