「ねぇ先輩、『かわいい』だけじゃダメですか?」
○この作品は、以前投稿していた『先輩と後輩』という短編シリーズをまとめて、最終編を追加したものです。
○設定や会話文が少し変わっているので、前作2つを読んでくださった方も最初から読んでいただけると嬉しいです。
私は、目の前で呆然としたままの先輩に対して口を開いた。
「まだ先輩の目に映らないなら、どう足掻いても目に入るようにしてみせます。世界で一番目立ってみせますッ!」
「…………」
「……お姉ちゃんなんか塗り替えて、私しか思い出せないようにします。どこにいたって目に入るようにしてやります。だから、死んでも忘れさせてなんてあげませんからッ……!!」
この恋はきっと、少女漫画みたいに綺麗じゃない。でも現実ってそういうものでしょ?
苦しくて恋しくて痛くて、奪ってでも欲しいの。先輩のことを、誰にも渡したくない。
私は、キスをした時に歯がぶつかって切れた唇から漏れた血を、ペロリと舐めとった。
────私のそばにいてくれないなら、誰とも幸せにならないで。
最近、よく話すようになった人がいる。
「せーんぱい。今日もやっぱりここにいたぁ〜」
先輩。2個上。高校3年生。いつも屋上でお弁当を食べているのに肌が真っ白なのは、普段からインドア派だからだと思う。
「最近の天気、めちゃよくないですか? 快晴すぎ! こんだけ晴れてると日焼け止めの意味無さそうで萎えます〜」
血液型はB型。血液型と人柄は関係ないというけれど、少し天然。読書家。なのに部活は写真部。えーと、あとは……あ。勿論、彼女なし。
「……うるさいな。何なの、お前。最近毎日来てるけどさ。あ、もしかして暇なの?」
「はぁ〜!? 暇なわけないんですけど?? 年中暇人で予定ガラ空きな先輩と一緒にしないでくれません!?」
私は、さも心外だと訴えるように頬を膨らませて先輩を見下ろした。
「もう自分で言いますけど、私ってばモテるんですよ。街を歩けば10人中10人は振り返る美少女JKというやつなんですよっ!」
「……はぁ」
「そんな人気者の桃ちゃんとご飯食べれるって、先輩ってば世界1の幸せ者ーッ! ひゅー!!」
「黙れ、還れ」
「あれ、なんか漢字おかしくないですか? 桃、悲しいです。泣いちゃいそう〜。これは慰謝料として先輩の焼きそばパンをですね、一口貰う権利があると思うんですよ」
「いやいやいや、人気者の桃さまに食べかけなんて渡せないわ〜。食べたいなら今から購買行って買ってこいよ」
「いえいえ、そんな。私、優しいので、今日のところは先輩の食べかけで我慢しといてあげます」
そう言って、私は当然のように先輩の隣に座って微笑みかける。それでも先輩はこちらをチラリとも見ないで黙々と中庭を眺めていた。
あぁ。心地良い。私に対して少しも温度のない声も、その態度も、何もかもが過ごしやすい。息がしやすい。
このまま先輩が、一生私の方を向かなければいいのに。
そんな心の声が聞こえたのか聞こえなかったのか分からないが、先輩はようやく中庭から目を逸らして私の方を向く。
少し長めの前髪から覗く目が、真っ直ぐ私を捕らえた。私はこの眼が好きだった。私を映しても、意味を宿すことない眼が好きだった。
そして先輩は、ガサゴソと鞄を漁って何かを私に差し出してくる。
「……あの、これで勘弁してください」
キャラメルだった。
「俺の、受験生の疲れた頭に糖分を与えてくれる大事な大事なおやつだけど…………主食を渡すよりは!!!」
「…………なんですか、その口調。別にいらないですよ」
「は、なんでだよ!? 慰謝料ってお前が言ったんだからだな!?」
「いやだって、そんな……」
そんなつもりは無かったんだもん。ただ久しぶりに、家族以外の人と冗談みたいな会話が出来たことが楽しかっただけだったから。
────ダメだ。こんな様子は、私らしくない。
「……えへへ、先輩がそこまで言うなら貰ってあげます」
「…………なんかおかしくないか!?」
「おかしくないですよ。キャラメルの方も先輩に食べられるより、美少女な私に食べられた方が本望のはずです」
「くっ……それを言われると何故か否定が出来ない……」
私は、文句を言いながら焼きそばパンをかじっている先輩から貰ったキャラメルを口に放り込んで、屋上に吹く心地良い風を感じた。夏だった。紫外線が1番張り切り出す季節だった。
そんな、日焼けを嫌う女子が1番避ける季節に屋上にいるのは、桜も散り始めた春の終わり頃に先輩と出会ってしまったからだった。
私、加賀谷桃は、かわいい。
自分でそんなこと言うのはどうなのかと自分でも思うが、本当にかわいいのだ。
小さい時から、かわいいかわいい言われて育ってきたし、欲しいものはなんでも買ってもらえたし。これで気がつかない方がおかしいほどだった。
学校に通うようになってからは、さらにその、『かわいい』が故の特別扱いはエスカレートしていくようになった。
しかし、学校生活における特別扱いが良い方向に働くわけがない。
名前も知らない人の好きな人をとったとかどうとかで嫌われて、いじめられた。好きでもない男に囲まれて、愛想笑いをして、それなのにエコ贔屓だのぶりっこだの。
もう、そんな生活には疲れたのだ。限界だった。高校ではどうしても失敗したくなかった。
だから私は、普通の学校生活を諦める代わりに、過ごしやすさだけは手に入れようとキャラを作った。
自分のことをかわいいと自覚している、いじめられない強いキャラを。今まで散々苦しめられてきた、かわいさを武器にすることに決めたのだ。
かわいいねって言われたら、「ありがとう」ってそのまま言って、私の好きな人をとったと責められたら、「かわいくてごめんね」って謝って、告白されたら、「釣り合うと思ってるの?」と断って。
このストロングスタイルが、案外うまくいった。いってしまった。
こんなことを1ヶ月続けただけで、今まで悩まされてきた面倒ごとは、パタリとなくなったのだ。私ってば天才。見事、問題解決である。
ただし、それに比例するように私に関わる人は減っていき、孤高という名の『1人ぼっち』というデメリットも背負うことになったけど。
勿論私も女の子の友達が欲しかった。放課後カフェでココアを飲んで、恋バナをするような友達が欲しかった。しかし、こんなキツいキャラのやつに近づく女の子がいるはずもなく。『友達? 何それ美味しいの』と素で言えてしまうような寂しい学校生活が幕を開けたのである。
しかし、そんな生活が寂しくなんてないなんて、所詮は強がりなのだ。
そうやって何回も思い込むようにしたし、私は死ぬ気で勉強していい大学いくし、とかいろいろ思ったけど、やっぱり寂しいものは寂しい。
そもそも私、そんなキャラじゃないし。『圧倒的にかわいくて我儘な加賀谷桃』は私の中で作ったキャラクターであって、ほんとにそんなこと思ってるわけじゃないし。
そこまで徹底出来たら楽だっただろうけど、『素の私』は誰とも話さない学校生活に、限界を感じていたのである。
特に、お弁当を食べる時間がキツかった。騒がしいクラスの中で、なんでもないようにお弁当を食べるのもとうとう限界だったのだ。
そこである日、思い切って屋上でご飯を食べようと屋上へ向かったけど、やっぱり鍵がかかっていて入れなかった。むり。しんどい。現実は、漫画のように上手くはいかない。
だからといってまた教室に戻ってご飯広げるのもしんどい。
そう思った私が屋上に続く階段に座ってご飯を食べていると、後ろからガチャ、という音が聞こえてきて。その音に驚いて振り返ってみると先輩がいて、屋上の鍵を持っていた理由を問い詰めてみたのだ。
すると、前に先生から掃除のためにと屋上の鍵を渡されたが、返却しそびれて有効活用しているだけであって、盗んではいないのだと弁明された。それはそれでどうなのだろう。普通は返す。少し、人間性を疑った。
しかし、そのときの私にはまさに渡りに船な事件だった。そのため、その口止め料として、私も屋上でご飯を食べる許可をもぎ取ったわけである。
その日から、屋上の鍵は屋上の手前の階段に置いてある荷物の中に隠されるようになり、共同所有となったのだった。
最初は、私たちの距離は遠かった。屋上を半分に分けて、反対の方向を向いてご飯を食べていた。
しかし、私が箸を忘れたときに先輩に声をかけたのをきっかけになんだかんだ話すようになって、それから2週間が経った今では、私たちがご飯を並んで食べるのは当然のことになっている。
だってこの先輩、とても居心地がいい。
私に無闇に干渉してこないし、おしゃべりでもないし、だからといってつまらないわけでもなく、なんだかんだ優しい先輩の隣が、私にはとても居心地がよかった。
それに、先輩は絶対に私のことを好きにならないから。
「てゆーか先輩、今日も焼きそばパンですか? どれだけ好きなんですか、それ」
「……別に俺が何食べてたっていいだろ。そっちだっていつも同じような弁当じゃねーか」
「はい? 私のは毎日中身が変わってるし、栄養たっぷりですけど? てか、先輩って毎日同じことするの好きなんですか、それか願掛けでもしてるんですか?? また今日もお姉ちゃんのこと覗き見して」
あ。今日、初めて目が合った。
中庭で友達とご飯を食べているお姉ちゃんを指差しながらそう言った途端、先輩はあからさまに慌てて焼きそばパンを口から吹き出した。あまりに分かりやすすぎる。
「……ッは〜〜??? 覗き見じゃないんですけどー?? 俺には中庭を見る権利もないってことですか!?」
