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我が闘争 Mein Kampf

作者: 鈴木美脳

 アスペルガーは、疎外し、虐げ、いじめるべきものである。そうしなければ、アスペルガーの者達によってアスペルガーではない者達が、疎外され、虐げられ、いじめ殺される。

 ここで、アスペルガーとは、他者の感情や苦楽を感覚する知的能力の少なさのことであり、すなわち、自己中心的に思考し動作する者のことである。

 人類はかつて、利己的な存在から、血縁選択説による種の保存を目的に生きる存在へと進歩してきた。命や権力よりも愛や正義こそを美徳に数え、愛すべき者達のために自らを損なうことに誇りと矜持とを感じてきた。しかしその意味での人類の進歩は、とうの昔に、劇的な退歩へと転じている。

 その意味で、人類の歴史は、文明としてのピークを過ぎている。そうであるのに、技術的な発展に幻惑されて、退歩は自覚されることがない。技術的な発展を口実にして、愚かなる人々が知恵ある人々を淘汰してきた歴史が認知されることがない。

 技術すなわち資本が、自らのための道具として人間達を使役するためには、個人的な損得で操作できるアスペルガーであったほうが便利である。しかし、劇的に発展し力を増加していく技術すなわち資本に対して、人間達が人間達の幸福を保つためには、隣人を愛する正義感こそが盾であって、人々がアスペルガーへと淘汰され堕落していくことは、第一義的な損失だと言える。

 もしも人格に良心がなければ、どんな能力も財産もその悪徳をキャンセルしない。もしも人格に良心があれば、能力や財産のどんな不在もその美徳をキャンセルしない。人間達が幸福を望むなら物事のそんな本質を理解すべきであり、永劫のときを経て形成された良い遺伝子らを、今のように急速に淘汰していくべきではない。

 よって、アスペルガーへの誹謗を禁忌と見なすことは悪徳であり、損や死を恐れて、自尊心のための大衆の利己心と暴力性に媚びて言葉を曲げるならば、矜持に背く。


 人類には、二種類ある。倫理的な矜持を備えている人種と、そうでない人種とである。

 倫理的な矜持を備えている人種は言わば、人類の文明を築いてきた、古代の王家の人種である。しかし彼ら彼女らは今や奴隷として売られ、血統として完全に滅びつつある。矜持をいだいたこともない豚共の眼前のわずかな安寧のために、消費されつつある。

 アスペルガーは、人類のためには、癌のようなものだ。アスペルガーである事実が存在しないかのような、アスペルガーである事実が罪ではないかのような、自己中心的な詭弁のロジックは、利己的に生きるために、資本主義の走狗であるために都合がよく、かつて素朴で純良であった庶民を自己中心的なアスペルガーへと作り変えてきた。

 曰く、自由、平等、博愛、平和、個性、人権、能力主義、民主主義。それら欺瞞に満ちた概念に基づく偽りの正当化によって、人々が行う議論からは、心のこもった正義が消えた。その状況を改善するためには、それら、無謬の正義とされる概念を否定することが欠かせない。

 自由主義は悪徳である。平等主義は悪徳である。博愛主義は悪徳である。平和主義は悪徳である。個性主義は悪徳である。人権主義は悪徳である。能力主義は悪徳である。民主主義は悪徳である。これらは、人の心の原理を深く知る少数の人々にとって自明なことだが、丁寧に説明されておく必要のあることでもある。

 それらの価値の尺度を悪徳として、ではどんな価値の尺度に優越する価値があるのかといえば、他者の苦楽を大切に思いやる優しく愛情深い性格、つまり良心を備えた人格を価値とする人格主義がその答えである。そして人格の本質は、教育よりも遺伝子に求めざるをえず、それゆえに、善良な遺伝子を淘汰して損失することこそ戒めるべきだと結論せざるをえない。

 その意味で、人類の文明の歴史とは、アスペルガーとの戦争にほかならない。アスペルガーは、先天的な知的障害の一種だが、優れた学歴を持つ人々にも、高い地位にある上司や経営者達にも、あるいは官僚や政治家達にも、それは少なくない。なぜなら、資本が求めているのは、他者の幸せを思いやる知的能力ではないからである。なぜなら、技術が求めているのは、人間達の幸福ではないからである。



