三 いつか、その日まで
「まさしく、お前の言うとおり。地獄は魂を清め、あとくされ無く来世へ送るが仕事。だからこそ、それに携わる我らは、亡者と縁を作らぬように心がけねばならん。……事前の学科でも最初に教えられたはずだな?」
大きな椅子に大きな身を沈め、私を冷ややかな目で見下ろしながら、都市王猊下は重々しく言った。
「はい……仰るとおり、です……」
業炉で見たもの。思い出したこと。あのあと猊下の執務室を訪ね、すべてを包み隠さず報告した私は、ただうなだれて、そう言葉を返した。それしか返せる言葉はなかった。
恥じいるなどという言葉で表せるものではない。ほんの気まぐれの偽善から出た言葉が、ひとつの魂の運命を狂わせ、多くの罪を犯させたのだ。地獄に落ちるに値する重罪人──それが私だった。
「したことの意味は理解しているか。で、どうする」
私から視線を外して、ぐるりと椅子を回し、横を向いたまま猊下は問いかける。
「……取り返しようも、改めようもありません。閻魔を目指すものとして、ありうべからざる失態、ただちにお役御免と……」
「たわけ」
みずから身を処したつもりで下げた頭に、ぱこんと言葉が投げつけられた。
「……は?」
「お前ひとりをここまで育てるのに、どれだけ予算と手間をかけたと思っておるのだ。簡単に辞められてたまるものか。失態は失態、反省は必須。その上できりきり働いてもらうぞ。いかに未熟とて、同じ過ちを繰り返すほど、お前も愚かではなかろうが」
横目で私を見据えながら、胸の前で両手の指を組んで、ふんと鼻を鳴らす。
「し、しかし……! 罪を裁くべき者が罪業を生むなどとは、部下になる者にも、組織としても示しが……!」
「罪業……な。
だが、果たしてどうかな?」
そう言って猊下は椅子から立ち上がり、壁にかけていた上着を羽織る。
「え……それは、どういう……?」
「それを今から確かめにいくのよ。お前もついてこい」
つかつかと部屋を出て行く。私も慌てて後を追った。
向かう先は、叫喚地獄地下、魂の業炉。
◆ ◆ ◆
「これは猊下。状況の報告については……そちらのかたから、お伝え頂いているかと存じますが」
さっきと同じ、ごうごうと燃える炉の前で、業炉の鬼長は、うやうやしく頭を下げてそう言い、ちらりと私のほうに視線を向けた。
「うむ。一応、直接それを見せてもらおう」
「は。ではこちらを……」
炉の小窓が、再び小さな音を立てて開く。
灼熱の炎の中で、やはり変わらずそれは燃えていた。噴き出す蒸気に、私の顔を映して。
直視できず、つい、それから顔をそむける。
猊下はしばらく炉の中を見ていたが、やがて口を開いた。
「……ふむ、なるほどな。
確かに宿業深く、地獄の責めをもっても濯ぎがたし。
よって、この魂魄は転生の環に戻せぬものと判断し……」
ああ、やっぱりそうなるのか。
噛みしめた唇が、ぶつりと音を立て、口に苦い味が広がる。
ごめんなさい。私が余計なことをしたせいで、貴方は────
「……本庁規則の第三百四十八条、第三項を適用する」
そう、三百四十八条の────え?
第三項?
慌てて顔を上げ、猊下を見上げる。
ほう、と鬼長が首をひねった。
「第三百四十八条、輪廻除籍の措置に関する条項……でございますな。たしか第一は、焦熱地獄の覚由業炉による完全焼却、つまり魂の破壊……」
「そうだ。第二は奈落の底にて、この世の終わりまでの冷凍刑。そして第三は……」
そこまで言って、猊下は言葉を切り。
すいと横目で私を見下ろした視線が、その先を述べるよう、静かに促す。
「第三項、は……その魂に、地獄の住人たる、新たな器を与え……」
かすれた声が、渇いた喉から言葉を搾り出した。唇が震える。
「……是非曲直庁の監視下に置くと共に、その一員として、任に当たらせる……」
「その通り。炉を開けよ」
がこんと硬い音を響かせて、扉が開く。
あふれ出す、灼熱の業火。
金色の輝きが、瞳を焼く。
吹き出した猛烈な熱風に、思わず私は腕で顔を覆う。しかしそれを意にも介さず、猊下は無造作に炉の中へ手をつっこみ、その魂をつまみ出した。
すぐに釜の蓋は閉じ、腕を下ろして息をついた私の前に、
「この者の扱い、お前に委ねる」
青白く焼けた炎の玉が、言葉と共に突きだされた。
「え……私、が……」
「これはお前の罪、お前の業。故に背負うのも、お前以外には無い。違うか」
低く重く、響く言葉。私を強く見据える視線。
一瞬、目を逸らしかけた、けれど。
私は強く口を結び、両手を前に差し出した。
うむ、と小さく頷いて、猊下はつまんだ魂を私の手の上に置く。
その熱に手のひらが焼け、指が震える。
いや、震えは熱さではなく、その重さゆえか。
吹けば飛んでしまいそうなほど、はかなく軽いのに。
背負い続けられるだろうか。この熱さを、この重さを。
今もこんなに心が揺れる、小さく頼りない私が。
「……なに、そんな深刻な顔をすることもない。
現世に放てば罪業なれど、常世に在ればただの腐れ縁。