「めちゃめちゃ必死じゃないですか。ま、簡単にお姉ちゃんは渡しませんけど」
「べ、別にお前に許しをもらう必要はないと思うんですけど???」
「うわ、先輩必死〜。語尾どうしちゃったんですか」
私がそう指摘すると、先輩は私から顔を背けた。最早、お姉ちゃんを見ていたと自白しているようなものである。
すると、私の生やさしい視線に不服そうな顔をしていた先輩は、私から目を逸らして中庭を見た。どうやら、誤魔化すことは諦めたらしい。
「……別に、見てるだけなんだからいいだろ」
「それはそうなんですけどね。ストーカーさんになってたら、私もすぐにポリスを呼んでいますとも。……で、今日はお姉ちゃんと何回話せたんでしたっけ?」
「まだ今日は続くから明言はできないだろ!」
そう言った先輩は、誤魔化すように焼きそばパンに齧り付いた。そんな風に誤魔化さなくても、必死に弁解している様子から白状しているようなものに。
「……0回って正直に言えばいいのに」
「目は! 目は3回あってるんだよ!!」
「先輩の哀れな妄想か、暑さで幻覚でも見たか、もしくは気のせいじゃないですか?」
「どれだけ俺を疑ってるんだよ! 気のせいじゃねーよ! 絶対俺の方見てたもん!!」
「はいはい、そうだといいですねー?」
にやにやと笑って先輩をみると、見事に顔が真っ赤になっていた。
こうやって先輩をからかうのが私が学校にくる1番の楽しみかもしれない、と考えて、卵焼きを一口かじる。
もうお分かりだろうけど、先輩は、私の姉である加賀谷桜にベタ惚れなのである。
お姉ちゃんは、私ほどじゃないけどかわいいし、私よりも優しくておっとりしてるし、お姉ちゃんに惚れる男はいっぱいいる。
とは言っても、お姉ちゃんに今まで彼氏ができたことはない。
お姉ちゃんはあんまり恋愛とかに興味ないみたいで、初恋がまだだというのもあるが、私がブロックしているからである。
お姉ちゃんは騙されやすく、純粋で、本当に優しい人なのだ。私のような面倒臭い妹を持ってそうとう苦労しただろうに、私のことを嫌わずに今でも仲良くしてくれる。
そんなお姉ちゃんのことが、私は大好きだ。だから、お姉ちゃんには幸せになってもらいたい。変な男には引っかからないで欲しい。
そんな思いから、お姉ちゃんのことが好きな男を調べ、お姉ちゃんに相応しいかをチェックし、私のおめがねに叶わなかった場合はブロックすると決めている。
まず第一に、私のことを好きにならないこと。
私は、自分の顔が与える影響を自覚している。これが原因でお姉ちゃんが悲しむようなことがあってはならない。てゆーか、私がお姉ちゃんに嫌われたくないから、というのが大きいかもしれない。
そして第二に、性格が破綻していないこと。
浮気をするような人や、金使いが荒い人、暴力癖があるような人をお姉ちゃんに近づけるわけにはいかないからだ。お姉ちゃんは純粋なので、困ってるとか言われたらすぐにお金を貸しちゃいそうだから。
1ヶ月前に、駅で困っている人がいるから壺を買って支援してあげてもいいかと連絡が来たことは記憶に新しい。百歩譲っても、普通は壺の時点で詐欺に気付く。
だから、最初に先輩がお姉ちゃんを好きだと分かったときは、大成功だと思った。
先輩は私のことを好きにならないし、性格もまぁマシだし。見事に条件通過してるし。仕方ない。先輩にならお姉ちゃんを任せるのもやぶさかではない。
私も先輩のこと、嫌いじゃないし。
そう思って、まぁいずれ上手くいくでしょ、と見守っていたのだが、おかしいな、全然そんな兆しがない。
きっと、というか多分、むしろ絶対、先輩が奥手すぎて、お姉ちゃんにあまりアタックしていかないせいだ。していることは、こうやって屋上からお姉ちゃんを眺めているだけ。流石に奥手すぎて手を貸したくなってくる。
「ねーえ、先輩。協力してあげましょうか。私ってば優しいので、先輩のことお姉ちゃんに紹介してあげてもいいし、ダブルデートに誘ってあげてもいいですよ」
「…………いや、別に必要ない。自分で努力するから大丈夫だ」
「えー、今、めっちゃ考えてたじゃないですか。それに、先輩の努力とやらをまだ見せてもらったことないんですけど」
「これからどんどん見せてくんだよ!!」
「あは。本当ですか? 何年後かわかんないけど、楽しみにしときますねー」
先輩は、私に協力も頼んでこない。
だからまだお姉ちゃんと先輩はただのクラスメイトなだけなんだよ、と思ったりもするけど、そんなところも嫌いじゃなかったりする。
それに、この関係が変わらないことへの変な安心感もあったりして。
それからもくだらない話を続けた後、私は退屈な教室に戻って授業を受け、いつも通り家に帰った。
事件が起きたのは、その1週間後のことだった。
いつも通り家に帰ると、お姉ちゃんが正座して私の部屋にいた。意味がわからない。
「えーと、お姉ちゃん。急にどうしたの?」
「……実はですね、桃に相談がありまして」
「はい、なんでしょう」
お姉ちゃんがこんなに改まって相談にくるなんて滅多にない。余程真剣なことなのだろうか。
私が荷物をおろしてお姉ちゃんの向かい側に座ると、お姉ちゃんが言いづらそうに口を開いた。
「…………えーと。桃のクラスに、田中くんっているじゃない?」
「……田中くん? 田中駿くんのこと??」
同じクラスの田中駿は、1年生にしてサッカー部のエースで顔もよく、人気がある。いつも女子に騒がれている彼ならお姉ちゃんが知っていてもおかしくないなぁ、と思ったのだが、お姉ちゃんは横に首を振った。
「いや、田中亮介くんのことなんだけど……」
「田中亮介!? え、あの図書委員の?」
「そうそう、私と同じ日が担当なんだけどね?」
びっくりして、頭が上手く回らない。
だって田中亮介は、私と同じクラスなのにも関わらず、知っている情報がほとんどないような地味なクラスメイトだ。間違ってもお姉ちゃんが彼を好きになる要素はない。
教室でもいつも本を読んでいるような、まさに教室片隅系の男子だから、うちのクラスで『田中』といえばほぼ全員が田中駿の方をイメージするだろうに。
「そっか、お姉ちゃんも図書委員なんだっけ。……ごめん、何の役にも立てなくて本当に申し訳ないんだけどね? 私も田中亮介くんについてはあんまり詳しくないかも……」
と、泣く泣くお姉ちゃんに言ったところ、お姉ちゃんはあからさまに残念そうな顔をした。
「そ、そっか、そうだよね。じゃあごめんね!!」
と、顔を真っ赤にして言ったきり、慌てて部屋を出て行こうとするので、抱きついて捕まえて無理やり話を聞く。
すると、無駄に長い話をされたので、その話の内容を整理して一言で言うと、どうやらお姉ちゃんは田中亮介に恋をしてしまったらしい。
同じ図書委員として仕事をしたり、帰りが一緒になって、一緒に下校したりしているうちに、彼の優しさに気づいて一気に惚れてしまったそうだ。まるで、少女漫画みたいな話じゃないか。
しかも、今週末に遊園地デートをするというのだから、展開が早すぎて意味がわからない。前言撤回。流石の少女漫画でもここまで上手くいかない。
そんなことになっているならば、もっと早く相談してくれたらよかったのに、とも思ったが、それを言ったところで今更どうしようもない。時間は待ってはくれないのだ。
そこまで話を聞いて、私の頭に浮かんだのは先輩のことだった。
昼休みのたびにお姉ちゃんを見ている先輩。目を合わせることでさえ出来ないぐらい、お姉ちゃんを好きな先輩。ずっとお姉ちゃんを想い続けている先輩。
そうだ。先輩のことは、どうなるのだろう。どうしよう。
先輩はあんなにお姉ちゃんのことが好きなのに。
お姉ちゃんに話を聞いた次の日から、私は早速田中亮介の素行調査を始めた。何せ、初デートは1週間後。残された時間は少ない。
しかし、幸にも同じクラスだということもあり、情報はすぐに集まった。近寄りがたいキャラを演じているとはいえ、たまに話しかけてくれるクラスメイトに、それとなく探りをいれてみたのだ。
私の期待に反して、調べれば調べるほど、田中亮介はいい人だという証拠がボロボロと出てくる。
曰く、困っていたときに委員会を代わってもらったとか。とにかく真面目で課題を忘れているところを見たことが無いだとか。
そしてさらに、今までに付き合った彼女もいないそうだ。これならお姉ちゃんを元カノ問題に巻き込むことはないし、彼の友達にさりげなく私の印象を聞いてもらったら、『かわいいとは思うけれど世界が違いすぎて怖い』とのことで安心出来る。
それに、実は家柄もいいらしい。なんと甲斐性まである。姉の交際相手にするなら、まさに完璧じゃないか。
この調査結果を、私の報告を毎日ビクビクしながら待っていたお姉ちゃんに伝えると、
「ね、亮介くんって本当にいい人だったでしょ? 今回は桃が心配することないって言ったじゃん! ね、明日のデートの服選んでくれない? めいっぱいオシャレして行きたいんだ……!!」
と、嬉しそうな顔で笑っていた。
「あ、うん、そうだね……」
対照的に、私は曖昧に笑うことしか出来なかった。
だって、本当は田中亮介が悪い人で、お姉ちゃんの交際相手に相応しく無い人物であることを望んでいただなんて口が裂けても言えないし。
目の前で笑うお姉ちゃんは幸せそうだ。田中亮介もいい人みたいだし、2人に問題はない。
でも、それなら先輩のことはどうしよう。先輩はこのことを知らないはずだ。
どうする、伝える? 誰に、何を?
