深夜の散歩その5(夜明け)
十分とは言えなくとも、大怪我は間逃れる程までには高度を下げる事に成功していた。
木々に突っ込んでしまったのは計算違いだが、それでも豊かな枝葉が私たちの体の至る所引っ掻きながらも支えてくれた。
盛大に葉を撒き散らかしながら、地面に転がる。
ハァハァと、お互いの荒い息だけが、暗く静かな夜の森に奇妙なほどに響く。
いつの間にか、ジークは自分が下になるよう庇ってくれていた。私はジークの上で体を預けながら、立ち上がる努力もせずに、息が整うのを待っていた。
空の上ではあれほど容易に緩ませてみせたジークの腕は、今はしっかりと私の背中を抱いている。
「ハァハァ……、まさか小グライフがあんなに怒るなんて……小狡い手に憤る正義の鳥だったのか」
「馬鹿なことを言ってないで、ちょっとは反省しろ。痛みで一回落ちた奴が、人を抱えて飛ぶなんて何考えてんだ」
呆れたような深いため息で、胸が大きく上下するのを体全部で感じる。
「ふふ、でも楽しかっただろう?」
厚い胸板に遠慮なしに乗り上げたまま、笑って瞳を覗き込む。不機嫌そうに睨むジークの眉間のシワが、ふっと和らいだ。
「……ふっ」
小さな吐息のような声が、次第に震えながら大きくなる。体を預けた胸が、先ほどより激しく上下する。
「ははっ……! あははははははっ!」
力のこもった腕に強く抱きしめられながら、私はポカンとしてジークを見た。
低いけれどよく通る、快活な笑い声だった。
「アーニャが抱えられて飛ぶと、絶対興奮しながら笑ってたろ。はははっ。気持ちが分かった」
いつもよりも少しだけ早口になっているジークから、軽い興奮を感じる。
「いいな。空飛べるの。面白い」
ジークが歯を見せて笑う。
彼の虎のように喉元で笑う姿や、気軽な仲間内での談笑は何度だって見て来ている。
全く笑わない人間ではなかったし、旅の中でだってそれなりに笑えるような出来事はあった。
けれど、目の前で声を上げて笑うジークはただの年相応の、いやそれよりも年若い青年にしか見えない。
楽しさや笑いで語彙が単純化している事になど気付きもしないで、無意識に私を抱きしめながら笑う姿は、もう一層少年のようだ。
「……ふふっ」
こんな人の笑いまでも誘発するような笑い方をする人間だったなんて知らなかった。
「アーニャはもう私に飛んでくれとせがまなくなってしまった。抱えられるのが恥ずかしいらしい」
釣られるように笑いながら報告する。
「そうか……アーニャも年頃になったんだな」
笑いが収まらず、クツクツと小刻みに身を震わせながらも変に湿っぽく言うもんだから、こっちの笑いも止まらない。
「ははっ。こんな頑固な男が父親じゃなくてアーニャは助かったな」
「なんだと?」
言ったと思った瞬間、ぐるりと視界が回る。
気付けば地面に押し付けられ、ジークの顔は月を背景にして私の目の前にあった。
片腕を地面について押しつぶさないようにしてくれているのは、なけなしの配慮なのかもしれない。
「娘を守るのは父親の役割だ。俺は適任だろうが」
「適任なもんか。そう言ってパーティーの夜に娘を迎えに来た彼氏の前で、わざとらしく剣の手入れをして見せたりするんだろう」
「不埒な考えは出かける前に捨てさせるのが合理的だ」
「娘はいずれ嫁ぐんだぞ?ただの子離れできない父親じゃないか」
「物事には礼節と順序がある。俺は必ず守らせるぞ」
ありもしない話しで自分の意見の正当性を主張し合う。けれど互いの目は笑っていて、完全なじゃれあいに過ぎない。
「こんな堅苦しい父親はお断りだ」
「堅苦しくなくていいのか?」
笑いながら否定して見せると、それまで笑っていたジークのトーンが変わった。
「ジーク……?」
月が流れる雲の切れ間から、丸々とした姿を見せる。その光で、一瞬ジークの表情が見えなくなる。
かさついた、豆と傷跡だらけの手が私の頬に触れた。
「……俺が堅苦しくないと、困るのはあんただろ」
私たちの間にあった距離は、ジークが支えていた腕の力を抜くとすぐに埋まってしまう。