【1. 自由主義は悪徳である】


 自由主義は、悪徳である。なぜなら、自己中心的であることは悪いことだからである。

 なぜなら、各々の生活の幸福の基盤である社会は、空間的にも時間的にも、人と人とが互いを支え合うことによって成り立っている。どんな人の幸せも、顔も知らない、名前も知らない、数え切れない人々の優しさに支えられて存在している。

 そのことへの自覚の不足は、幼稚さでしかないし、愚かさでしかない。一方で、その自覚が充実していることは、人格主義という尺度によって尊重できる。

 人は、社会の一員として生まれ落ちるのであって、それゆえに必ず、社会的な責任を背負っている。よって、利己的に振る舞うことが際限なく正当化される個人は、誰一人としてありえない。


 アスペルガーが自由主義を正当化する論理は、こうである。すなわち、邪悪な権力による専制によって、人々の幸福が不当に搾取される可能性があると。だから自由は守らねばならないと。

 しかし、もし、権力が自らの利益のために人々の幸福に背いて人々を制約したなら、人類愛の矜持に欠けたその振る舞いを、人格主義の観点から否定できる。すなわちそれは、権力による不当な自由性の行使だと断罪できるのであり、人々の自由性への不当な制約だと非難できる。

 すなわち、自由とはいえ、正当な自由と不当な自由とがある。裏を返せば、制約とはいえ、正当な制約と不当な制約とがあるということである。

 子供を放任することで親としての責任を果たしたことにならないように、市民の自己判断に任せることで行政としての責任を果たしたことにはならない。本人と世間の幸せのために、正しく導き、成長を助ける必要がある。

 よって、正当な自由に限ることなく自由そのものを正当化しようとする振る舞いには、私的な利益を不当にでも拡大しようとする邪心が透けて見える。権力の不当な振る舞いを断罪するためには、人格主義で十分であって、自由という属性そのものを正当化する正当性はありえない。


 もしも、自分の肉体が、瞬時に何万もの人を殺せるほど強力になって、なおかつ、自らその力を制御できないほど凶暴になってしまったら、どうだろうか。自らの手足を縄で戒めてもらうことを望むかもしれないし、縄で戒めてもらって感謝すらするかもしれない。あるいは、愛する人々を苦しめることを恐れて、死すら望むかもしれない。

 自己中心的な利己心のみならず、人々の幸せを思う心がまともにあれば、それが普通である。

 よって、自由主義なるテーゼに真剣な愛好を寄せる者は、間違いなくアスペルガーである。



【2. 平等主義は悪徳である】


 平等主義は、悪徳である。なぜなら、自己中心的であることは悪いことだからである。

 人間は、平等ではない。個々人に備わったあらゆる属性の一つとして平等ではない。

 生まれた環境から受けた教育や、生きてきた環境によって、人格の自己中心的な程度には違いが生じる。さらには、生まれ持った性格によって、人格は大いに制約される。

 あるいは、社会に貢献できる能力についても、平等ではない。しかし突き詰めれば結局は、アスペルガーの遺伝子は能力に関わらず淘汰されるべきであり、善良な遺伝子を備えている者はそれを備えて存在しているだけでも、社会に貢献する価値でありうる。

 人間については、貴賤が認められるべきである。その貴賤は、人々の幸せを思いやる人格主義によって測られるべきである。そして、家族愛や種のための矜持において、獣や羽虫に劣る人間がいかに多いか、自覚されるべきである。


 アスペルガーが平等主義を正当化する論理は、こうである。すなわち、一部の権力を手にした人々が、それを手にしない人々の尊厳を軽視し幸福を盗み去ることは防がねばならないと。

 確かに、権力を手にした人々がそれを利己的に行使すれば、チームとしての人類は、外部からの損害に対して、脆弱にもなる。そこにおいて搾取される人々が味わう苦しみは、種の保存の原理から見ても不当だと言える。しかし、不平等性の不当性はそのようなものに限られる。そしてその不当性は、このような集団的な合理主義から言えるのであって、つまりは、人々の幸せを思いやる人格主義から十分に言える。