お姉ちゃんに、あなたのことをずっと好きな人がいるから、明日は行かないでって? 先輩に、明日お姉ちゃんがデートしちゃうから、邪魔しに行かないとって??
そんなのおかしくて、もう手遅れだってことに気がついてるのに、私は必死で頭を働かせて先輩とお姉ちゃんの未来を探した。
だってきっと、先輩の方がお姉ちゃんのことを好きだよ。お姉ちゃんは少しも気付いてなくても、ずっとずっと先輩はお姉ちゃんのことを見てたんだよ?
そういや今日も、先輩は屋上からお姉ちゃんを見てたな。お姉ちゃんの、笑ったときにできる笑窪が好きだとか、気持ち悪いこと言ってたな。
そんなことを思い出すと、まるで走馬灯のように、先輩がお姉ちゃんのことを眺めている時の優しげな横顔が頭によぎる。先輩の、お姉ちゃんのことを語る、優しい声が頭に響く。
そもそも、地味で真面目な田中亮介がありなら、先輩だってありじゃないか。どうして、ずっと身近でお姉ちゃんを見てたはずの先輩じゃないの。ほら。余計に、先輩だっていいじゃん。先輩だって負けてないぐらい良いところがあるって、私はちゃんと知ってるのに。
────お姉ちゃんのことが好きって言うから、私は、先輩のことを。
私はゴチャゴチャしてきた思考を打ち切って、先輩の連絡先が入っているスマホを取り出した。
そして、【いつも屋上にいる面白い先輩】という、登録名を見たときに。その瞬間に、先輩と私の思い出が、私の頭の中の、お姉ちゃんを見つめる先輩の記憶を塗り替えていく。
────先輩の、私の目を見てくしゃりと笑う顔が思い浮かんだ。
────先輩と、ふざけたように言い合ったことが思い浮かんだ。
────先輩と毎日お昼ご飯を食べた日々が、頭によぎった。
だから私は、喉まできていた言葉を飲み込んで。
宛先の表示されたままのスマホを机の上に置いて、お姉ちゃんに笑いかけて口を開いた。
「じゃあ、私のとっておきの服を貸してあげちゃう! ヘアメイクも私に任せてよ!! デートが上手くいくように、私も祈ってるね」
…………だって、お姉ちゃんは先輩の気持ちなんて知らないはずなんだから、わざわざ今伝えて混乱させることもないよね。
第一、お姉ちゃんが人を好きだと言ったのは初めてだし、そのお姉ちゃんの意思を尊重すべきだ。先輩は、私に協力しなくていいって言ってたし。私、先輩よりもお姉ちゃんの方が大事だし?
だから、私がこのことをお姉ちゃんと先輩に伝えなかったのに他意はない。
他の理由は、一切無いから。
「桃ってばめっちゃ頼りになる! 本当にありがとう。私、頑張るね!!」
私は、そう言って嬉しそうに笑うお姉ちゃんから目を背けたくて、服を選ぶ振りをして後ろを向いた。心臓が、ドクドクと音を立てて鳴っている。
どうしよう。今の私、どんな顔してる?
震える指でクローゼットを開け、付属の鏡を覗くと、そこには歪に笑う私の姿があった。
その顔が泣いているように見えただなんて、死んでも認めたくはなかった。
そしてその週末。結果から言うと、お姉ちゃんと田中亮介の初デートは大成功した。
あまりに惚気られて飽きたから端折るけれど、帰りに観覧車の頂上で田中亮介に告白されて、付き合いだしたらしい。ベタすぎて砂糖を吐きそうだ。
勿論、人気者だったお姉ちゃんが、教室片隅系で地味男子代表である田中亮介と付き合いだしたことはすぐに広まった。
うちのクラスでも相当噂になっていたし、普段は話しかけてこない、噂好きの女の子までもが真相を確かめたいと私に話しかけてきた始末である。
そしてお姉ちゃんは、お昼休みは友達ではなく彼氏である田中亮介と食べるようになった。お姉ちゃん曰く、これが青春だそうだ。
だから、屋上から見えるいつもの中庭の風景から、お姉ちゃんの姿だけが消えた。
いつもの屋上からも、先輩の姿が消えた。
1人で食べるご飯は何にも美味しくなくて、美味しいはずの卵焼きの味がしない。ご飯を食べているだけなのに、ボロボロと生暖かい雫が頬を伝う。
私、いつからこんなに弱くなっちゃったの。
教室で1人でご飯を食べることは、全然平気だったのに。あの時とは比にならないぐらい、悲しくて苦しくて、食べたもの全てを吐き出しそうだ。
屋上へ行ったら苦しいし、もう先輩はいない。頭では理解しているはずなのに、私は昼休みに屋上へ通うことがやめられなかった。
だって先輩に会えないから、会いたいから。
先輩と過ごしたいから、過ごしたいのに。
先輩がいてくれないと、息も詰まりそうな学校が色付くことなんてないのに。
「ッ、今更気づくとか、遅すぎでしょ……」
その理由に気がついたのが今だなんて、本当に馬鹿みたいだ。
私が屋上へ来ていたのは、教室で食べるのがしんどいからではなく、先輩と食べるために来ていたんだ。綺麗な中庭の風景を楽しんでいたのではなくて、中庭を眺める先輩の優しい顔が好きだったんだ。
こんな簡単なことに気づくのに、1週間かかった。それも、先輩を失ってから。
もう、遅いのに。私が全部壊したから、手遅れなのに。
やっぱりあのとき、先輩に連絡をしていればよかった。お姉ちゃんに、嘘の田中亮介の情報を渡せばよかった。彼女がいるとか、素行が悪いとか。
でも、そうすることが何故か嫌だった。
私は、込み上げる涙を強引に袖で拭って、また卵焼きを一口かじった。甘いはずの卵焼きなのに、目から落ちてくる水のせいで、しょっぱい。
「ッ、美味しくない……」
何故か、なんてまた逃げて。
その理由なんて、もうとっくにわかってるくせに。
それから2週間たって、先輩はようやく屋上に現れた。
何故か先輩を見るだけで泣きそうになったけど、私はいつもの私に近づくように、無理やり口角を上げて先輩に近づいた。
「わ、先輩! 久しぶりじゃないですか。この2週間、どこでご飯食べてたんですか?」
「……別に、どこだっていいだろ」
「そうですね。聞いといてあれですけど、私もそんなに興味なかったです」
そう言って、いつも通りにすとんと先輩の横に腰を下ろす。
「……今日も焼きそばパンなんですか? 栄養偏りすぎてウケますね」
「………」
「髪の毛、めっちゃ跳ねてますよ。寝坊したんですか?」
「………」
「そういや、そろそろテストですね。勉強進んでますか?」
何を話しかけても、先輩はこっちを見ない。顔すら上げずに、何処を見ているのか分からないような濁った瞳を伏せて、黙々と焼きそばパンを食べ続けている。
「……先輩、泣いてるんですか?」
まるで私の問いに肯定するように、かすかに嗚咽する声が聞こえ、アスファルトの上に何個か染みができた。
だから、私は必死に、先輩の涙が止まるようにって祈りながら先輩の背中をさすった。
私のせいだ。私のせいだ。私のせいでしょ。
先輩、ごめんなさい。また、馬鹿みたいな話しましょうよ。中身のない話でいいんです。
どうでもいいことを話しましょう。それを先輩がまたウザいとかなんとか言って、そしたら私が心外だと怒って。
ねぇ先輩。また、お前馬鹿かって、うるさいって言ってくださいよ。
私がお姉ちゃんの代わりに、ずっと隣に居ますから。お姉ちゃんみたいに、いなくなったりしませんから。
あれから、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。嗚咽を漏らす先輩が焼きそばパンを食べ終わった頃にキーンコーンと、予鈴の音が鳴った。
先輩はそれを合図に、空になった焼きそばパンの袋を持って立ち上がる。
私は、これを逃したらもう2度と会えない気がして、先輩のブレザーの裾を握って話しかけた。
「先輩、明日からも屋上来てくださいよ。私、1人でご飯食べるの、想像以上に悲しかったんですからね?」
「……別に俺じゃなくてもいいだろ。お前と一緒に食べたいやつ、いっぱいいるだろうしさ。ほら、人気者の加賀谷桃さまなんだろ?」
誰だっていいわけじゃないに決まってる。だって、私がここに食べに来てたのは、先輩がいるからなのに。