途端に私たちの距離はゼロになり、心臓は真逆の位置で重なり合った。
筋肉質で大柄なジークが私の上にのしかかると、それだけでもう身動きが取れない。重苦しいはずなのに、その重みに何故か甘い喜びが満ちる。
まるで全身が心臓になったような心地だ。
激しすぎる鼓動のリズムが、ジークの体を押し上げてしまいそうだとさえ感じる。
驚くほど近くに、ジークの精悍に整った顔が真正面にあった。
敵から身を隠す時。庇いあった時。数多くの戦いの中で、私たちの体が密着しあうなんて珍しくもない。
顔に血が上っていく熱を体感で感じながら、そう懸命に自分に言い聞かせる。
そうだ。初めてでもない。これくらいのこと、何度だってある。
握りしめた手で、ジークの熱い胸板を押して起き上がろうとするが、その体はビクともしない。
「ジーク……」
いつまでふざけている気だ。笑いながらそう言って、彼の体を押しのけて立ち上がろうとした。それなのに。
ジッと私を見つめるテンペストの瞳に、笑みも動きも固まってしまった。
気付けば、恐ろしいほど近くにジークの顔があった。
戦場を駆ける戦士にふさわしい、精悍な顔立ちをした男だった。
凛々しい眉の下に、彫りの深い二重の瞳。様々な戦闘で顔面を何度も強打してきたのに、形を変える事のなかったスッキリとした鼻梁。
少し大きめの口は引き締まっており、ともすれば甘い印象を与えかねない顔に、男らしい凛々しさを与えていた。
大柄で筋肉質な体格と、無粋とも捉えられかねないそっけない態度が合間って、旅路の先々で、彼は一見粗野と見なされることが多かった。
だが粗野だ野蛮だと警戒されながらも、その凛々しさにハッとする人間が男女問わず多数いたことも知っている。
男性であれば憧れに満ちた羨望の眼差しで、女性であれば熱の籠った眼差しを。
けれど当の本人は自分の容姿にさほど興味もないようだった。髭を剃るのを面倒草がっては洒落者のランディスにあーだこーだと指図され、しぶしぶ無精髭をあたったりもしていた。
今、間近で見ているジークに無精髭はない。日で浅黒く焼けてはいたが、髭は綺麗に除去されて、肌は瑞々しく美しかった。
魔王討伐が終わって、貴族の館へ挨拶まわりを強要されていると聞いている。身なりを整えることも指示されているのかもしれない。
軽く逃避した私の思考を取り戻させるかのように、ジークの短い前髪が私の額をくすぐった。
この距離だと、角度を変えれば鼻は互いにくっついてしまうだろう。
そう思うと、どこかぼんやりとしていた羞恥が途端に戻ってきた。
声を出すために口を動かせば、うっかり唇が触れ合ってもおかしくない。そんな距離だ。
そのあまりの近さに、私は呼吸さえ潜めて固まるより他なかった。
ジークが一体何を考えているのかわからない。
いつも真っ直ぐに目を見つめてくるジークを見返しても、いつもそこに何の感情も見つけられずにいた。
今だってそうだと思うのに、何故かジークの瞳の中に何か熱の籠った光が見えたような気がした。
顔に触れたままだったジークの手が、羽のように繊細な手つきで私の頬をなぞる。
「……っ」
そして唇に触れた。
ビクッと体が震えるのが自分でも分かったが、ジークの重みで実際にはほぼ動きはしなかっただろう。
乾いた指先が、私の唇を傷付けぬように軽くゆっくりと往復する。
「ふっ……」
それがくすぐったくて、私は思わず口を開く。ジークの指先に力がこもり、不意に割れた唇の奥で、少し塩辛い指先が触れた。
お互いが息を呑むのと、激しい羽ばたきが聞こえたのとでは、どちらが早かっただろうか。
「ア“ァ”――ッ!!」
早々聞かせることがない鳴き声をあげ、小グライフが私たちの間に割り込むように翼を羽撃かせる。
「うっ」
「……っ!」
頭上から激しく翼を打ち付ける衝撃に、さしものジークでも頭が上下に揺れる。
「っ、小グライフ!」
素早く身を起こし、ジークが翼を振り払うようにして攻撃をいなすが、それでも怒り醒めやらぬとばかりに小グライフは威嚇に近い鳴き声をあげる。
「ア“ア”ッ!!」
