二 後悔
「地獄の閻魔様が、いったい紅魔館に、何の御用で?」
……あまりに答えのわかりきった質問だとしても。
招かれざる客にはそれを問うのが、他の誰でもない、門番の役目だった。
乾いた唇から吐き出した言葉は、不恰好に引きつり、少し震えていたけど。
「ええ。この屋敷で、死者の魂が不正に留置されているとの報告があったので、その確認です」
審判の紋章を擁した、大きな帽子。手には、神罰を下す笏を携えて。
四季映姫・ヤマザナドゥ。冥府の裁判長が、そこに立っていた。
今日は新月。夜を照らすのは、星明りと小さな門灯だけ。
深い闇の中に浮かぶその表情は、左右非対称の髪型のせいか、笑みにも、冷徹にも、怒りのようにも見えた。
「……生憎ですけど」
ひとつ唾を飲みこんで、私は言葉を続ける。
「通してよい、と言われてませんので。今日のところは、お引取り願えますか」
「そうは行きませんね、私も仕事ですから。許可が無いなら、もらってきてください」
「……出ませんよ、許可なんて」
出るわけがない。お嬢様の、あの様子では。
私なんかじゃ、咲夜さんの部屋に入ることさえ、ためらわれるというのに。
「出ませんか。なら、押し通るしかありませんね」
あっさりと、軽い調子で言い放つ。
雨降りだから家にいましょうとか、服が汚れたから洗濯しましょうとか、そんな感じで。
実際、軽いことなんだろう。この人にとっては。
「はあ……」
やるしかない、か。
止められるとは、とても思えないけど。
腰を落とし、気をまとって小さく構える。
と、屋敷の扉が開いた。
「構わないから、通しなさい」
振り向いた先には、大きな本を手にした七曜の魔女。その陰に隠れるように、小悪魔の姿も見える。
「パチュリー様……それは、お嬢様が?」
一応、それを聞く。無いだろうな、と思いながら。
「いいえ。でも、いずれこうなることは分かっていたのだし……それに、たとえ拒んだところで帰りはしないでしょう、その人は」
ため息まじりに、強引さには定評のある客を見ながら言う。
「無闇に事を構えても、うちの立場が悪くなるだけ。通しなさい、案内は私がするから」
「……そう、ですね……」
しょうがないこと、なんだろう。
生死の巡りは、天地の理。それを乱すことは……少なくとも是非曲直庁は、決して許さない。
どうせ私には、動かしようもないこと、か────
私も小さくため息をついて、言われたとおり、身を引こうとした時。
「自己評価が低い」
笏の向こうから不意に飛んできた言葉が、耳に突き刺さった。
「……え?」
「それが貴女の、罪の根源ですね。そうなったのは、その生まれゆえですか」
首筋の毛を、ぞくりと冷たい風が揺らす。
「何の……話ですか?」
「自分は取るに足らない存在だ。大したことなどできない。与えられたこの仕事も、さして価値のあるものではない。……そう思っているから、簡単に気が抜け、手も抜ける。そういう話です」
その声は、どこまでも淡々として、だけど割れたガラスみたいに鋭かった。
「違っ……私はっ……」
今度は、はっきりと喉が震えていた。それを支える肩も、膝も。
「だから特に、手強いと思った相手には、あきらめが先に立つ。単に突破されるのみならず、時には気づかぬふりで通した。結果、あのガラスの破片が生まれ、その運命を与えられるに至った」
「それはっ……! お嬢様が、あの人間をそれほど問題にしてなくてっ……!!」
駄目だ。無駄だ。抗弁など、何もかも。
だって、この人には、すべてが見えているんだから。
「そして、あの日も。貴女が立ったまま居眠りなどしていなければ、もう幾らかは早く屋敷の異常に気づいて、そうすれば」
「やめろっ!!!!」
認められない指摘を、渾身の叫びで、打ち消そうとしても。
吐いたその気と一緒に、私から全ての力が逃げさっていく。
「やめ、て、ください……」
指摘されるまでもなく、とっくにわかってたこと。
ただ、認めたくなかっただけ。
「因果は所詮、根源たる陰陽の踊りに揺らぐもの。ことの責任が本当に貴女にあるかどうかは別の話です。ただ、結果はどうあれ、貴女は自分が成すべきことをしなかった。故に」
びしりと、その手に持った笏が突きつけられる。
「貴女は今、その罪の重さに裁かれているのです」
冷たい瞳が、私を見下ろしている。
さっきよりずっと高く、空の上から。
高みから?
違う。私が落ちているんだ。大地に向かって。
両膝が、土にめりこむ音がした。
地面が持ち上がって、私の目の前に迫ってくる。顔までがそこに叩きつけられようとするのを、伸ばした両の手のひらで、かろうじて支える。
「認めたところで、救われはしませんけどね。
犯した罪は、決して消せない。
それを赦せる者も、今はいない」
頭の上から、言葉が降ってくる。
その鋭い刃で、私の首を落とすかのように。
「よって、貴女の評定は、黒。そういうことです」
「……は……ははっ……」
乾いた笑い声。
唇からこぼれ、地面に落ちる。
すみません、咲夜さん。
もう二度と、あなたに褒めてはもらえない。
頑張ったのねって、言ってもらえない。
こんな日がくる前に、もっともっと、頑張っていればよかったのに。
閻魔様の言うとおり。いまさら後悔したって、何もかも遅い。
だからもう、私には。
ひたすら頑張る道しか、ない。
土を押さえつけていた掌を、拳に変える。
くずおれた膝を立て、地面を踏みしめる。
『お前は出来損ないだ』
そうだ。昔、ずっと昔、そう言われたっけ。
『お前は龍には成れない』
『だが、お前にしか成れないものもあろう』
『その勤めを、精一杯はたせ』
立ち上がり、顔を上げたその先で、招かれざる客の唇が動いた。
「そう、それが今の貴女の積める、善行です」
ひゅう、と音を立て、強く、深く、息を吸う。
全身に気が満ち、心臓に熱い火が入る。
後ろでパチュリー様が何か言っている。
でも、これが私の仕事ですから。
「自分の成すべきことを、成しますか?」
「無論」
「結構。始めましょうか」
私は門番。紅魔館の門番、紅美鈴。
何者だろうと、黙って通しはしない。