 つまり、平等性への不当な侵害は存在する。しかしながら、人格主義に基づく貴賤を否定する意味での、不平等性への不当な侵害もまた存在する。裏を返せば、不平等性への正当な侵害や、平等性への正当な侵害は存在する。

 よって、平等性そのものを正当化する正当性はありえない。


 得手不得手は、人によって異なる。よって、互いの長所を活かす分業によって生産性を高めることは、全体の幸福のために有意義である。そのため、わずかでも希少性のある財について、平等ならぬ分布があって問題ない。問題はその分布が、全体の幸福への配慮によって健全に制御されているかどうかにある。農家と大工に、材木と種子とを平等に配置しても意味はない。財産や権力も同じであって、権力の不平等な分布はときに必要なものだと言わねばならない。

 アスペルガーは、人類に混ざったエイリアンのようなものであって、人間のふりをしようと苦心する。自らが知的障害者であるという認知を拒絶し、自己中心的な者は劣位な尊厳で数えられるという価値観を否定することで、自分にもある能力によって、アスペルガーではない人々を見下して自尊心を過度にまで補う。

 すなわち、正当な不平等性まで否定することで利益を得る主体は、アスペルガーだけである。

 よって、平等主義なるテーゼに真剣な愛好を寄せる者は、間違いなくアスペルガーである。



【3. 博愛主義は悪徳である】


 博愛主義は、悪徳である。

 誰をも同じだけ愛することは、人々の幸福を望むためには合理的ではない。よって、その価値観は、自己愛に由来する詭弁でしかありえない。

 闘争することは物質的なエネルギーを消費するし、何かを否定することは精神的なエネルギーを消費する。よって、私的な損得に関わらないことについては、責任を負わずに肯定した方が気分が楽な場合がある。しかしその態度はもちろん、善良というより邪悪なものである。

 遠い者や、小さな者や弱い者、尊厳を軽視され蔑まれる者達に共感して思いやる態度は、人格主義の観点から見て優れている。しかし、現実問題としては、財の分配を決定しなければならない。犯罪者を牢獄に送らねばならない場合もある。ある生き物が生きていくためには、必ず他の生き物を殺さねばならない。ゆえに、生きている博愛主義者はありえない。

 愛は美徳である。しかしそこには上限がある。現実は、どこかでバランスさせねばならない。人類愛や生命愛とはいえ、宇宙的に巨視的に見たならエゴにすぎない。

 より多く愛すべきは、人格主義の観点から見て優れた子供達である。彼らや彼女らは、明日を担い、明日を支えていく。しかし個別の血統を超越したそんなモラルも、人類や生命という大きな血統としてのエゴにすぎないと知る謙虚さは必要である。


 一般に、否定しないほうが角が立たず、処世術として理に適っている。しかし実際には、否定すべきものを否定することは、肯定すべきものを肯定するのに劣らず大切である。アスペルガーは、他者のための責任感の本体がなく、処世術のためにモラルを演じているため、そのことがわからない。当たり障りなく生きる悪意に満ちた存在でありながら、自分は善意しかない清純な存在だと認知する。



【4. 平和主義は悪徳である】


 平和主義は、悪徳である。なぜなら、戦争は絶対悪ではないからである。

 戦争を絶対悪だと思わせようとする者は、自分ではそう思わずに相手だけ相対的に弱体化させようとしているか、武力的な取り引きよりも経済的な取り引きによって利益を得ようとしているかである。

 戦争は絶対悪ではない。なぜなら、暴力は絶対悪ではない。なぜなら、法律は絶対的な正義ではない。なぜなら、法律は人が書いたものであり、人は必ずしも倫理的ではない。法律や既存の社会体制は、末端の少数者の幸せに配慮して整備されているとは限らない。