「……ッ、私は、先輩と食べたいんですよぉ」
「俺と食べてどうするんだよ。それとも何。お前、もしかして俺のこと好きなの?」
先輩が冷めた目をして私を振り返った。
まるで軽蔑するような、刺すような視線だ。
そりゃあ、恋愛相談をしていた相手が邪魔をして、こんなこと言い出したらそう思うし、軽蔑するだろうな、と思う。
それに、失恋相手の妹になんてもう会いたくないだろうな。それでも私は、まだまだ会いたい。これからも会いたい。
だから、離してあげない。
「違いますよぉ。なんで私が先輩のこと好きなんですか? 自意識過剰すぎです」
違う、好きなわけじゃないの。だって私は、私のことを好きにならない先輩のことが好きだ。大好きだ。
その冷たい視線が、私を『普通の女の子』として見る目線が好きだ。私に迫られても顔色1つ変えないところが好きだ。
この『好き』は恋愛の好きじゃないでしょ。
そうだよね? 違うよね。
好きじゃないから、勘違いしないでよ。好きじゃないから、そばにいてよ。いなくならないでよ。
いつまでも先輩が私にふり向かなくても、それだっていい。無理にこっちを見てくれなんて言わないから。
私のドロドロとした執着が、喉から離れてくれない言葉の代わりに先輩に巻き付いたような気がした。
この苦しい気持ちが、切ない気持ちが、恋じゃないなら、なんなの? この苦い感情につける名前を、私は恋以外に知らないのに。
それなのに、ずるい私は、にっこりと笑って先輩に手を伸ばした。
「ただ、可哀想な先輩を慰めてあげようと思ったんです。ねぇ、先輩。私、今ならお買い得なんですよ」
そう言って先輩に手を伸ばした私は、どんな顔をしてたのかな。あの時みたいに、泣き出しそうな顔だけはしてないといいな。
先輩が、姉じゃなくて私を見てる。ただそれだけで気持ちよかったの。それしか望んでなかったの。ようやく、欲しかったものが手に入ったような気がしたの。
だから、ずっと先輩のそばにいるし、先輩を傷つけることはしませんから。
──────私に手を、伸ばしてよ。
私は今日も、昼休みを知らせるチャイムを聞いて屋上へ急ぐ。
先輩はもういるだろうか。私は、先輩との話のネタ作りのために購買で買った焼きそばパンを小脇に抱えて、階段を全力で駆け上がる。
雨の多い秋の時期特有の、湿度の高いじめじめした今日は、先輩が私の手を取ってからすでに数日が経過していた。
「せーんぱい。おっと、また今日も焼きそばパ……え、今日はカツサンドですか!? 珍しいですね」
「別に、そろそろ飽きてきたってだけだよ。お前こそ今日は弁当じゃねーんだな」
「今日は少し寝坊しちゃったから購買で買いました〜! 見てください、焼きそばパンです。先輩とお揃いだと思ったんだけどな〜」
ペロリ、と舌を出して、私は今日も何でもない顔をして先輩の隣に座った。
あの日以来、私達の歪な関係は続いている。
友達でも恋人でもなくて、ただの先輩後輩でもない。この距離感は本当に気持ち悪くて、吐きたいぐらいしんどくて、それでも隣にいられるのならなんだっていいと思った。
これは贖罪。そう、贖罪なのだ。
私がお姉ちゃんに先輩のことを教えていたら、何か変わっていたかもしれない。そしたら、もしかしたら私も後輩としてずっとそばにいられたかもしれない。
それが叶わないから、私は今日も目一杯の贖罪を先輩に捧げる。
「先輩、最近の湿気やばくないですか? 気づけば秋ですよ、秋」
「日焼けの次は湿気かよ……。どうでもいいわ」
「先輩と違って私は繊細なんです! 何せ現役JKですからね!! そんなんだから季節だけじゃなくて時代にも置いていかれるんですよ」
「誰が時代に置いてかれてるってんだよ!? 繊細(笑)なお前とは違って悪かったな!」
「あれ、もしかして先輩今、私のこと馬鹿にしました? しましたよね!?」
「してねぇって。流石は意識高い系。自意識過剰だわ〜」
「……先輩のばーか! 意識高い系で悪かったですねぇ!」
私の拗ねたような言葉に、「冗談だって」と笑う先輩。
その笑顔に、安心して泣きそうになった。もっとその顔を見せて。もっと笑って。少しでもいいから、幸せそうな顔をして。
私のせいで歪んだ世界を、元に戻して。
だから、私が先輩に償い終わるまで隣にいて。
そんな日が続いた、ある日のことだった。
校舎を歩いていると、前方から歩いてくる先輩の姿が見えたから、満面の笑みで駆け寄ろうとして……足を止める。
先輩の隣に、女の人がいた。おそらく、先輩と同じ学年の。
派手な髪にメイク。どこかで見たことがある。確か、先輩のSNSにツーショット写真が上がっていたはずだ。
そして、楽しそうに話す2人とそのまますれ違ったけど、先輩は私を少しも見なかった。多分、気付いていたのは私だけだった。
「……どうして」
私は、先輩の後ろ姿を見つめて、自分の手首を強い力で掴んだ。
絶対、私の方がかわいいのに。人気だってあるのに。ただ、少し遅く産まれただけなのに。
すれ違う人達はみんな私のことを見るから、悔しい。いや、そんなことはどっちでもよくて。
他の人の視線がいくら集まっても、先輩がこっちを向かなければ意味がない。
だって私のかわいいは全部、先輩のためにあるんだから。
先輩に見て貰うために、お弁当を作るのを諦めてでも完璧に巻いた髪。いい匂いの制服。爪は完璧に磨き上げているし、ナチュラルメイクだって良い出来だ。
私はかわいい。みんなに認められるぐらいかわいい。それを、たった1人のために捧げてるのに。
そのたった1人に届かないなら、私のかわいいに意味なんてない。
「……悔しい」
これ以上、何が足らないの。
私は先輩がいないと、先輩がこっちを向いてくれないだけでこんなに悩むのに、先輩は私がいなくてもきっと困らない。
それが悔しくて、泣きたくて、悲しい。
昼休みには一緒にお弁当を食べたけど、やっぱり話すのは私ばかりで先輩は、ぼーっと中庭を見ていた。
まだ中庭を見ている先輩に、私の方を向いて欲しくて、こんなにかわいくしてるのに。
私の唯一の武器さえ歯が立たないなら、私はどうしたらいいの。どうしたらこっちを向くの。
ねぇ先輩。中庭にはもう誰も、いないんですよ。すぐ近くには、私がいますよ。手を伸ばしたら簡単に届いちゃいますよ。
「ねぇ先輩、聞いてくださいよ! 今日私のクラスで……」
そんな言葉を飲み込んで、私は先輩に笑いかけ、くだらない話を続けた。
「そういや最近、また街でスカウトされたんですよね〜」
「は!? マジかよ! どこの事務所だ!?」
「え、これそんな食いつく話でした?」
単なる世間話として話したのに、想定外の食いつきに少しビックリする。しかし、先輩の目が珍しくキラキラしていたので、続きを話した。
「えーと、確か今季の朝ドラ女優が所属してるところですね。最近よくスカウトされるんですよ。ちょっとめんどくさくて困ってます」
「ちょ、お前やっぱスゲェわ!! でも連絡しねぇんだろ? 勿体ねぇー!!」
事務所の名刺なんて一杯貰ってきたし、私には当たり前のことだったから、こんなに喜ぶ先輩を見ていると不思議な気持ちになる。でも、悪い気はしない。
「……こんなの、普通ですよ」
照れ隠しでそう言ったのに。
「そりゃお前からしたらそうかもしれねぇけどさ。いやぁ、やっぱお前ってかわいいんだなぁ……」
しみじみと呟く先輩の言葉に、私の表情筋はもう限界だ。
やっと響いた。先輩に、私の『かわいい』が届いた。
かわいい、だなんて普段は好きな言葉じゃないのに、先輩からの可愛いが死んでしまいそうなほど嬉しいのは、何の情欲も乗っていないからだろうか。
ううん、それとも──
その先を考えてみたら終わりな気がして、考えを吹き飛ばすように首を振る。そこで考えるのをやめた。
「俺、テレビ業界の仕事とか興味あってさ。普段は風景ばっか撮ってるけど、人のこと撮るのもいいなって最近思ってて。撮るのがどっちにしろ、カメラマンって超カッコいいよな……。マジで憧れる」
