霊の実在証明
「好奇心旺盛な青年のために、今日は一風変わったネタを用意しておいた」
そう言って、修士2年の梶原七緖先輩は、積み上げられた小箱の山から新品のチョークを手に取った。
九鳥大学文系棟4階、社会心理学研究室。
難しそうな文献が、壁一面にズラリと並ぶこの部屋は、人環随一の才女と称される七緖先輩の実質的な居城だ。院生ルームが好きじゃないという彼女は、連日連夜この部屋に居座り続け、公共のスペースを半ば私物化するまでに至った。
七緖先輩のトレードマークは、腰まで伸びた長くて艶やかな黒髪。スラッとした背丈。白のシャツにグレーのジーンズと、男みたいなカッコいい服を着てるから、姿を見ればすぐにそれと分かる。
僕が研究室を訪ねると、彼女はいつも自分の専門分野について、ささやかな雑学だとか最新の研究動向だとか、瞳をキラキラさせながら語ってくれる。本人は自覚してないけど、自分に正直な人なのだ。でもって僕はその時間が大好きだ。面白い話を聞くために、そして半分くらいは、先輩に会いたいという邪な目的のために、僕はしょっちゅうこの部屋を訪れている。
「青年、君は『千里眼事件』を知っているか?」
七緖先輩が黒板に文字を書き付ける。なんだか面白そうな言葉が出てきた。椅子に座って、本格的に話を聞く体勢に入る。
「千里眼……ですか? 遠くを見たり、物を透視したりする、あの?」
「その千里眼だ。具体的には、透視、物体の捜索、遠見、及び近い未来の予言、などだね。創作のネタにしやすいからか、漫画やらアニメやらによく登場する」
「しますね……でも、それが心理学と関係あるんですか?」
「大ありなんだよ。今でこそ、千里眼は迷信としてカテゴライズされているがね。かつてはその実在が本格的に議論され、研究された時代があったのだ。今日はその話をしようと思う」
ポットに水を入れ、スイッチを付ける七緖先輩。彼女が自前で用意したものだ。来客に対しては必ず一杯振る舞うことにしている彼女に、僕は紅茶の美味しさを教えて貰った。
「『千里眼事件』の始まりは、明治42年のことだ。私たちが今いる福岡の南、熊本の宇土郡に、御船千鶴子という女が現れた」
「あ、その名前聞いたことありますよ! オカルト雑誌に載ってました」
「ほう、どのように書かれていたのかな」
「えっと確か……一時は透視で世の中を湧かせたけど、最後には自殺した悲運の超能力者、って感じに紹介されてたと思います。福来? とかいう心理学者さんと、一緒に実験をしたとか」
つい昨日……あれ、この間だったかな。それとも1週間前だっけ? よく覚えてないけど、最近読んだ雑誌の筈だ。妙に朧気な記憶を辿りながら答えると、七緖先輩が「くっくっく……」と喉を震わせて笑った。
「オカルト雑誌という時点で、その扱いは推して知るべしだね。とはいえ突拍子もない嘘は書いていないようだ。君が口にした、福来という人間。彼は明治日本の心理学者で、『千里眼事件』の鍵となる男なんだ」
『御船千鶴子』『福来友吉』と、2つの名前を先輩が黒板に書き留める。更にその間に白い線が引かれた。2人の繋がりを意味しているのだろう。
「当時、日本では催眠術が流行っていた。民間における流行ではあったが、それでも新聞には特集欄が組まれるほどで、学者たちもその動向を注視していたんだ。御船千鶴子が現れたのは、そんなタイミングだった」
「……そんなの、注目されるに決まってますよね」
「ああ。現に注目された。御船千鶴子の実験には、福来を初めとする心理学者だけでなく、物理、医学、宗教、哲学……実に様々な分野のエキスパートが参加したんだ。学問の専門化が進んだ昨今の世の中では、なかなか見ることの出来ない光景だろうね」
「実験、って言いましたけど、具体的にはどんなことをしたんですか?」
「錫の箱に名刺を入れて封印し、その文字を当てる透視の実験や、箱に入った写真看板に指定された文字を焼き付ける念写の実験などが行われたそうだよ。他にも色々使ったらしいが、主にこの2つだ」
なるほど。でも、それって……。
「超能力っていうより……手品っぽい気がします」
「その疑いは捨てきれないし、現に実験は厳密な物ではなかったよ。それが後々、問題になってくるんだ」
丁度そこで、お湯が沸いた。「おや」と呟いた七緖先輩が、棚から二人分のカップを取り出す。ティーパックを入れ、お湯を注げば、ティータイムの準備は完成だ。
「手伝います」
「いいよ。今日はそこに座ってなさい」
立ち上がろうとした僕を手で制して、七緖先輩がカップを置く。次いで、投げて寄越される茶菓子。ハッピーターン。紅茶に合うかは若干の疑問が残るが、七緖先輩は絶対に合うと主張している。
「……さて、紅茶を飲みつつ続きといこうか。御船千鶴子の実験は、完璧なものではなかったが、それでもある程度の成功を収めた。新たな『千里眼』能力者、長尾郁子の登場も重なって、千里眼肯定派は勢いを増していった。だがここで……ある『事件』が起きたんだ」
七緖先輩が顔の前で尖塔形に手を組んだ。辺りに独特の緊張感が漂う。
先輩は最初、千里眼『事件』という言葉を使っていた。千里眼『実験』じゃなかった。ということは……ここからが話の本番だ。