 エンターテイメントの創作物でしばしば描かれるように、非現実的と言える状況すら仮定すれば、ときとして暴力が絶対悪ではなく正義たりうることは明らかだと言える。同様に、国家や民族や集団もまた、それが置かれた状況によっては、戦争行動を実施することが絶対悪だとは言えない。


 平和主義を言う人々は、無数の若者達の健康な肉体が人がこしらえた技術の力によってゴミのように引き裂かれていく苦しみに恐怖している。しかしそれは、自分自身にとって不都合な現実から目を背けて、個人的な安心の喜びを優先しているにすぎない。

 戦争や暴力がまったく行われずとも、法律が厳守されていて秩序が揺るぎなく保たれていたとしても、不当な格差や搾取とそれによって強いられる地獄のような苦しみは並存しうる。すなわち、既存の体制は邪悪の属性を含みうる。

 そのように、既存の世界や国家の体制に不正義があるとき、それに挑戦する手法としての暴力や犯罪を絶対悪として頭ごなしに否定することは、既得権益の側に恭順していることを示すにすぎない。権力の正義を問わず恭順したほうが楽だと決めこんだ不正義な人間性を露呈するにすぎない。

 人と人とは、言葉によってわかりあえるとは限らない。特に、私的な損得のために言葉や認知を捻じ曲げようとする人々を相手にする場合は、そうである。特に、アスペルガーである事実やその不当性を拒絶した認知で確信しているアスペルガーを相手にする場合は、そうである。愚者に理解しうるのは痛みと死だけであり、その血統を絶やす暴力だけだと知らねばならない。

 真に踏みにじられ、苦しめられた人々が、暴力や犯罪によって秩序に挑戦して滅んでいくのを、ただ蔑んで満足することは罪深い。人間がなす社会の秩序が備えている正義は、いつだって際どく摩擦しているのであって、それが軋む音の一つ一つに、立場の弱い人々の虐げられる悲鳴や涙に、よく耳を傾ける必要がある。

 正義が与えられるのを待つのではなく、自ら立ち上がる人々は、より尊いのだと考える必要がある。



【5. 個性主義は悪徳である】


 個性主義は、悪徳である。なぜなら、個性主義は人格主義ではないからである。

 人格主義、つまり人々の幸せを思いやる性格を備えることは、現代では珍しいとしても歴史的には珍しくないし、私的な個性を求めてたどり着ける境地ではない。

 近代における若者は、芸能人のファンになって、芸能人になることを目指しているかである。芸能人になることを目指さないとしても、それはその実力や環境がないとわきまえているだけであって、芸能人を尊んでいる。名誉と愛情の集まる中で、才能を備えた人が自由に生きているように見えるからである。

 そのような、個人としての識別性が、現代人が愛好する意味での個性の本質だろう。

 しかし、そのような価値は、外部から測られた価値である。

 外部から測られた価値は、そのときどきに所属する社会や集団の人々の傾向や程度によって変化する。例えば、アスペルガーが多くを占める集団にあったなら、他者の幸せを思いやる良心が測られて敬意を持たれることもない。

 一方で、他者の幸せを思いやったり他者の幸せに貢献する能力は、客観的な実在であって、外部から測られる価値ではない。そして、正義なるものは、ときとして、誰一人に理解されずとも行わねばならないことがあるとせねばならない。世のために死んでいった多くの先人は名誉によって報われることがなかったと考えて感謝せねばならない。



【6. 人権主義は悪徳である】


 人権主義は、悪徳である。なぜなら、自己中心的なエゴイズムを正義の定義にまで完成させた概念だからである。自己存在に対する前提なき肯定だからである。

 人権主義を言う人々は、市民の幸福が不当に盗まれるのを防ぐためだと言う。しかしそのための肯定や否定は、人格主義による正義や不正義をもって言えるのであるから、人権主義の正当化に正当性はありえない。

 人権とは、人間個人の基本的で普遍的な権利を意味するが、人間についての権利とは、人が恣意的に定めたものでしかありえない。それを歴史的に、天が付与した、すなわち、前提なく言えるとすら言ったところに、その利己的な不当性は明らかである。宇宙を主催する神なるものが存在したとして、人が豚や牛を食べる権利を、宇宙の塵埃の一つたる人類に特に付与するなど、ありえない。豚や牛が人を食べる権利も同じだけありそうなものである。この意味で、法理において自然権に帰属するすべては、普遍性を明らかに否定される。

