六 助け舟
「咲夜ぁぁぁぁあ!!」
賽の河原に、バカでかい声が響き渡った。
ええい、どこのどいつだ。こんな静かな場所で大声だして、あたいの安眠……じゃない、休憩を邪魔するのは。
「咲夜! 返事をしなさい! 咲夜ぁ!!」
返事したくったって、できゃしないよ。幽霊は人や妖怪のようには喋れない。死人に口なしと言うとおりだ。
尖った牙と爪。真紅の瞳。背中には悪魔の証の、蝙蝠の羽。
間違いない、紅魔館の主だ。そして間違いなく、例の件がらみだ。ああもう、厄介なことになってきたなあ。ちゃんと話は通したんじゃなかったんですか? 四季様。
絡まれる前に逃げるか。
そう思ったけど、ぐるりと巡らされた顔と目が合った瞬間、とっくに手遅れだったことに気づく。
跳ね起きて駆け出す間もあらばこそ、一足飛びに目の前に迫ったそいつの手が、あたいの胸ぐらをがっしり掴んでいた。
「待て待て待て! 落ち着け! ストップ!」
「答えなさい。咲夜はどこ?
……まさかもう、お前が向こう岸に渡したって言うんじゃないでしょうね……」
じわりと力が込められる手と、その声は、かすかに震えていた。
「オーケー、オーケーわかった穏便かつ率直に済ませよう。あたいはあんたの従者の魂を運んでない。本当だ」
「じゃあ、まだ咲夜はここにいるのね!?」
「いないよ」
ぎり、と襟首が悲鳴を上げた。おいやめろ! 着物が裂ける!
「……どういうこと……?」
「四季様から聞いてないのかい? 今回……十六夜咲夜だっけ? あいつの魂は、うちの特別徴収係が持ってった。直行便でね。通常の亡者のルート、つまり三途の河は通っていないんだ。今頃はとっくに河の向こっうわああああああ!?」
体が浮いた。
ものすごい力で、引っ張り上げられている。耳元で鳴る、風切り音。
こいつ、人を掴んだまま空飛んでやがる!
そう思ったとたん、ぐるんと視界が逆さまになる。
そこに疑問を差しはさむ間もなく、あたいと小さな吸血鬼は、頭から冷たい水の中に突っこんで、直後に、ごん、という鈍い音が、頭蓋骨いっぱいに響き渡った。
『痛っっっっってぇぇぇぇぇ!!!!』
まだそう深くない川底の石に、したたかに頭を打ちつけたあたいは、そう叫ぼうとしたけど、もちろんゴボゴボゴボと口から泡が吹き出しただけだ。いや痛い、マジで痛い。死神じゃなかったら死んでるとこだ。
痛みをこらえて、なんとか体の上下を入れ替え、膝と腰を伸ばしたら、頭は容易に水面に出た。胸まで水に漬かっちゃいるが、足は届く。……だから痛いんだけどな!
「ぶあっ、は!!