「ど、どうした、小グライフ。ジークに何をそんな怒ることがあるんだ」
思わぬ小競り合いに、私は慌てて仲裁に入る。
同じく威嚇される覚悟もあったが、意外にも小グライフの勢いはすぐさま衰え、私の肩の上で大人しく翼を休めた。
「……いい度胸だな、小グライフよ」
もし小グライフが人間なら、胸ぐらを掴み上げていたと思うようなドスを効かせた声でジークが凄む。しかし小グライフはいつものツンと澄ました顔で、ジークの方などまるで見ようとしない。
あれだけ良くできた主従関係だったはずなのに、一体何が起こっているのかわからずにオロオロと二人の顔色を見比べた。(正確には一人と一羽だが)
「一体どうしたって言うんだ」
まるで兄弟喧嘩にも似たやりとりに、若干呆れも混じりつつ問いかける。
小グライフが話すはずもなく、その問いはジークが答えるしかない訳だが、ジークは面白くなさそうに口をへの字にするだけだ。
「なんだ、お前のご主人は随分子どもっぽいんだな。どうした?こんな主人が嫌になっちゃったのか?」
肩に止まる小グライフ羽に頬をつけて、冗談めかして良く聞こえるヒソヒソ話しをしてみせると、ジークの眉間に更にグッとシワが寄った。
「そこまでだ。小グライフ、いい加減にしろよ。こっちに来い」
やはり歳の近い生意気な弟に言い聞かせるような声音でそう言うと、ジークは筋肉質な腕をグイと突き出し小グライフを招き寄せた。
小グライフほどの聡明な鳥にでもなると、主人の機嫌のラインをわきまえる事もできるのか。
小グライフは冷めた眼差しでチラリとジークを見やった後、まるで渋々であることを主張せんばかりの足取りでジークの腕へと渡っていく。
「この野郎」
ジークがそう言って小グライフを睨みつけるので、私は慌てて間を取り持つ。
「ま、まぁまぁ。小グライフだって機嫌が悪い時だってあるだろ。なぁ、小グライフ。さっきは私がズルして勝ったようなもんだしな? そんなのって気分良くないよな?」
そう問いかけると、小グライフの猛禽類特有鋭い目が、キュルンと音がなりそうなほど愛らしい丸い瞳になって私を見返してきた。
今まで私に向けてきた興味のない眼差しは何だったのかと思うほど、その眼差しは可愛い。
「か、可愛い……」
「おい、騙されるなよ! こいつは今かわい子ぶってるだけだ」
思わず口をついて出た言葉に、ジークがすかさず反論する。
「かわい子ぶってるって……」
全くもって呆れたジークの言い草に、もう一度小グライフを見る。
するとやはり猫の目のように丸くなった瞳で、小首を傾げて小グライフが私を見返していた。
「いや、やっぱり可愛い」
今まで散々そっけない態度を取られ、内心寂しく思っていたのだ。それがこうも可愛いらしい眼差しを向けてくるのだから悪い気がしないのも当然である。
その可愛らしさを目に焼き付けんばかりに小グライフをまじまじと見る私に業を煮やしてか、ジークはその視線を断ち切るように勢いよく立ち上がった。
「信じられん。こんな分かりやすいハニートラップに引っかかる奴がいるか」
背を向けて何やらブツブツと毒付いていたかと思うと、はぁーっと大きく長い溜息を吐いた後、空を見上げた。
「そろそろ帰る頃合いだな」
木々の合間から見える夜空は、気付けば随分と月は西へと傾げ、東の空が薄ぼんやりと茜色に染まり出していた。
私が隣へ並ぶと、ジークは無言でランタンを掲げて歩きだした。
東の空は染まり出したが、それでも森の中はまだ深い闇に満ちている。行きしと同じよう手が差し出され、私はその大きな掌に自分の手を重ねた。
けれど、行きとは全く違うことが一つだけある。
前方を照らすランタンの陰で、私はそっと指先で自身の唇に触れた。
ふざけあって倒れこみ、そしてジークの指先が私の唇をなぞった。
それは明確な意思を持って行われた行為であったけれど、それが一体どんな意思の元行われたのか、私には見当がつかないでいる。
雰囲気に呑まれた? まさか。この男がそんなものに呑まれるはずがない。
(なら、多少の好意があって……?)