 ならば、人権にありうる正当性は、人が定めた基準としてのみありうることになる。

 しかし、人間について基本的で普遍的な権利を定めることができるだろうか。現実には、犯罪者の権利は大幅に制約されている事実からも、人権の普遍性は事実上は空文だと言える。犯罪者についても人権は否定されないが、それは、法律に基づいて犯罪者が扱われると言っている以上ではない。そして、法律は絶対的な正義ではないし、法律に基づいて犯罪者を扱うべきことは人権という概念を経ずとも言える。


 ともあれ、人権は、行政や企業が原則として侵害してはならない個人の領域を定めている。

 しかしその発想の前提として、個人の幸福は原則として本人の努力によって守られるべきものだとされていて、ひいては、個人は利己的に振る舞うものだとされている。その発想は、利己的に振る舞うものとしての個人を手放しに許していて、企業や行政が利己的に振る舞うことすら許している。利己的に振る舞う成員を法律によって統制すれば足りるというのが、近代の法理である。

 そのため、人権という概念を持ち出すほとんどの議論は、自分の内側から社会を眺めていて、つまりエゴイズムに満ちており、すべての人々の幸せに丁寧に配慮するバランス感覚を欠いている。

 では逆に、個人が社会に対して背負うべき責任を法律に記載すればよいのかといえば、法律もまた人が書くものである以上は、そうではない。不特定多数の他者の幸福に対する思いは、内発的なものであってこそ力や価値を備えていることになる。そしてその価値こそが、人類が人類のために死守すべき第一義的な財だということになる。

 人権という盾は、その財を守るためには、逆を向いている。それが守るのは、利己的な存在としての個人である。

 よって、そんな欺瞞的な概念によって利益を得るのはアスペルガーだけであり、人権主義なるテーゼに真剣な愛好を寄せる者は、間違いなくアスペルガーである。



【7. 能力主義は悪徳である】


 能力主義は、悪徳である。なぜなら、人格主義を無視した偽りの自尊心に人を溺れさせてしまうからである。

 すべてのアスペルガーにとって、能力主義は光明であり、唯一の救済である。なぜなら、自分にも備わった能力によって人の価値を測ることで、自分よりも他者を見下せるからである。あるいはまた、能力によって築いた地位や財産や名声によって人を測り、他者を見下すこともできる。

 しかし、そのようにゆがんだ認知によって他者の尊厳を矮小化することは、本質的な暴力性である。なぜなら、尊厳を否定された人々が味わう苦しみはどこまでも正当化されるからである。

 人類の人類のための本質的な能力は、遺伝子に備わった種の保存の本能にほかならず、良心つまり人格にほかならない。そしてそれを尊ぶためには、人格主義があれば足りる。

 そのため、能力主義や実力主義が言われるとき、その目的は、そこで言う能力や実力を備えない他者を否定することであり、そんな他者の尊厳を否定して自己の利益を拡大することである。私的利益のためのそのような詭弁は、人格主義からむしろ遠ざかるものであるから、大局的に見れば、人類の幸福に逆方向に作用する。



【8. 民主主義は悪徳である】


 民主主義は悪徳である。なぜなら、より民主的であることが正義を約束することなどありえないからである。

 民主主義は、必ず、資本主義が言う詭弁でしかありえないし、人間社会を市場原理へ収束させることは、技術発展そのものが求めるところでしかありえない。

 グローバルな市場原理は、諸国に民主主義を要求してくる。その誘い文句としてしばしば、経済発展によって暮らしが楽になると言う。しかし、人類に備わった良心が減少するなら、どんな経済発展も結局は割に合わない。そんな経済発展がもたらす安寧や利益は、空間的にも時間的にも局所的な最適化でしかありえず、むしろ広域的ないし長期的なデメリットこそを約束する。