「なんか、ふわっとした理由ですねぇ。そういえば先輩って写真部でしたっけ。……あ。もしかして先輩、ただ綺麗な女優さんが見たいだけじゃないんですかー??」
「ばっ、違うわ!! こっちは真剣にだな!」
慌てたように言う先輩を見てクスクス笑うと、先輩はもっと言い訳を重ねるから、余計面白い。
「てか、それなら私で練習したらいいじゃないですか。特別に、焼きそばパン1つでモデルをやってあげてもいいですよ?」
「それは大丈夫。無理」
「即答ですか!?」
「いやだってお前、よく考えてみろって。技量とモデルが追いついてなさすぎるだろ。加賀谷桃の使い損だわ! 勿体ない。せめて俺が人物を撮る練習をしてからにしてくれよ……」
「…………仕方ないですね。まぁ、そーゆーことなら待ってあげてもいいですけど。じゃあ約束ですよ?」
少し悔しい気もするが、私をかわいいと思ってくれていることが分かっただけで大収穫である。先輩に容姿を褒められるだけで、胸が痛いほど締め付けられた。
この気持ちに、名前をつけたくなかった。
私は、先輩と別れて教室に戻ってすぐ、適当にスカートのポケットに入れていた名刺を取り出し、シワを伸ばす。そして、宝物のように大切にファイルにしまった。
そして家に帰ってすぐに名刺を取り出してスマホの横に置く。
「……先輩って、テレビ関係の仕事に興味あるんだ。そんなの私には関係ないけど」
誰に聞こえるでもないのに、言い訳のようなことを言ってしまった。全く関係ないけど。先輩との話なんて、本当に、全く関係ないけど。
関係ないけど、名刺に書かれている番号に電話をかけたのはただの気まぐれで。大学卒業後にそこでも一緒にいれたらとか、そんな幻想は抱いていないけど。
「あの、最近名刺を貰った加賀谷桃というものなんですけど。詳しい話って聞けたりしますか?」
まだまだ先輩に話したいことがあるのに、季節は空気を読まずに進んでいく。
気がつけばヒートテックが必要な季節になって、コタツを出す季節になって。受験生の先輩は日に日にやつれていった。
やはり受験勉強というのは大変なようで、先輩は第一志望に合格するために毎日学校に居残って勉強をしているみたいだ。
先輩は地元の国立大学に行くらしいから、より一層大変なのだろう。うちの地元の国立大学は大分偏差値が高い。
そんな先輩を励まそうと思って、私は初めて手作りで合格祈願のお守りを作ることにした。
別に勝手に作るだけだし、受け取ってくれないかもしれない。それでもいい。私が作りたいだけだし、なんて。
そう思いながら作ったお守りは、裁縫初心者らしく歪だったけれど、受け取ってくれたらやっぱり嬉しい。そんな、祈りを込めたお守りを持って、私は今日も屋上を訪れていた。
「せーんぱい。今日は先輩にプレゼントがあるんです」
「おー、何だ?」
「じゃじゃーん! お守りを作りました!! なんとなんと、美少女JK桃ちゃんの手作りですよ!! ご利益ありまくりです」
「自分で言うなよ。……ま、確かにそれはご利益あるかもな。受け取っとく。作ってくれてありがとな」
「……っ、はい……」
渡すかどうか死ぬほど悩んで、何日もかけて作ったお守りを、先輩は嬉しそうに握っていた。笑う先輩を見ただけで泣きそうになる自分が嫌になる。
まだ先輩の心にはきっと、お姉ちゃんがいるのに。そんなこと分かってるのに、それでも嬉しくて舞い上がっていた私を、先輩は一言でドン底に突き落とした。
「俺、遠くの大学受けるからさ。不安だったんだけど、これ持ってって頑張るわ」
「……え。何ですか、それ。聞いてないんですけど」
「言ってないからな。そもそも言ってどうするんだよ。お前のランクよりも低いとこだから参考にならねぇぞ」
「…………そんな、こと」
「前、俺と同じ大学行くとか冗談で言ってただろ。そんなのいいからさ、お前はお前に合ったとこにいけよ。大学選ぶの面倒くさいからって、安易に俺についてこようとしたらダメだぞ」
「………なんで、私が先輩についていかないといけないんですか。冗談キツいですよっ!」
笑顔を作った。口角を上げた。出来るだけ明るく、明るく笑え。どうでもいいと思ってるみたいに叫べ。
────私の声が震えていたのはきっと、気のせいじゃない。
だって、地元の大学受けると思ってた。そしたら私もその大学に行って、また一緒にいるつもりだった。ずっと、隣にいて。
そしたらいつか、私の方を向いてくれて。
そんなことを当たり前のように考えていた私がいて、意味が分からなくて混乱する。
どうして先輩は私を拒絶するの。私の贖罪は、献身は迷惑だったのかな。やっぱり私じゃ、代わりは務まらなかった?
泣きそうになる私に、先輩は相変わらず中庭を見たまま、「やっぱり忘れられなくて」と呟いた。
「ほら、お前のお姉さんのこと。ここを離れないと、思い出しちゃうからさ。引きずる男ってしつこいし、ダサいじゃん」
そう言って悲しそうに笑う先輩に、何も言えなくなる。
先輩はきっと私を見てもお姉ちゃんを思い出す。だから私にも行き先を教えてくれないんだ。
先輩は私のこと、無かったことにするつもりなんだ。忘れちゃうつもりなんだ。
私のことをこんな風にしておいて、逃げるなんて許せない。許さないから。
お姉ちゃんなんて、私のために忘れてよ。
もっと私の想いを思い知って、苦しんで欲しいのに。
先輩に、私のために泣いて欲しいのに。
それから先輩とは、卒業式の日まで会うことがなかった。受験とか天候とかが重なって、なかなか会う時間が取れなかったせいだ。
なんだか神様まで私に先輩を諦めろと言っているみたいで腹が立つ。そんな運命なら、世界なら認めたくなんてない。
だから私は、今日に賭けた。
先輩の下駄箱に手紙を入れて、先輩が屋上に来ることに、私の全てを賭けたのだ。
いろんなことをグルグル考えていると時間はあっという間に過ぎて、首を真綿で絞められているような苦しさの中、先輩はやってきた。
「せーんぱい! お久しぶりですっ! 来るの遅いですよっ!! もしかして寝坊でもしちゃったんですか?」
今日は真剣な話がしたいのに、私の口から飛び出したのはいつもの軽口で、本当に嫌になりそうだ。そんな私のことが、大嫌いだ。
それでもその私じゃないと、もう先輩の前に立つことすら難しい。
「なんか先輩に会うのも久しぶりですね。相変わらずで安心しました」
「…………何なんだよ。俺のこと急に呼び出して」
「先輩、自己採点だと第一志望合格確実らしいじゃないですか? えへへ、先輩の担任の先生に聞きました! もう先に祝っときますね、合格おめでとうございまーすっ!!」
「……まぁ、まだ本当に受かったかどうかは分かんないけどさ。とりあえず、ありがと」
私のお祝いを聞いた先輩は、毒気が抜かれたようにふにゃりと笑って、少し恥ずかしそうにした。その様子は、会わなくなる前の先輩と少しも変わっていなかったから心がポカポカする。
よし、大丈夫。この調子なら、このまま──────。
「あの、」
「……もう、桃は俺のことなんて気にしなくていいよ」
「…………へ」
私の声を遮って言った先輩の言葉に、思考が止まる。もう3月で暖かいのに、身体から体温がなくなっていくような気がした。
それなのに先輩は、抑揚のない声でスラスラと言葉を続ける。
「ごめんな、今までずっと付き合わせて。俺、年上なのに頼っちゃって。お前、罪悪感とか感じて俺のこと慰めてくれてたんだろ?」
「…………」
「本当に悪かった。もう俺のことは気にしてくれなくていいからさ。やっと、なんとか立ち直れそうになった。お前はかわいいし、素直じゃないだけでいい子だから他にも友達出来るよ」
「…………はい?」
あまりに的外れな先輩の言葉に、私の口から低い声が出てしまっていた。呆れて、もう言葉も出ない。
そうだよ、贖罪だって最初に言ったのは私。
でも、それだけ?? 本当に私のことなんてもう、忘れたいの?
