挿話 夢の話—天使のいざない①—
「行くな」
ジークに掴まれた腕を、どうやって外したのか覚えていない。
あの男が行かせまいと掴んだのだ。それなりの力が入っていた事だろう。
けれど力強さも痛みも何も感じずに、私はただ心の声に従って歩みを進めた。
心の声——、それは私に呼びかける第三者の声だ。
天使の心に呼びかける者。それが出来るのは天使自身に他ならない。
地上では、呼ばれるはずのない呼びかけだった。
地上に私以外の天使はいないと思っていたが、それは違ったのだ。
天使は仲間の声を無視する事ができない。天使は呼び合う。それは希少種である天使の強い本能だ。
私はもう1人の地上の天使に会わなければならない。
最初に耳に入ったのは闇市の話だった。
魔王の魔手が広がり、戦火が撒き散らされた人の世だ。裏取引が増える事はある種仕方のない事ともいえる。
いちいち眉を潜めていては、旅する事もままならない。
けれど私は足を止めてしまった。
闇市の中で天使が売買されている噂を聞いたのだ。
その頃、私たちは魔王の幹部を追い詰めていた。奴が傷を癒す前に、私たちは奴の隠れ蓑を探り当て、徹底的に叩かなければならなかった。
噂などに惑わされ、足を止めている場合ではない。
けれど私には、それが噂でない事が分かる。
なぜなら、密かに闇市が開かれているという噂の街に近付けば近付く程、心の声が大きくなるのだ。
仲間を求め、助けを叫ぶ天使の声が。
「シルヴィオスが話しておった天使は、もう闇市にはおらんようじゃ」
独自に闇市を調査してくれていたルーを、信じなかった訳ではない。
けれど仲間(天使)の呼び声は、今では私の精神を飲み込みそうな程、大きく響くようになっていた。
しかし一方で、幹部を倒す絶好のチャンスを逃せない。微かに残った理性がそう叫ぶ。
呼び声に抗いながら、私は喘ぐように言った。
「先に幹部を叩こう。奴はそう遠い場所には逃げていないはずだ。擬態が得意な奴の事だから、むしろ人に擬態して、この街に止まっているかもしれない」
マーカスが不安げにこちらを見ているのが分かった。分かっているのに応える事ができなかった。
呼びかけてくる声は悲痛で、その声を無視するのに必死だったからだ。
「人に擬態して紛れているのは俺も考えていた」
言葉を続けられなくなった私にかわり、ジークが引き継いで続けた。
「だが、この人の多い街で長く擬態し続ける事は不可能だろう。血を好むアイツにとっては、極限の飢餓状態で鼻先に肉をぶら下げられてるに等しいからな」
「何だよ。えらく落ち着いた物言いだな。擬態先に心当たりでもあるのか?」
今回の件で一番激怒していたジークが、思いのほか落ち着いている。ランディスも気付いたようだった。
「噂だ」
「うわさぁ? なんだよジークまで噂って。何も目新しい噂なんかないだろ?」
それなりに大きい街には大小様々な噂で溢れている。だがいくら新しい噂が絶えないとはいえ、数日単位で増えるようなものでもない。
「スプラッタな噂話なんて聞いてもないし、そもそも——」
ハタと、ランディスが言葉を止めた。
ジークが悪い顔でニヤリと笑いかける。
「あるだろ。一つ」
「なるほど。そういえば奴を追い詰める前からそんな噂があったな」
「ええ? 何よ。前からある噂なんて意味ないでしょ?」
アーニャが混乱した顔で声を上げる。
ランディスはここぞとばかり、嬉しそうな顔をしてアーニャを見た。
「ん? 分からない? そっかそっか、お嬢ちゃんには分からないよなぁ〜」
いつも年下の少女にいいように言い負かされている為、イニシアチブを取れる事が嬉しくてたまらないのだろう。
子供のように得意げになってみせるランディスに、鼻の頭にしわを寄せ心底嫌そうな顔でアーニャが唸る。
「しょうもない器のちっさな小僧みたいな真似してないで、さっさと話しなさいよ」
「んなっ……!」
想像以上に辛辣な刃に絶句するランディスに、ルーが呆れたように緩く首を振る。
夜間は1人で出歩かない方が良い。街から出る時は護衛をつけろ。貴重品の持ち運びには気をつけなくてはならない。
この街で様々に聞く噂の一つだ。
「つまり?」
マーカスの問いに、ジークは肩をすくめた。アーニャによってハートに傷を負ったランディスに回答を譲ったのだろう。
ふられたランディスはわざとらしく目尻の涙を拭う。アーニャを恨みがましいジト目で見ながら口を開く。
だがその口調はすでに、優秀な騎士たる男のものだった。
「つまりだ。木を隠すなら森の中。人を隠すなら人の中。血を隠すなら悪人の中」
「なるほど。噂の盗賊じゃな」
ルーの言葉にランディスはゆっくりと頷いた。
「そう言うこった。もう一度この噂話を探ってみようぜ。血生臭い話しが増えてるはずだ」