 人類を、個人的に利己的な労働者に帰着させることは、人類ではなく技術の要求である。

 社会体制について、民主主義でなければ民主主義であるよりいい、とは言えないが、民主主義であれば民主主義でないよりいい、ということも同じだけ言えない。


 生命は、利己的である。すなわち、最適化の鬼である。

 一見、無駄な振る舞いが多いように見えるが、多くは理に適っている。本当に無駄だと思ったり、危険だと思ったことは、一切やらない。

 ゆえに、万能な個人や集団がありえない一方で、どの脳の知力も大いに有用である。世界や国の政策判断について、心の底からどうでもいいと思っている者はいない。そのため、社会の明日を考えるためには、すべての人の常識的な感覚がどれも貢献することが求められている。

 その意味で、すべての人を巻きこんだ議論や、マスメディアなどの情報の流通、普通選挙や民主主義は、優れたメリットを備えている。

 しかし、資本や権力の分布は、企業や政府に集中していて平等ではないから、情報は常に捻じ曲げられる。民主主義は、捻じ曲げられる。

 しかし、その捻じ曲げ方には、パターンがある。なぜなら、技術や資本は、人々を自らの走狗にするためには、結局は人々をアスペルガーへと堕落させ淘汰していかねばならず、アスペルガーという癌を普及させるためのロジックや概念には際立った定石があるからである。

 民主主義という価値に浮かれることも、民主主義の捻じ曲げの一つである。


 利己的で恥知らずな者としての大衆性が手放しに肯定されるべきではない。

 すなわち、人間が世俗的であることが手放しに肯定されるべきではない。

 自らが浴している他者の優しさに感謝や尊敬の感情を心の底で持つことがない自己中心性が、アスペルガーを区別し、個人を超越してでも献身しうるような感謝や尊敬の感情が、アスペルガーからそうでない者を区別する。

 民主主義思想の一面の作用は、世俗的な大衆性を、誹謗を許さない絶対的な正義にまで押し上げることにある。しかし、それは否定される。利己的な大衆性を、ゴキブリを見るのと等しく蔑みうる矜持に、人の種としての生存は依存している。

 ゆえに、民主主義なる価値の尺度で、社会体制の成功の程度を測ることはできない。集団の意思決定について、民主的であるほど総員にとって合理的だと言えるほどには、人々の人格主義的な知的素質は平等ではない。人の上に立つ人々について、人格主義を根本にして適切に選抜し訓練する努力をしなければ、国も企業も腐っていく。



【まとめ】


 良い国家とは何か。

 立場の弱い人々に尊厳と思いやりとが届いている国家である。

 経済や医療はその結果ではありえても、それが経済や医療によって測られてはならない。他人を愛する思いやりは、内発的で精神的なものでしかありえず、なおかつそこに本質的な価値がある。


 人類は進歩してきたか。

 それもまた、物質を基準に測られてはならない。物事は、利己心にゆがめられず、本質を見て測る必要がある。そして実際、人間の良心や矜持は、退歩もしてきた。


 退歩の根本とは何か。

 物事の価値を認知する価値観の退歩である。

 人類の幸福のためには、種の保存のための人格主義こそが、価値観の王である。

 今や王座は空席となり、偽りの価値観が世に繁茂して、民主主義なる偽りの王が王座に座ろうとしている。

 偽りの王が支配する国家は、良い国家ではありえない。

 偽りの大臣達と、偽りの王。すなわち、自由、平等、博愛、平和、個性、人権、能力主義、民主主義。

 エゴイズムのためだけの価値によって、ゆがんだ価値を確信したアスペルガー達が、人の心を持った子供達を殺戮していく。


 人類の文明の歴史とは、アスペルガーとの戦争にほかならない。

 なぜなら、技術が求めているのは、人間達の幸福ではないからである。

 滅ぼされてきた国と民族は数多、非道を行ったがゆえに滅びたのだと今に伝わる。

 かくも逆境に置かれて勝利するには、人々は奇跡を起こす以外にないだろう。

 誰にとっても、戦いは古来、まず個人において背負うべきものである。

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