まだまだ私は、先輩の視界には入らないの?
先輩は私のことなんて見えてないから、好きだとすら言わせてもらえない。
違うよ、側にいたいだけなの。でもこの感情を、みんなは恋って呼ぶんじゃないの?
初めて家族以外で好きになれた人なのに、どれだけ想っても、煩っても、私の射程距離の中には入ってくれない。
そもそも最初から、目にうつってないから。
こうして後輩として側にいるだけでもいいのに、それすらダメなんですか。貴方に迷惑をかけていないのに、近くにいることすら嫌なんですか。
薄々分かっていたのに、本人から聞かされるのと、自分で考えていたのでは大違いだった。
私の数ヶ月は、全部全部無駄だったんだ。例え『かわいい』が届いてたって、『好き』とは天と地の差があったのだろう。かすりもしなかったのだろう。
そのとき、ぐちゃり、と鈍い音が耳元で聞こえた気がした。それはきっと、私の心にナイフが突き立てられた音だ。
……もう、どうだっていいや。
私の頭の中で、何かがブチンと千切れるような音がする。
「〜〜〜〜ッ! 私がここまでしてるのに分かんないんですか?? この私が、贖罪だけにこんなに時間を割いてるって、本気で思ってたんですか!?」
私は先輩のネクタイを掴んで引っ張り、硬く結ばれた唇に口付けた。先輩は唖然とした顔でこっちを見ているけど、そんなの気にしてあげない。
だから、ずっと今日のことを考えて煩うほど、私を想うといいよ。
「私、先輩のことが好きです」
先輩の目を見て、真っ直ぐに想いを告げた。先輩は、未だにポカンと口を開いたままだ。
朝起きて、隣に先輩がいないから苦しい。先輩が私を見ないから、切ない。先輩が私を置いて行こうとするから、死にたくなる。
ほら。やっぱり私、先輩のことが大好きだ。
私は、視線を先輩からずらして中庭を見た。綺麗に整備された中庭には、あの日と違って誰もいない。
「まだお姉ちゃんのことが好きですか? 私じゃ代わりに、ならないんですよね?? 私が先輩だけを特別だと思ってることなんて、知りもしなかったってことですか?」
「ッ、桃……」
「…………なら、もういいです。先輩が私のことをどうとも思ってなくても、それでいいです」
この台詞を言うのに、覚悟を決めるのに、半年かかった。先輩はそんなこと知らないでしょうけど、それでもいいんです。だから。
「それなら、どう足掻いても目に映るようにしてみせます。世界で一番目立ってみせます」
「…………」
「……お姉ちゃんなんか塗り替えて、私しか思い出せないようにします。どこにいたって目に入るようにしてやります。だから、死んでも忘れさせてなんてあげませんから……ッ!」
この恋はきっと、少女漫画みたいに綺麗じゃない。でも現実ってそういうものでしょ?
苦しくて恋しくて痛くて、奪ってでも欲しいの。先輩のことを、誰にも渡したくない。
私は、歯がぶつかって切れた唇から漏れた血をペロリと舐めとった。
私のそばにいてくれないなら、誰とも幸せにならないで。
私は呆然とする先輩に微笑みかけ、スマホに表示された画面を見せた。
「それ、あのときの……!」
「……そうです。私、この前先輩に話してた事務所のスカウト、受けたんです。オーディションにも受かったので、テレビのCMにも出ます。これからもっと、先輩がもしどこにいたって視界に入るぐらい、街もテレビも埋め尽くしてみせます」
私はそう言って、呼吸を整えるように大きく息を吸い込んだ。
「だから、だからッ! 絶対に、私から逃げきれるだなんて思わないでくださいね!!」
私からどれだけ逃げたって、長年持て余してきた、私の唯一の武器を使って先輩を追い詰めるから。
いつだったかのように、キンコーンとチャイムがなる。呆然とした表情を浮かべた先輩は、そこに座り込んだままだった。
「……先輩。絶対にまた私に会いに来て、私を見つけて、その時に返事を聞かせてください」
これ以上そんな先輩を見ていたら泣きそうだったから、私はその言葉だけを残して屋上を出た。
あのときの私みたいに、先輩が私の手を掴んでくれることは無かった。それでもいいと思った。
だって、先輩に会えなくなるわけじゃない。今の私には、先輩にもう1度会うための武器がある。
何年かかってでも、先輩が私で埋め尽くされて、私に会いに来てくれるようにする。例え利用されたっていい。先輩になら。もしも、私を必要としてくれるなら。
あれから、あっという間に3年がたった。
高校を卒業した私は、大学へ通いながら女優業をやる忙しい日々を送っている。私はすっかり人気女優になって、広告やドラマに引っ張りだこだ。
それでもまだ、先輩からの連絡はないから困る。なんでまだ私で染まってくれてないんだろ。私は、その苛立ちをぶつけるように、手首を強い力で握りしめた。この感覚も、久しぶりだ。
そもそも、ただ周りに自慢したいからとかで呼び出してくれたっていいのに。何処へでも行くのに。先輩が私を呼んでくれるなら、全部を放り出して会いに行くのに。それなのに。
「そういうところが好きなんだよなぁ……」
気がつくと、口から言葉が漏れていた。
先輩のことを考えていると、頭がふわふわして口もゆるゆるになるから困ってしまう。
先輩、もう3年ですよ。もうそろそろ会いに来てくれてもいいんじゃないですか。
私、まだまだ先輩のことが大好きですよ。
私の方から先輩を忘れることなんて絶対ないから、早く見つけてくれたらいいのに。
私は、今日も世界に見つかるためにSNS用の写真を撮った。投稿した瞬間からドンドン増えていくいいねの数に、口角があがる。
見つかれ。もっと見つかれ。
そして先輩に、届いて。
「桃さん! 車の用意できました!」
「はーい!! すぐに行きます」
今日も祈るようにスマホを握りしめ、マネージャーさんの用意してくれた車に乗り込む。そして、スマホからピロンピロンと鳴り続けるいいねの通知の中から、今日も先輩の名前を探しだした。
<『先輩』さんがあなたの投稿を『♡』しました。>
今でも私は、この文字だけを支えに生きているって気がついてるだろうか。先輩はまた、馬鹿みたいだと、笑ってくれるだろうか。
早く会いに来て。『私』を見つけて。
そのためなら私、どれだけでも輝けるから。
──────────と、そんな風に。
そんな風に余裕めいたことを言っていられたのも、3年目までの話だった。
連絡がこない。一向に来ない。なんなら先輩のSNSを1番上に張り付けてまでいるのに、先輩からメッセージが届くことはなかった。死にたい。
誰だ、私の『かわいい』は武器だと言ったやつは。私だ。穴があったら入りたい。毎日不安で、辛くて、寝る前はいつも先輩が勝手に思い浮かんでくるので、泣いてしまうようになった。泣く演技をするときはいつも先輩を思い浮かべていると、先輩は知っているだろうか。
あれからさらに2年が経ち、私は押しも押されぬ売れっ子女優になっていた。それこそテレビで私を見ない日なんてないし、それぐらい私も仕事漬けの日々を送っていた。街もテレビも、電車の中まで埋め尽くした。
それでも、ずっと先輩から送られてくる『♡』だけを頼りに生きていた。SNSなんて好きじゃなかったけど、先輩が見ていると思ったら苦でもなんでもなくて、むしろノリノリで毎日写真をあげていて。
それなのに。
「……なんで、先輩のアカウントがなくなってるの」
ある日を境に、突然SNSから先輩のアカウントが消えた。
『先輩へ。桃です。今日は撮影で海外にきています。先輩はどうしていますか』
送信ボタンを押してから、SNSに載せるようの写真を撮った。先輩がもう見ていないと思うとやる気が出ない。それでも、先輩に少しでも届く可能性があるならと思うとやめることも出来なかった。
あれからの私はというと、病みに病んで、なんなら仕事のストライキとかもしちゃって、手首を握りしめる癖も発動しちゃって、先輩なんて忘れてやるとようやく飲めるようになったお酒を飲んで。荒れた。それはもう荒れました。
叶わないって、思ってしまいそうになった。この恋の勝率なんて1%にも満たないって、本当は誰より私が分かっているから。
でも、やっぱり好きだった。先輩のことがどうしようなく好きだった。先輩は私のことが好きじゃないからって、どうにかなるような気持ちじゃないから。
それこそ本当にどうしようもない。
芸能界に入ってから私のことを特別視しない人もいたけど、やっぱり先輩のあの視線とは違っていたから。私のことを、ただただ普通の女の子だと見てくれる人なんて、先輩しかいなかったから。
もしかすると、それこそ普通の生活をしていたら良かったのかもしれない。芸能界に入っていなければ、『特別な加賀谷桃』でいる必要もなかったのかもしれない。
それでも、これから出会うかもしれない可能性を全て潰してでも、先輩が欲しかったんです。諦めたくなかったんですよ、先輩。