人間の考えなどわからない。
天使同士であれば互いの心が求め合っていたならば、それは無言の内に感知し合えることが出来る。同調性の高い天使一族ならではの精神性の高い愛の交歓だ。
それに比べ、人間の心は本心に至るまでに様々な壁に覆われている。
見栄や詭弁、怯えから派生する怒り等。様々な偽りが大いに入り組み、容易くその内心を開くことはない。
そしてジークはまさにそんな人間の最たるもので、戦場での阿吽の呼吸以外で彼の本心に触れられたと思ったことなど一度もないのだ。
そんな彼の本心を、私が理解できることなどあるのだろか。
それを実証するかのように、あれきりジークに動揺は一切見えない。
この繋いだ手ですら、私は気を抜くと指先が震えそうになるほど緊張しているのに、ジークの手は暖かい。緊張などとは程遠く、平常心なのは間違いなかった。
小グライフが激しい威嚇で羽を撃ちつけてきた時、ジークの頭が衝撃に上下した。その時、確かに唇は触れ合ったはずなのに、何もなかったことになっている。
(……馬鹿馬鹿しい)
苦い気持ちでポツリと思う。
ふざけ合いが過ぎただけだ。その前にジークだって堅苦しくなければお前が困ると言っていた。
だからこれは過ぎたふざけ合いなのだ。そのふざけ合いに意味を持たせようとしている自分の方がどうかしているに過ぎない。
意味のないところに意味を探そうとして、見つからないとオタオタしている。
全くもって馬鹿馬鹿しいことに違いなかった。
物思いに沈んでいると、前方がランタンの光以外でほのかな明るさを見せているのに気が付いた。森の出口だ。
思った通りで、近くの木には二頭の馬が並んで繋がれ、ゆったりと草を食んでいる。
繋いでいたジークの手をほどき、私を乗せて駆けてくれた優秀な馬へと駆け寄った。
随分長い間待たせていたにも関わらず、馬は私が近付くのを見て、草を食べるのをやめると鼻面を押し付けてきた。甘えた仕草が可愛らしく、よしよしと鼻面を撫でてやる。
「ア“」
小グライフの短い鳴き声が背後から聞こえた。今日の小グライフは良く鳴く。
「ジーク」
「ん?」
振り返ってジークを見る。平然とした、いつも通りのジークだった。
「……ありがとう」
そう言う私に、ジークが少し片眉を上げた。意味がよく分かっていない時の仕草だ。
ふざけ合いが過ぎたって、ジークの気持ちが読めなくったって構わない。
ジークは王都で忙しく自分の義務を果たしている中で、私を思って翼を広げられる場所まで連れ出してくれた。
約束とも言えないような些細な言葉のやり取りを、きちんと覚えてくれていて、そして果たしてくれたのだ。
「嬉しかった」
昇り出した朝日が眩しかったのか、ジークが目を細める。
その細められた瞳の中に、今は私だけが映っている事に幸せを感じる。
「……馬を連れてきただけの、些細な事だ」
ジークの瞳はすぐに私からそられさた。それでも良い。
「気に入ったならまた言え。変な遠慮はするなよ」
馬の手綱を手繰り寄せながら、何てことのないように言う。そんなジークの優しさを私はもう知っているのだ。
「うん。また、連れてきてくれ」
一人でも来ようと思えばもう来れるのに、そんな甘えたことを言ってしまうのはジークが甘やかすようなことを言うから悪い。
戦いが終わってから、ジークが変に甘くなったのが悪いのだ。
例えそれが私への罪悪感からきた態度だったとしても、彼の優しさを今は甘受したい。
馬の頭を再度ひと撫でしてから跨ろうとした時、小グライフが私の肩へと飛び移ってきた。
「小グライフは今日で随分私に懐いてくれたんだな。競争した時に脚で私の手を取ろうとしただろ?随分怒らせてしまったと思ったけれど、許してくれて良かったよ」
今は羽を撫でる事も許してくれる。気持ちよさそうに目をつぶっているのが可愛らしい。
「あれは怒ったんじゃない」
「え?」
ジークが慣れた動きで馬に跨りながらそう言った。
「あの競争に負けた時、小グライフはあんたに惚れたんだ。小グライフの種類の猛禽類は、求愛に空中で相手の脚を絡ませあう。あんたはあの時、小グライフに求愛されてたんだよ」