善も悪も、所詮は同じ事実の別の切り口に過ぎん。
三途の果てに向かう道は、その階梯から跳躍した場所にある」
頭の上から、言葉が降ってくる。
重々しく、そして柔らかく、心の底にしみいる声。
「それの処遇を決めたら、必要な書類をまとめて持って来い。それと同時にそなたを裁判長の列に加え、正式に法廷に配属する。よいな」
「えっ!? そんな、まだ私は……」
驚きに顔を上げ、声を上げようとした。こんな未熟者などが、と。
しかし、
「問答無用。儂が資格十分と認めたのだ。そなたに自信があろうとなかろうと、な。
……ま、本当はもっと別な仕事が向いているのかも知れんが……いやどうして、なかなか見事な慈悲の微笑みだったぞ! 伊達に路傍で長年つとめてはいないといったところか! わはは!」
目を細め、大声で笑う。
「げ、猊下! そんなお戯れを……!」
業炉に照らされた時よりも熱くなった顔を、慌てて伏せる私に背を向け、あっはっはと高く笑いながら、都市王猊下は去っていく。私は、いまだちりちりと燃える魂を両手に抱いたまま、その姿をただ見送った。
業炉の鬼長はしばらく所在なげにしていたが、やがて、じゃあ私はこれで、と言って仕事に戻っていった。
ごんごん、ごうごうとあちこちから、施設の働く音が響く部屋の中に、私は長い間一人で……いや、一人と一つで佇んでいた。
真理は善悪から跳躍した所にある、か────
私ごときでは、まだまだそこに至れそうもない。もしかしたら永遠に。
ならせめて、この事実をただ受け止めること。それだけがきっと、私がやるべき最初の仕事。
まだ、覚悟、なんて大層なものはない。それでも。
「……ふふ」
今の自分なりに観念ができたか、つい唇のふちが緩む。その半分は苦笑いだけど。
手の中で燃える炎の玉が、ぱあっと明るくなったように見えた。
◆ ◆ ◆
『怠慢』
『居眠り』
『職場放棄』
三つの罪を書き記し、その分だけ重くなった悔悟棒を、私は思いっきり振りかぶり、桜の木によりかかって寝ている死神の脳天に叩きつけた。
「んぎゃっ!?」
もんどりうった弾みで顔面から地面に落ちた彼女は、やや間を置いて、頭と顔をさすりながら体を起こし、私を見上げる。
「痛たたた……。あ、四季様……」
「あ、じゃありませんよ小町。なんですかこれは」
小町。そう名づけた死神──三途の河の渡し守の、おでこを追加でぺちぺちと叩いてから、棒で岸辺のほうを指し示す。
うっすらと霧のただよう河のほとりは、幽霊でひしめきあっていた。
「あ~……。いや、その、ですね。別にサボるつもりとかなかったんですよ? でもここ数日、急に他の区域からの流入が増えてて、それでちょっと休憩……」
「『言い訳』に『責任転嫁』と……」
「うわわわわ、ごめんなさい! サボってました! すみません!!」
「まったく……」
ああ、最初のころはもっと、まじめな奴かと思っていたのに。
私の目が届かないと、すぐサボる。いや、正しくは、私の顔が見えない場所だと、か。
かといって、あまり近くに置いたら置いたで、私の顔ばかり見て働かないのがこいつなのだ。近すぎず、遠すぎず。これくらいの距離で飼いならすのが、どうやら丁度いいらしい。
こうして、いちいち様子を見に来ないといけないのは、なんとも面倒だけど。自業自得だから、仕方ない。
「……反省や、謝罪を述べたところで、減刑にはなりませんよ?
自分の仕事を果たしなさい。それが貴方の積むべき善行です」
小さくため息をつきながら言う。
と、小町の顔が急に、ぱあっと明るくなり、ぴょんと勢いよく立ち上がる。
「あっはい! やります! すぐやりますからね! じゃんじゃん運びますから待っててください、大船に乗った気分で!」
いけない、やってしまった。つい、笑みが出ていたらしい。
「何が大船ですか。泥舟がいつ沈まないかと、戦々恐々ですよ、いつも」
内心の焦りは隠して、顔を引き締め、仏頂面に戻す。
「え~ひどいなあ。それなら、そろそろ舟の新調……」
「で、すぐ、というのは何日先のことですか?」
「今! 今です! 今すぐに!」
いまー、と叫びながら小町は河原を駆けてゆく。途中で目についた幽霊をひっつかむと、乱暴に舟に放りこみ、勢いよく漕ぎ出して、すぐに河霧にかすんで見えなくなった。
「……困ったものですね、本当に……」
小町が、ではない。私がだ。また同じことを繰り返してどうする。確かに効きすぎるくらい、よく効くのだけれど。
反省したところで、成してしまった事は取り返しがつかない。未熟者め。
ともあれ、ようやく小町もやる気になったようだし、亡者の列も動き出すだろう。私も戻って裁判の準備をしなければ。
腕を頭の上にあげ、うーんと大きく伸びをする。
「さて……仕事、仕事っと」
そうやって、この広大な魂の円環のほとりを、悩んで、苦しんで、笑って、歩いていけば。
きっといつか、この腐れ縁も切れるのでしょう。
世界が終わる、その日までには────