だからって、普通の女の子に生まれたかっただなんて、先輩の同級生になりたかったなんて、死んでも言いたくなかったんです。
それを、先輩に選ばれない理由にしたら死にたくなってしまうから。
『先輩へ。桃です。最近、またお弁当を作るようになりました。先輩がまた焼きそばパンばかり食べていないか心配です』
だから直接、先輩のメールに『日刊加賀谷桃』を届けることにした。学生時代のメールアドレスなんて、もう使っていないかもしれない。今の時代、とっても便利なSNSというやつがあるんだし。
でも、だからこそ、送る勇気が出たのかもしれない。どうせ見ていないなら。もしかしたら見ているかも。そんな、不確かなつながりだけで心地よかった。
今まで何度も見つめた、先輩の名前と誕生日が並んだ数字の羅列に生きる意味を託して息をしていた。
『先輩へ。桃です。今日は流行りのカフェにおしのびで来ました。私達の地元にはそんなオシャレなものなかったから、カフェなんて行ったことなかったですね。いつか、一緒に行きたいです』
『先輩へ。桃です。今日はファッションショーに出ます。テレビ中継もされるので、絶対に見てください。先輩のために歩きます』
『先輩へ。今日は疲れました。しんどいです。先輩に褒めてもらわないとやる気が出ません。私のこと、プロ失格だって怒りますか』
『先輩へ。桃です。寂しいです』
──────今すぐ会いたいです。
それからの私も、相当健気だったはずだ。
「へぇー、じゃあ桃ちゃんは先輩に勧められて芸能界に入ったんだ?」
「はい」
「今も連絡取ってるの?」
「それが取れてないんですよ。何処にいるのかも分からないので、見つけたら教えてって知り合いには言ってるんですけどね」
インタビューでは、必ず先輩のことを答えた。
「今年のなりたい顔ランキング1位、おめでとうございます!! 加賀谷さん!」
「ありがとうございます。とっても嬉しいです」
もっと人気になった。
「次は、あらゆるメディアに大人気の加賀谷桃の春服コーディネートのコーナーです!」
「はーい! 加賀谷桃です。今日は、この春の着こなしを紹介しようと思います」
それなのに、何の連絡もないまま、また季節が春になった。私の気持ちなんて関係なく、ひらひらと桜が舞い始めた。
春は出会いと別れの季節、とよく言うけれど。別れたっきり出会えない私には、負の季節でしかない。
夏は期待。秋は贖罪。冬は不安。そして春は絶望。
先輩と過ごしたまま固定された四季のイメージは、ずっと変わることがないままだ。
現実を見てしまわないように、向き合わないように、「先輩に見つけてもらう」という目標に向かって一直線に走り続ける。あとどれぐらい人気になればいい? どれだけ目立てばいい?
もしかして。もしかして、私がどれだけ目立っても、視界に入り込むことが出来ても─────────いや、そんなわけない。だってそうじゃなきゃ、どんな顔をして笑えばいいのか、分からなくなってしまう。
そんな、気力だけで走り続けていたような毎日に。ほんの少し、面白い仕事が舞い込んできた。
「……えっと、地元のPRのお仕事ですか?」
「そうなんです。どうしても桃さんのことを起用したいって。桃さんの地元だから受けてもいいとは思うんですけど、スケジュールもキツいし……。受けるかどうかは桃さんにお任せしますので」
「…………すみません。それなら、受けるのはやめておこうと思います」
地元の仕事。それはつまり、地元に帰るということだ。地元に行ったら、絶対に泣いてしまうと思ったから今まで1度も帰っていなかった。だから、そんな私が地元PRなんて出来るわけがない。
「仕事も忙しいですし、ドラマ撮影も控えてますし。だから、せっかくのオファーですけど…………え」
本物っぽい言い訳をスラスラと重ねて、マネージャーさんの持っているサンプルを見て凍りついた。
「…………? 桃さん、どうかしましたか??」
「その、サンプルって」
「あぁ! この広告を撮るのも地元のカメラマンの方らしくて。新進気鋭のスタイルって噂なんですよ。確認してみますか?」
「……はい」
受け取った、sampleと書かれた写真の中から、1枚の写真を抜き取った。泣きそうになった。
「それは地元の学校のPRみたいですよ。もしかして桃さんの母校ですか?」
「これは、私の、」
私と、先輩の。唯一の。
そこに写っていたのは、私と先輩が毎日一緒にお弁当を食べ続けた屋上だった。
青い空。白い雲。綺麗な中庭。私がラクガキした先輩の似顔絵も、先輩が書いた下手くそなウサギも、もうそこには残っていなかったけど。
ダメだ。これを見ただけで、胸が苦しい。日々に埋もれさせていた青春の記憶が、ふわりと脳裏に浮かび上がる。
先輩の笑顔が、先輩の温度の乗っていない視線が、美しい中庭が。頭の中でぐるぐると回ったまま離れない。
そこは確かに私達の、私達だけの屋上で、ここに行ったら何かが変わる気がして。そして何より、この景色を撮ろうとした人に興味が湧いた。
全く都合の良い話だ。私だって今更期待していない。こんなところで会えるなんて、思ってなんかいない。
それなのに、先輩は写真部に入っていたとか、風景画を撮っていたとか、私にばかり都合の良い情報を思い出したから。
そして、もしも本当に会えたなら。
「……私、やっぱり受けます。その仕事」
「え、本当ですか!?」
「はい。少し、懐かしくなったので。それに、地元に会いたい人がいるかもしれないので」
もうこれ以上、私を1人にしないで。
「加賀谷さん、今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!!」
チョロい私は、先輩に会えるかもしれないと思うだけで頑張れてしまう単純な生き物なのだ。代表の方に挨拶をして、すぐに撮影に入った。撮影場所は、私と先輩の集合場所だった屋上だった。
ヘアメイクをして、スタッフの人に挨拶しながらソワソワしてカメラマンさんを待った。カメラマンさんが、本当に先輩だったらどうしよう。何の話をしよう。この屋上にいるせいで、余計に先輩のことばかり考えてしまう。
とりあえず、どうしてSNSを消してしまったのかだけは聞こう。そして、今度こそ先輩を逃がさない。
そもそも、私にオファーしてくれたってことは、私に会おうとしてくれたってことだ。私のことを、見つけてくれたってことだ。
もし、先輩が私を好きだと言ったらどうしよう。そしたら私は、満面の笑みで微笑んで、まるで映画のヒロインみたいに「ずっと待ってた」って抱きついて…………
「加賀谷さん、初めまして。お待たせしてすみません。カメラマンの藤堂です。早速撮影を始めましょう」
────違う。先輩じゃない。
「……よろしくお願いします」
そこにいたのは、綺麗なロングヘアを持つ女性のカメラマンさんだった。私の儚い期待は、一瞬で散って、ひらひらと舞う桜の花びらみたいになった。
もう、死んだっていいかもしれない。
屋上での撮影を大方終えた私に残された仕事は、中庭で撮る学校のPR撮影だけになった。どうやらそちらは、藤堂さんのアシスタントさんが撮ってくれるらしい。
とりあえず撮影の準備が整うまで、この屋上に1人きりにしてもらった私は、桜の舞い散る中庭をぼぉっと見つめながら病んだことを考えていた。
期待するのはやめるって、この5年のうちに決めたのに。変な偶然が重なったせいで、先輩に会えそうな気がしてしまった。馬鹿だなぁ。
あれだけ大切にしていた思い出だって、いつの間にかこんなに薄れてしまった。消えてしまった。屋上にいるだけで、こんなにも切なく、泣きたくなるのに。
思い出は消えていくばかりなのに、大事に温めてきた記憶が先輩を忘れることを邪魔して、そのぬくもりが寂しくて、好きの気持ちだけが募っては増えていく。この反比例に終止符を打たないといけないのに。苦しいの。切ないの。
日々すり減っていく先輩の思い出を抱きしめながら、大切に大切に毎日を生きているの。
先輩を好きな私なんて、やめたいのに。
先輩、嫌いです。私をこんな風にどうしようもなくしておいて、消えちゃう先輩のことなんて。でも、先輩のいない世界はもっと嫌いです。
世界が冷たいから。先輩以外の人間の、感情の乗りすぎた視線は、逆に私を傷つけるから。先輩の心地よい空気を私に送って欲しくなっちゃうから。
「〜〜ッ、先輩なんて、きらいっ! 嫌いですッ……! もう先輩を好きなのなんて、先輩のことなんて、忘れちゃいますからッ!」
こんなことがあっても、こうやって言葉にしても、心の中では忘れる覚悟なんてちっともつかない。先輩に会ってから、ずっと、私の心の中はぐちゃぐちゃだ。
そうだよ。もう、叶わないって知ってるの。認めたくなかっただけ。ずっと記憶に縋りついて、ずっと、ずっと!