「明治44年のことだ。物理学者の山川健次郎が、長尾郁子に対して行う予定だった念写実験用の道具が、彼のカバンから忽然と消え失せた」
「え……事前に入れ忘れたとかではなくて?」
「ああ、実際は助手が入れ忘れたらしい」
なんだ。怪奇現象かと思ったら、ただのヒューマンエラーじゃないか。拍子抜けだ。
「興味深いのはだね、実験道具を入れ忘れた助手は、とある新聞社の特派員で、しかもその新聞は当初から千里眼否定の立場で報道していたということだ。真相はどうあれ、スキャンダルじみたものを感じないか?」
「……たしかに、勘ぐろうと思えばいくらでも勘ぐれますよね」
実験を妨害したくて、わざと忘れたんじゃないか、とか。考えていけばキリが無い。
「これで終わりでは無いよ。更に数日後、もう1つ事件が起きた。心理学者の福来が用意した道具が、実験当日に何者かの手によって盗まれてしまったんだ」
「てことは、前と違って本当の刑事事件ですね」
「実際に警察に届け出たそうだからね。幸いにも、盗まれた道具は無事に発見された。その道具――写真フィルムが入ったダンボールの筒なのだがね、中には1枚の紙切れが入っていたそうだ。そこにはこのように書かれていた」
七緖先輩が、すうっと息を吸い込む。
「“カクレテイタスト、イノチハモラッタゾ”」
隠れて致すと、命は貰ったぞ。
意味を考えるまでも無い、明らかな脅迫の言葉だ。
「くっくっく……実に興味深いだろう? 犯人は誰なのか、どのような目的で犯罪に及んだのかは、今に至るまで明らかになっていない。だがね、ただでさえ実験の厳密性を問われていた『千里眼実験』にとって、この2つの事件はあまりにも致命的すぎた。御船千鶴子や長尾郁子が有するとされた『千里眼』は、実在の可否を学問的に判断されることのないまま、スキャンダルの次元に貶められてしまったんだ。……ここまでオッケー?」
「はい、オッケーです」
先輩の話が早いのはいつものこと。言ってることを理解するのにも、もう慣れっこだ。
「事件後、千里眼肯定派の論調は急速に勢いを失っていった。元より向けられてきた疑問の眼差しが、いよいよ拭いきれなくなったのだね。それでも福来はじめ多くの人間が千里眼の実在を示そうとしたが、もはや形成は決まっていた。千里眼を嘘だと、迷信だとする社会の流れが、既に出来上がってしまったのだ」
「……その流れが今も続いている、と。歴史にifは無いって言いますけど、もしも千里眼が科学的に証明されていたら、大学に超能力研究室なんてものがあったかもしれないんですね」
「そういうことだ。まあ、私は千里眼などトリックだと思うがね」
うん。僕も同感だ。
透視とか予言とかサイコキネシスとか、あったら良いなって思うことは、僕だってある。だけどそれは、裏を返せば、現実には無いって意味だ。
一昔前の心霊ブームもそう。心霊写真とか、ポルターガイストとか、金縛りとか。確かに怖いんだけど、科学的に説明出来ないことはほとんど無い。
あるいは僕の思考回路も、科学万歳の世の中だから培われたものなんだろうか?
「かくして、心霊学、催眠術、変態心理学と名を変えて続いてきた『精神』へのアプローチは、学問の表舞台から姿を消すこととなった。彼らが目指した『霊の実在証明』は、ここに偽であるとされたわけだ。なおも研究を続けようとした者たちは、嘘つきだ、ペテン師だと罵られ、日の当たる場所から追放されていった……賢い私にしてみれば、大人はみんな嘘つきなのだがね」
「……あなたもいい大人でしょうに」
「私は嘘を吐かないよ?」
「それ自体が嘘という可能性もありますよね?」
「君はなんと理屈っぽい男なんだ。女の子にモテないぞ?」
「余計なお世話です!」
好き勝手言ってくれる。人の気持ちも知らないで……。
声にならない声でぶつくさと文句を言いつつ、僕は先輩が淹れてくれた紅茶を啜る。
いつもより香りが薄かった。何故だろう? ちゃんと3分待ったんだけど。これじゃ紅茶というより、ただのお湯だ。
「ところで青年」
茶葉の色はちゃんと出てるよなと、カップの中身を覗き込んでいると、七緖先輩がカップを片手に、僕の真向かいにやってきた。
綺麗な瞳。こうして正面から見詰められると、僕はいつもドギマギする。慣れる日は来るんだろうか。
「……七緖先輩?」
「――どうして私はこんな話をしたと思う?」
「へ? どういう意味ですか?」
問い返すと、先輩はどこか憂いを帯びた表情で、紅茶を一口啜った。
「私の専門は?」
「社会心理学……ですよね?」
「そうだ。千里眼を研究する超心理学じゃない。もちろん学術史でもない。君に話したことだって、友人から聞きかじった程度の豆知識に過ぎないんだ」
そこまで言われて、僕はハッとなった。
「千里眼事件……たしかに面白いテーマですけど、先輩がいつも話してることとは、毛色が違い過ぎます」
「そうだね。私の研究は集団の中におけるストレスを対象としている。これまで君に教えたことも、そこに関係する内容だ。むしろそれしか話せない」
「じゃあ、どうして今日は千里眼なんて」
「……理由が知りたいか?」
「七緖先輩が訊いてきたんじゃないですか」
そう言うと、彼女は何故か覚悟を決めたような顔になって、
「君は気付いていないようだがね、今まさにこの瞬間に、霊の実在が証明されたのだよ」
――え?