げっほ、ごほ……あ~、くっそ……。いきなり何しやが……って、あれ?」
あたりを見回した目に、少し離れた水中を流されていく、白っぽい影が映る。
一瞬、ほっとこうかとも思ったけど。
「はぁ……ったく」
距離を縮めて服をつかみ、水面に引っ張りあげてやる。別にそんな義理はカケラもないけど、なんとなく、ほっとけない気もした。我ながら、お人よしが過ぎる。
「ぶはっ! げふっ、げふ……。
ぐっ……わあああああ……!!」
あたいの腕の先で、ずぶ濡れの少女が、水をしたたらせながら叫び、体をこわばらせ、背中の羽をばたばたと激しく、けれど弱々しく動かしている。
飛ぼうとしている。それはわかる。だけど、さっきの暴風のようなベクトルは、一向に生まれる気配がない。
そりゃあそうだ、だってここは、境界を定める流れ水の上。そしてこいつは。
「何やってんだよ、あんたは。吸血鬼が三途の河を飛び越えられるわけないだろ……」
ざぶざぶと岸に上がり、濡れ雑巾みたいになった紅い悪魔をその辺に放り出してから、舟に腰かけて、ひとまず息をついた。
まったく、どうしてくれようか。そう思って、うずくまる影を見下ろしたけど。
「うっ……ぐっ……ふぐっ……」
うなだれ、歯噛みしながら、河原の石をがりがりと引っかいている。そんな姿を見ていると、なんかこう、怒る気もなくなってきた。
「あきらめなよ。河を越えたところで、連れ戻せるわけじゃないんだし。それに人間なんて、どっちみち百年もしないうちに……」
「……乗せて」
「え?」
「乗せろ! お前の舟で、私を向こう岸まで運べ!」
「……はああああああ!? バカ言うんじゃないよ! 吸血鬼なんか乗せてみろ、あたいも舟ごと沈んじまうよ!」
「うるさい! やれ! 殺すぞ!」
おー、やれるもんならやってみろ。そう言おうとした声が、口から出るより前に。
「向こう岸へ、行きたいの?」
細い少女の声が、横合いから響いた。
「なっ……あんたっ……!」
空間の隙間から湧き出した影。
紫のドレスに、揺らめく長い金髪。幻想郷の、管理責任者────!
「八雲、紫……」
呆けたようにそいつを見上げる吸血鬼の、口からその名がこぼれ落ちた。
「……いったい、こんなところに何の用だい? こいつの従者の一件なら、うちが普通に処理するってことになってるはずだけどねえ……まさか」
問いただしつつ、木に立てかけてあった大鎌を手元に引き寄せる。つっても、これあんまり武器としては役に立たないんだけど。まあ、無いよりマシだ。
「ええまさか、地獄の沙汰に手出しも口出しも致しませんわ。ただちょっと、裁判の行方が気になったので、これから傍聴しに行くところですの」
広げた扇子をゆったりと動かしながら、幻想郷の賢者は笑う。ころころと、と表現するかもしれないね。こいつの本性を知らないやつなら、だけど。
「は? いやいやいや傍聴ってあんた、そんな勝手に」
「……河を、越えられるの?」
「もちろん、私の能力なら。一緒に行きます?」
「連れていって! お願い!」
「了解」
にっこり笑って、ぱちんと扇子を閉じるスキマ妖怪。
「ちょっとまてぇ! んな無茶苦茶なこと、されてたまるかぁ!」
慌てて間合いを縮め、腕を伸ばす。
けれど一瞬遅く、目の前で開いた空間の裂け目が二人を飲みこむと同時に掻き消え、捕まえようとした手は空を切った。
「くっそ……あ~、も~……」
前代未聞だぞこれ。どーすんの?
……まあ、いいか。あたいのせいじゃないし。仕事の範疇でもないし。不可抗力、不可抗力。知ーらない。
濡れてしまった足袋と下駄を脱ぎ、舟の舳先にひっかける。服は……うーん、幽霊ばっかとはいえ、ここじゃ流石に、なあ。そのうち乾くでしょ、たぶん。せめて裾を絞って、できるだけ水気を落とす。
やれやれ、今日は散々だ。ため息をつきながら、ごろんと舟の上に寝転がる。と、幽霊が一魂よってきた。
────あの~。舟は、まだ出ないんでしょうか?────
死人に口はないが、言いたいことはわかる。こちとら腐っても死神だからね。
「まだだねぇ。だって見ておくれよ、アレのおかげで濡れネズミだ。こいつが乾くまで運行は見合わせ、再開の目処は立っておりませーん、ってね」
────はあ……────
ふらふらと、幽霊は離れていった。まったく、どいつもこいつもせっかち過ぎるんだよ。もっとこう、のんびり行けばいいのにさ。まあ、誰かに会いたくてたまらないって気持ちは、わからなくもないけどね。
……はて、あたいは誰に会いたかったんだっけ?
ちょっと、何かが気になったけれど。
思い出そうとする意識に、眠気が圧勝した。