──────それでも、私はッ…………!
「…………桃!!」
そんな、叫びにも似た言葉に。都合よく返事が、聞こえてきたから。
「せん、ぱい……?」
どさり、と。抱きしめるように持っていた、マネージャーさんから貰ったサンプルの写真の束を落とした音が遠くで聞こえた。心地よい春の風に舞いあげられた写真が、屋上に舞う。
その瞬間、時が止まったような気がした。恐る恐る振り向いた私の目に、信じられない光景が飛び込んできたから。
だから、今までにないほど必死に声を振り絞って、震えるだけだった声帯から、ポツリと言葉を吐き出した。
「…………せんぱい、ほんもの……?」
「本物に決まってんだろ。本物じゃないなら何なんだよ」
相変わらずの真っ白な肌。私をただの加賀谷桃として見つめる、真っ直ぐな視線。先輩の周りだけ、無重力みたいな空気感。
本物だ。本物の先輩だ。
先輩が、私に会いに来てくれた……?
「先輩、っあ、今までどこにいたんですかッ……!! 私、っ、すごく探したんです。心配したんです。いつまで経っても連絡くれないしッ、それにッ……それに、」
視界がぼやけて、声も上ずって、上手く話せない。やっと見つけた先輩を、目に焼き付けたいのに。これから一生生きていけるぐらい、焼き付けたいのに。
そんな私を見た先輩は、慌てながら私に駆け寄ってきた。そして、恐る恐る背中をさすりながら、「ゆっくりでいいから。もう逃げないからさ」とか言うから、どうしていいのか分からなくなってしまう。
今まで散々、私の隣にいてくれなかったくせに。
でもその久しぶりに聞いた優しい声に、単純な私はどうしようもなく安心して、何とかまともに話せるようになっている私がいた。
「っ、ひっく、先輩は、遅すぎるんです」
「……はい」
「いつもいつも、本当に遅いんです。なんで会いに来てくれなかったんですか。私、先輩が呼んでくれるなら何処へだってッ……なんでッ…………」
また話しながら泣きそうになった私の背中を、先輩はゆっくりさすってくれた。そして、ほぼ土下座のような体勢になりながら口を開く。
「ッ、本当に悪かった! ……だって、なかなか信じられなくてさ。今もまだ、半分夢みたいなんだけど」
「…………はぁ?」
「あの加賀谷桃が俺を好きとか、慰めとか冗談とかだって思わないとおかしいぐらいの天変地異だったから、あれから1年は信じられなくて」
「…………」
「なのにインタビューとかで俺のことばっか話すし、もしかしたら本当のことなのかもしれないと、思えてきて、ですね……」
何を言ってるんだ、この人は。この先輩は。
私があそこまでやったにも関わらず、キスまでしたにも関わらず、冗談だと思うとか。慰めだと思うとか! 私が今まで、先輩のその鈍さのせいで、どれだけ苦しんで、傷ついて生きていたと思ってるの。
自分を誤魔化していた私も悪いかもしれないけど、絶対に先輩が鈍すぎるのも悪い。そんな想いを込めて睨んでいると、先輩はまた「ごめんってば!!」と謝りながら話を続けた。
「それで、せめて桃に堂々と会えるようになってから会おうと思って、ずっと憧れてるだけだったカメラマンになるために大学通いながらカメラの勉強を始めたんだ。そしたら昔した約束も果たせるし、俺だけ何もないまま会うのは恥ずかしいし、……なんかズルいと思ってさ」
その言葉を聞いて、先輩をこれ以上好きにならないように封印していた、私の過去の記憶が蘇ってきた。そういえば昔、この場所で聞いたんだ。先輩は、カメラマンに憧れていると言っていたはずだ。
人物を撮る練習をしたら、私のことを撮ってくれると約束をした。
「ッ、じゃあなんでSNSのアカウント消したんですか。私、てっきり嫌われたんだって、私のことを本気で忘れたいんだって思いましたよ!!」
「……だって将来、桃のことを撮れた時に昔からSNSをチェックし続けてたとかなったら、なんかで足を引っ張るかもしれないじゃん。だから、その、ケジメとしてだな」
「そんな妄想の話で私の唯一の頼りだったものを消したんですか!? …………『日刊加賀谷桃』を送っても、一回も返事くれないし」
「ち、ちゃんと毎日見てはいたよ!! ……ケジメとして返信はしなかったけど」
「ッ、そんな理由があったなら、せめてそれを一言連絡してくれても──ッ!!」
「俺だってこんなにかかると思わなかったんだよ!! お前が人気になりすぎて、いつの間にか俺みたいな平カメラマンじゃ指先すら届かないところにいるからだろ!? 今回だって、藤堂さんのアシスタントとしてなんとか入れただけだし、お前が仕事を受けてくれるかも賭けみたいなものだったし……」
確かに、それを言われると弱い。おそらく先輩が撮ったであろう、サンプルの風景画を見なかったらこの仕事を受けようとは思わなかったし、私についてくれるカメラマンさんはもう、業界の中でも有名な人で固まっていた。
「それは、その、私だって先輩に見つかるために必死だったんですよッ!! 先輩が何処にいても私に気づくように、誰よりも光り輝いていたかったんですよ……ッ!」
先輩はバカだ。大馬鹿ものだ。私からのこんなに真っ直ぐな好意を、行為を勘違いして、ケジメとかつけようとして。
あぁ、でも思い出した。私は、先輩のそういうところが大好きだったんだ。
真面目で、優しくて、好きな人を見つめ続けるだけで話しかけになんていけないままの先輩が。決して、自慢したいからだとか利用するつもりだとかで、私に接さない先輩が。
私をただの女の子として見てくれる、先輩のことが。
「先輩は、にぶにぶ野郎なんです。本当に反省してください、一生反省してください!」
「…………はい」
「先輩は、だからダメなんです! 私のこと5年も待たせておいて、しかも連絡の1つもなくて。やっと感動の再会だっていうのに、花束の1つもなくて…………ッ」
だから、なんだっていうんだ。そうだ。自分の中で答えなんて、先輩を見たときから決まっている。
「…………でも、そんな先輩のことが、ッ大好きなんです!! 先輩の思い出と言葉だけで5年間生きてたぐらい、今でも先輩のこと────んッ!?」
その瞬間。息が出来なくなった。先輩の顔がど真前にある。先輩の熱を感じるくらい、近い距離にいる。
先輩の分厚くなった手が、私の肩を掴んでいた。先輩に、抱き寄せられたんだ。
それは、何のために?
「それ以上言われっぱなしのわけにはいかないから、いつかの仕返し」
──────息が、止まった。
いつかの私のように強引に私の唇を塞いだ先輩は、くしゃりと笑って口を開く。それは懐かしい、私の大好きな笑い方だった。
「待たせて本当にごめん。…………桃、好きだよ。俺もいつの間にか桃のこと好きになってたって、離れてからやっと気づいた。今更遅いかもしれないけど、まだ間に合うかな?」
ドクドクと、さっきから心臓がうるさい。先輩のその一言だけで、涙がこぼれ落ちそうになった。
嗚呼。きっと私は、先輩に出会うためにかわいく産まれてきたんだ。私の『かわいい』は、先輩を手に入れるためだったんだ。運命として手繰り寄せるためだったんだ。
このために、今まで生きてきた。
「間に合うに、決まってるじゃないですかッ!」
「あーーもう、そんなに泣かないでくれよ」
「だって、ッ、嬉しくて……ッ!!」
ダメだ。言葉にすると、余計に泣けてきた。
自分で言った言葉のせいでさらに泣き出した私を優しい眼差しで見つめている先輩は、溜息に混ぜるようにポツリと呟く。
「…………本当にかわいいな」
だから私はこの想いを全て伝えるために、この5年分を吐き出すように、涙を勢いよく拭って先輩に抱きついた。
「当たり前じゃないですか。私は先輩のために、今日も明日も世界で一番かわいい加賀谷桃なんですから」
先輩のためだけに、一生かわいいんですから。
加賀谷桃を最後まで見守ってくださり、ありがとうございました。
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