五 届かぬ手
七日は、あっという間に過ぎた。
今日も厚いカーテンに覆われたままの窓の向こうには、薄暗く赤い空の気配が横たわっている。それも間もなく、月と星だけが照らす闇へと変わるだろう。
本のページをめくりながら、私はきょう何度目か、部屋に張り巡らせた結界に意識をつなぎ、その働きをチェックした。
私とレミィと、そして咲夜だけがいる空間を包む、七種複合、二十八層の遮蔽壁。それは今も間違いなく、正しく機能し続けている。
でも……
目を閉じ、頭によぎった考えを振り払う。やれることは、すべてやった。それだけだ。
ティーカップの底に薄く残っていた液体で、ほんのわずかに喉を潤す。
推測どおり、あの閻魔は期限の今日まで、何者も遣わせてこなかった。
温情からか、それとも何か意図あってのことか、もしくは単に事務が面倒だからなのかは分からないが。冥府の内情までは、私もそう詳しくはない。
しかしいずれにせよ、敢えてこちらに期限を伝えてきた意味は一つだろう。
その時までに、整理をつけておけ……と。
けれど、当然ながら、何も変わりはしなかった。
ただ、紅い冷気が日ごとに重く、深く、部屋に満ちていっただけ。
……私にできることは、もう無いのだろうか。
本当にもう何も、すべきことは────
「ねえ、レミィ……。咲夜を、解放しても、いい……?」
この一週間、毎日問いかけていた言葉を、私はまた、レミィの背中に投げかけた。
本当は、それが一番いいはずなのだ。
咲夜は死ぬ。
死んで、常世の彼方へと去る。
その結末が、変わらないのなら。
その時は辛くても、あきらめはつく。
是非曲直庁とも、余計なしこりを残さずに済む。
だけど、やっぱり今日も、その言葉に返事は返ってこない。
────解放して、しまおうか────
ふと、そんな考えが頭に浮かぶ。
レミィの了解など得ず。私だけの意志で、咲夜を。今すぐに。
そうすれば……レミィは、私をなじるだろうか?
罵ってくれるだろうか?
あの日、そして今日まで、ただの一言も私を責めなかった彼女でも、流石に。
そして、あるいはもっと苛烈な罰を……私に下してくれるだろうか────?
そうするべきではないのか。
もしかしたら、それこそが今、私の成すべき、ただ一つの────
「……私は」
椅子の上から、声がした。
小さく、弱々しい声。
一週間ぶりに聞く、レミィの声が。
思わず息を飲み、ソファから立ち上がる。
「ただ、私は……」
続く言葉を聞き逃すまいと、精いっぱい耳をそばだてる。
視線の焦点は、椅子に座るレミィの背中。
それ以外の部屋の風景は、ベッドも、ベッドの上に眠る咲夜も、その向こうの人影も、すべてがぼやけて見えて。
だから、そいつに気づくのが遅れた。
「……っ!?」
白い着物を着た、長い髪の女。
弾かれるように顔を上げたレミィの向こう、咲夜のすぐそばに立った、そいつが。
冷たい目で、咲夜を見下ろしながら、音もなくその胸に向かって、手を伸ばし。
「触るなっっっ!!!!」
叫びと共に椅子が蹴り飛ばされ、私のすぐ横を吹き飛んで壁にめりこむより速く。
咲夜の体の真上で、飛びかかったレミィの鋭い爪が、そいつの体を、何の抵抗もなく、すり抜けた。
「なっ……!?」
爪だけではない。レミィの体自体も、そいつを通り抜けて、宙返りしたその足がベッドの向こうに着地する刹那、振り向きざまに空を薙いだ、真紅の槍も。そして、遅れて私が放った幾つもの、拘束用の光輪も。
そいつの着物の裾すら、揺らすことはできなかった。
「ぐっ……!!」
レミィが顔をゆがめ、呻く。
やはり、位相が違う────
いま目に見えているソレは、この世界に落ちた死神の影にすぎない。本体は、世界の壁の向こう側にいる。
レミィの爪も、私の術も、そこには届かない。
巫女か、あるいはあの境界の支配者なら。だが今またそんなことを考えたところで遅い。
まるで私たちなど存在しないかのように、死神の腕が、咲夜の胸の中へ突き入れられた。そしてゆっくり引き抜かれたその手と一緒に、つかまれた何かが、咲夜の体から抜け出していく。
咲夜の魂。
うっすらと、けれど確かに、咲夜自身の面影を残した幽霊。
その目は肉体のそれと同じく閉じられ、やはり眠っているかのように見えた。
駄目だ。持っていかれる。
「待て!
待って!!
咲夜っ!!!」
何かをつかもうとするレミィの手が、中空に伸ばされる。
「私は! まだ、言わなきゃいけないことがっ……!!」
かすれ、割れかけた声に。
ほんのわずか、咲夜の幽霊が、目を開きかけたように見えた直後。
その姿は、死神ごと、跡形もなく消え去っていた。
静寂の長さは、何秒ほどだったろうか。
レミィの腕が、ぱたりと力なく下ろされるのを見届けてから。
目を閉じ、深呼吸をして、そしてゆっくりと口を開こうとした、その瞬間。
爆発的な力の奔流が、レミィを中心に渦巻いた。
「っ!?」
とっさに魔法で窓を開け放つ。
ほぼ同時に、灼熱に燃える真紅の矢が、その隙間を雷光のごとく疾り抜け、夕闇の空の彼方へと飛び去った。一瞬遅れて轟と風が鳴り、私と咲夜の髪を、服を、ランプの炎を、カーテンを、あやうく粉々になる運命をまぬがれた窓を、ばたばたと大きく揺らしたが、それもすぐに止んだ。
「レミィ……!」
窓に駆け寄り、赤と青の半々に染まった空を見上げる。けれど、もはや彼女の姿も、その痕跡も、どこにも見ることはできなかった。吸血鬼レミリア・スカーレットの、遠慮も加減もない、本気の飛翔だ。追いつくことなど、誰にもかなわない。
もっとも、行き先はわかっている。今からでも、追えば彼女をそこで見つけることはできるはずだ。
しかし、仮にそこに行ったとて、いったい私に何ができるだろうか。
そう……きっと、何もできはしないのだ。
ならば――――
暮れてゆく湖の景色を、しばらく見つめた後で。
窓枠から、無意識に跡がつくほど握りしめていた手を離す。そっと窓を閉め、床に放り出していた本を拾って、私はまたソファに腰かけた。
親友の、帰りを待つために。