「なに、言ってるんですか? 意味が分かりませんよ。ちゃんと説明してください」
「……どうしてこうなったんだ」
「七緖先輩!」
溜息を吐く先輩の姿に、奇妙な、けれど何かがズレているような不安感を覚えて、僕は彼女を問い質す。
七緖先輩はしばし口を閉ざした後、おもむろに腕を持ち上げて、艶やかな指で僕の眉間を指し示した。
「まだ分からないのか?」
「何がですか」
「いいかよく聞け。君はもう死んでいるんだよ。3日前、軽自動車とトラックの衝突事故に運悪く巻き込まれたんだ」
それを聞いた瞬間、僕の頭に刺すような痛みが走った。
「……嘘、ですよね? 僕が死んでる……? そんな、そんなわけないですよ! だって僕は、今ここにっ……!」
「嘘ではない! むしろ嘘であればどれほど良かったか!」
抑えきれなくなったかのように先輩が声を荒げた。
「私は君の通夜に行った。葬式にも行った。献花も、坊主の読経も、泣き喚く君の家族の姿も! 運び出される棺桶も! その時感じた喪失感も! 全て明確に記憶しているんだ! 己がまだ死んでないと言うのなら、君は今日どうやってここに来たか答えてみたまえ!」
「っ、そんなの! いつも通りに家から――」
家から……どうやって来たんだ? 徒歩? 自転車? バス? 大学についてから研究室まではどうした? 階段を上った? エレベーターを使った? ついさっきのことじゃないか、どうして覚えてないんだ?
「分からないだろう? 当然だ。君は今から10数分前、突如として部屋の中に現れたんだ。いつも通りの何食わぬ顔でね。さすがに目を疑ったよ」
感情を押し殺した声で先輩が告げる。恐怖に駆られて思わず手を伸ばした。けれどそれは、先輩の身体に触れることなく、彼女をすり抜け虚しくも空を掻く。
「嘘だと……言ってください」
「無理だな。私は嘘を吐かない」
いつからだろうか、僕の手は透明になっていた。手だけじゃない。足も、身体もそう。段々と薄くなっていく。床が透けて見える。”僕”が消えていく。
ああ……僕、死ぬんだな。
「……どうして、君はここに来た?」
七緖先輩が問うた。
「私に恨みでもあったのか?」
違う。絶対に違う。僕が先輩を恨むわけない。だって僕は、あなたを――。
そこまで思って、僕はようやく、自分の未練を自覚した。
「……大好きです、七緖先輩。それだけあなたに伝えたかった」
「そうか。私は君が嫌いだがね」
素っ気ない声で、先輩が言った。
「……嘘ですよね」
「本当だ。大嫌いだよ。話してるだけで反吐が出る」
「嘘です。嘘! 嘘! 嘘! 絶対に嘘です! 僕のことが嫌いなら、先輩はどうして――」
どうして、泣いてるんですか。
「これは、あれだ。喜びの涙だ。研究の邪魔者が消えて、清々してるのさ」
「……大人はみんな嘘つきですね」
「そうだ。だが私は嘘を吐かない。心から君を嫌悪しているよ。だから、ほら。君も早く逝くんだ。死んだ者がこの世に残ってはいけない」
頬を伝う涙を手の甲で拭って、七緖先輩が笑った。『花の咲いたような』という枕詞が、これ以上に似合う笑顔を僕は知らない。
意識が薄れていく。叶うなら、もっと彼女と一緒にいたい。だけどもう時間切れだ。
せめて最後にあと一言。別れの挨拶だけでも。
「……ありがとう、先輩。さようなら」
「ああ。縁があればまた会おう。幽霊がいるんだ。生まれ変わりだって、きっとあるだろうからな」
「……それ、本当ですか? それとも僕を見送るための嘘?」
「さあな」
ひょいと肩を竦めてから、言葉足らずだと感じたのか、先輩はこう付け加えた。
「ま、嘘であって欲しくはないな」